暴走 始まり
電脳楽園へ戻った瞬間、俺たちを包んだのは濃密な違和感だった。見慣れた街並みは薄暗く陰鬱で、かつての活気は跡形もない。空は灰色の雲に覆われ、太陽の存在すら感じられないほど光が乏しい。住人たちは無表情でうつろな目をして、目的もなく彷徨うように歩いている。その様子はまるで、精気を吸い取られた人形のようだった。
「これは……どういうことですか?」
アミリアが不安げに言った。その瞳には、見たことのない焦りが映っている。
「何かが大きく狂っている……」
俺の言葉に頷きつつ、アミリアは端末を操作し始めたが、その手が突然止まった。
「ログが完全に乱されています。これは、外部から何者かが干渉しているとしか考えられません」
「監視役か、それともリジェクターズか?」
「いいえ、それとは全く違うと思います。これはもっと……深刻な何かです」
アミリアの顔色が青ざめる中、俺たちは周囲の状況を確かめながら慎重に歩き出した。すると、すれ違う住人の顔が一斉にこちらを向き、虚ろな眼差しで凝視し始めた。その視線には明確な敵意はないが、それがかえって不気味だった。
「な、なんだこいつら……」
「住人たちの意識が、何者かに乗っ取られているみたい……。何か強力な干渉を受けているのかもしれません」
アミリアが震える声で呟く。その時、背後から足音が迫ってきた。俺たちは身構えたが、そこに現れたのはリリスだった。彼女の表情もいつになく緊迫している。
「マスター、アミリア、ここにいたんだね! 大変なことになってる!」
「リリス! これは一体何が起きてるんだ?」
「この異変は――もしかすると、過去のメルトダウンで亡くなった人々の意識が霊のように暴れてるのかもしれない」
「メルトダウンの霊だって……?」
「ええ、通常のプログラムやバグでは説明できない現象だから、その可能性が高い。実験やメルトダウンの過程で苦しんで亡くなった人たちの魂が、この世界に未練を残して囚われてるのかも……」
リリスが険しい顔で説明する中、突然、背後で強烈な視線を感じた。振り返ると、そこにはいつもアミリアが抱えていた猫のぬいぐるみが立っていた。その口は不自然に大きく裂け、鋭い牙が覗き、目は赤黒く禍々しい輝きを放ちながら俺たちを恨めしそうに見つめている。
「な、なんだよこれは……!」
『苦シイ……痛イ……お前タチモ道連レニシテヤル……』
裂けた口から響く禍々しい声。その瞬間、猫のぬいぐるみが異様な速さで俺たちに向かって猛然と襲いかかってきた。その動きは俊敏で、まるで獲物を狙う猛獣のようだった。
「逃げろ!」
俺たちは必死に駆け出したが、追いすