アーカイブ
中央管理区のロビーを抜けて少し歩くと、建物の内部は一気に薄暗く静かな空気に包まれていた。長い廊下の先に、壁面を埋め尽くすように並んだ透明パネルが浮かび上がる。そのパネル群はまるで巨大な図書館の書架のようで、本の代わりに無数のデータが収められているらしい。
「ここから先が、その……メインシステムにアクセスできる区画ってわけか? ええと……アミリア、どうすればいいんだ?」
思わず足を止めた俺を見て、アミリアはにこりと微笑んだ。猫のぬいぐるみをしっかり抱えたまま、すぐそばのパネルに手をかざす。
「マスター、まずは楽園に住んでいる人々のデータを見てみませんか? ここには利用者の基本情報が一覧できるんですよ」
「うわぁ……なんか、次元が違うな」
パネルに浮かび上がる膨大なリストを前に、俺は素直に感嘆の声を漏らす。人々のアバター名や居住エリアが整然と並び、指先ひとつで切り替えられるようだ。まるで巨大なインターネットの中をダイレクトに覗き込んでいるような感覚。
「ここに登録されているだけでも相当数いますけど、全員がこの“アーカイブ”を開示しているわけではありません。公開設定にしている人の分だけが、こうしてリストで見られるんです」
「それでも、すげぇ人数だな……」
一覧をスクロールするたび、様々なアバター名やプロフィールが流れていく。どうやら電脳化を選んだ時期も異なれば、生前の年齢や職業も千差万別。中には前にマーケットで見かけたような、奇抜な服装のアバター写真もあった。
「人間が自分の姿を自由に変えられる世界……それだけでも驚きだけど、ここじゃ生活スタイルも何もかも自由に決められるんだよな」
「ええ。肉体的な苦痛や制限がない理想を求めて、多くの人がここに集まったんです。仕事やお金の概念は必要最低限ですし、争いも起きにくいように設計されていますから」
アミリアが言うとおり、俺が実際に街を歩いた限りでも、人々はみんな穏やかな笑顔を浮かべていた。けれど、ここまで完璧に整った環境だと、逆にどこか落ち着かない部分があるのも事実だ。
「なあ、お前は……アミリアは、ずっとこうして管理してきたわけだろ? 何千、何万という人のデータを見ながら」
「はい。厳密には、私ひとりというわけじゃないんですが、楽園には複数の管理システムがあって、私は“マスターの代理”として全体を見守るポジションにいました」
アミリアが言う“マスター”とは、俺のことじゃない。十年前にここへ意識を移し、それきり姿を消した、本来の所有者のこと。その人物を待ち続けていたアミリアの姿を思い出すと、少しだけ胸がざわついた。
「ところで、前に言ってた“アーカイブ”ってやつ。個人が公開してる記憶を覗けるんだよな?」
「はい。全部が全部というわけではありませんけど、自分で“見てもいいよ”って設定している思い出なら、こうして閲覧できるんです」
アミリアがパネルを操作すると、画面上に数多くのサムネイルが並ぶ。風景写真を集めたものや、大勢で遊んでいる様子を記録した映像データなど、ジャンルは幅広い。どれも生前や、あるいは電脳化後に撮った記憶をまとめたものらしい。
「SNSみたいなものか……」
名前とアイコンが添えられたアーカイブをいくつか開いてみる。例えば、あるユーザーは生前に世界中を旅していたらしく、その思い出の写真を大量にまとめていた。極寒の地でオーロラを見上げる姿や、砂漠でラクダに乗る写真など、まるで現実そのもののような臨場感がある。
「ここにいる人たち、もともとはいろんな国や時代の出身なんだろう? でも、みんなこうして同じ世界に集まっている……すごい光景だな」
「ええ。生前から交流があった人同士は、楽園に来て再会しているケースも少なくありません。逆に、ここで初めて出会って仲良くなる人たちもいますし」
アミリアの声はどこか誇らしげだ。楽園が多種多様な人々を受け入れ、ある種のユートピアを築いているのは事実なのだろう。実際、検索をかければいくらでも思い出や記憶が出てくる。高齢で電脳化した人もいれば、若くして事故に遭い、かろうじて意識だけ救われた人もいる。
そんな中で、俺はふと、アミリアがずっと言い続けていた“マスター”の存在を思い出した。俺にそっくりな姿をしていたという、その人物のアーカイブはないのだろうか。
「なあ、アミリア。お前が待ってた“マスター”の記録も、こうして探せるのか?」
思いきって尋ねると、アミリアはわずかに悲しそうな顔をした。
「……実は、それが見つからないんです。ごく一部の断片的なデータしか残っていなくて、どこかに隠されているのか、本当に失われたのか……原因は分かりません」
「隠されている、か。そんなこともできるのか?」
「利用者自身がアクセス制限をかけることは可能なので、意図的に非公開にしている可能性もあります。でも、それならマスターがわざわざ隠す理由があるはず……」
アミリアは複雑そうな表情で言葉を濁す。彼女は十年も待ち続けているのだ。そしてマスターの情報はいくら探しても見当たらない──彼女にとっては耐えがたい状況だろう。俺は何も言えず、軽く唇を噛んだ。
「……まあ、気にしてても仕方ない。ほかにも見たいアーカイブは山ほどあるし、ここで少し探ってみるか」
俺はそう言って、表示されているアーカイブのひとつをタップする。そこには、ある老夫婦の記憶がまとめられていた。生前は子どもたちを立派に育てあげ、人生の最終段階で電脳化を選んだという。写真には、穏やかな笑顔の家族とともに写る姿があった。
「こういう人たちもいるんだな。生きづらさや病気から解放されるために、この世界を選んだってわけか」
「はい。楽園に来てからも、家族がときどき会いに来て一緒に思い出を共有しているみたいです。実際に再会ができるというのが、この世界の大きなメリットですよ」
アミリアの言葉に頷きながら、画面をスクロールすると、いくつもの幸せそうな写真が流れていく。夫婦が若い頃に旅行していた風景、孫たちと遊んでいる様子、生前最後の記念撮影──すべてがデータになって、ここで生き続けている。
「リアルなのかどうか、確かめたくなるな……。この老夫婦と直接会って話ができるんだろ?」
「ええ、楽園内でアバターを使って会話できます。ただ、昔の姿を再現する場合もあれば、まったく別のイメージに変えている人もいるので、どこまでが“生前と同じ”かは分かりませんけどね」
そう言ってアミリアは笑うが、その目には微かな寂しさも混じっているように思えた。きっと彼女は、ここで暮らす多くの人の事情を見てきただろうし、そのうちの何人かは“マスター”に関わる存在だったかもしれない。
「よし……もう少し見てから、次に行くか。いろんな人生を知るのは悪くない」
「なら、共同体アーカイブにも立ち寄りましょう。大きなイベントやプロジェクトの記録がまとまっています。マスター……昔のマスターが参加した形跡があるかもしれません」
そう言うアミリアの言葉に、俺は小さく頷いた。どこかにきっと、手がかりはあるはずだ。
廊下をさらに奥へ進んでいくと、今度は左右に無数の扉が並ぶフロアに出た。扉にはそれぞれ違うプレートが掲げられ、“芸術コミュニティ”“スポーツ・リーグ”“研究開発部門”など、さまざまな名称が書かれている。
「この辺りは“共同体アーカイブ”の入り口ですね。どれか興味のある場所に入れば、中の記録が見られます」
「いろいろあるんだな……。あ、そういやスポーツってのはどうなってるんだ? 肉体がない世界でスポーツって成り立つのか?」
俺がそう尋ねると、アミリアはふふっと笑った。
「もちろん成り立ちますよ。ルールや感覚は調整されてますけど、動きや体感は現実とほとんど変わらないらしくて。むしろ、現実じゃ実現できなかった“超人的な競技”もあるみたいですね」
「へえ……それはちょっと見てみたいかも」
そう思った矢先、ひときわ大きな扉の前で足を止めた。扉には「グローバル・スポーツ・センター」と書かれている。なんとなく興味をそそられ、俺はそっとドアを開けて中を覗いた。
すると、そこは巨大なスタジアムのような空間が広がっていた。完全に仮想空間のはずだが、臨場感や観客の熱気までもが再現されているようだ。中央のピッチでは何かしらの試合が行われており、アバター同士が信じられないスピードでボールを蹴り合っている。
「……やっぱすごいな。まるで別の世界が丸ごと一つ入ってるみたいだ」
「記憶のアーカイブというより、この場合は“仮想スタジアム”のログですね。昔はサッカーのプロ選手だった人たちが中心になって作ったらしくて、今では世界中のファンが参加してるらしいですよ」
そう言ってアミリアは、スタジアムの空を見上げた。満天の星空が広がる屋根のないドームは、いかにも幻想的な演出だ。観客席から聞こえる歓声は、リアルと遜色ないほど熱狂的だ。
「へえ……俺が知ってるサッカーとはだいぶ違うけど、楽しそうだな」
ピッチ上の選手たちは、現実の人間じゃあり得ないジャンプ力やスタミナを発揮している。肉体の制限から解放された結果、プレイの次元が上がっているわけだ。
「もし興味があれば、いつでも参加できますよ。仮想体感システムを使って、自分のアバターに実際の運動感覚を与えられますから」
「そっか……まあ、俺にはハードル高そうだが」
正直、今の俺にはこうした娯楽を楽しむ余裕はあまりない。未知の世界に放り込まれ、まだ右も左もわからない状態だ。ひとまず扉を閉め、再び廊下に戻る。
「ほかにも似たようなコミュニティがたくさんあって、興味があるものを選んで入れるんですよ。音楽や芸術、学術研究、自然再現プロジェクト……。皆がそれぞれの得意分野や趣味を生かして集まり、ひとつの大きな共同体を作っているんです」
「それぞれの得意分野……か。確かに、こんだけ自由があれば何でもできそうだな」
その自由さは魅力的だ。だが同時に、これだけ多様なコミュニティがあるのに、どうして“マスター”に関する手がかりは見つからないのか。そう思うと、やはり不思議な気がする。
「……なあ、アミリア。お前が管理してたログの中に、昔のマスターが参加してた痕跡は本当にないのか?」
「正直、私も何度も探しました。でも、会議やイベントのログに“マスター”らしき名前やアバターが見つからないんです。ひょっとすると、別の名前を使っていた可能性もあるんですが……」
そう言いながら、アミリアは少し困ったように視線を落とす。俺は言葉を探しあぐねたまま、廊下を進む。
すると、廊下の一番奥に、少し古めかしい扉が見えた。ほかのコミュニティの扉とは違い、少し埃をかぶったようにも見える。
「なんだ、あそこ……?」
「“アナログ・アーカイブ”と呼ばれている区画です。楽園が完成してすぐの頃、みんなが昔の記録を持ち寄って保存した場所なんですが、最近はあまり利用されていないみたいですね」
アミリアの説明を聞き、俺はますます興味が湧いた。最新のデジタル技術で作られた楽園なのに、“アナログ”という響きがどこか懐かしい。
「行ってみようぜ。もしかしたら、そこに手がかりがあるかもしれない」
「はい、行きましょう」
俺とアミリアは扉を開ける。すると、そこには昔懐かしい紙の書類や写真、映像ディスクのようなものが散逸している。仮想空間なのに、まるで現実の倉庫に積まれた資料のようだ。
「わあ……本当にアナログですね。懐かしいな」
アミリアは猫のぬいぐるみを抱えたまま、埃を払いながら段ボール箱を覗き込む。そこには新聞の切り抜きや、手書きのメモらしき紙がぎっしり詰まっていた。楽園の黎明期、まだデータ化されていなかった記録らしい。
「一応、スキャンしてデータ化されてるはずだけど……みんながデジタルで管理したがるから、こういう古い形のままの記録って、あんまり見られないんですよね」
「なるほど。あれ……これ、なんだ?」
俺は段ボールの奥から、一冊の古びたノートを取り出した。表紙には英語とも日本語ともつかない文字が走り書きされているが、かろうじて読めるのは“Prototyping Log”という単語だけ。どうやら、楽園を作る前の試作段階で記録されたメモのようだ。
「これ、もしかして……誰か開発スタッフか研究者の残したノートか?」
「そうかもしれません。ちょっと読んでみますか?」
アミリアがノートを開くと、ぎっしりと手書きの文字と図が並んでいた。データの管理手順や意識アップロードの初期実験、それらに失敗したケースの記録などが断片的に書き連ねられている。中には“人格の分岐問題”や“記憶同調エラー”といった不穏な単語もちらほら見受けられた。
「……なんだこれ。楽園の開発初期には、いろいろトラブルがあったみたいだな」
「ええ。表向きは完璧に近い世界ですけど、その陰でかなりの試行錯誤があったんでしょうね」
ページを捲ると、最後のほうに“レポート提出:M.K.”というサインがあった。見覚えのないイニシャルだが、妙に気になる。もしこれが“マスター”と関係する人物なら、何らかの手がかりになるかもしれない。
「アミリア、この“M.K.”って誰か分かるか?」
「いえ……聞いたことがありません。少なくとも、私が知っている研究者や管理者にはいない名前ですね」
「そうか……」
結局、はっきりした情報は何も得られないまま、ノートを閉じる。だが、このアナログ・アーカイブにはまだまだ資料が山ほど眠っていそうだ。俺は少しだけワクワクした気持ちを抱きながら、埃を被ったファイルを持ち上げた。
「とりあえず、ここでもう少し調べてみようぜ。ひょっとすると、昔のマスターに繋がるヒントが転がってるかもしれない」
「はい! マスターのことだけじゃなくて、今まで知らなかった楽園の歴史も分かるかもしれませんね」
アミリアが嬉しそうに笑う。こうして、俺たちは“共同体アーカイブ”の一角にあるアナログな資料の山を当てもなく探索し始めた。いつしか廊下からは誰の足音も聞こえなくなっていて、仮想空間とは思えないほど静まり返った空間が広がっている。
埃の匂いと、遠い昔の人々の息遣い。それらが混ざり合いながら、俺の胸にかすかな期待を芽生えさせる。もしかすると、ここで“マスター”の秘密だけでなく、楽園という世界の核心に触れられるかもしれない。
そう思いながら、俺はページをめくる手を止められずにいた。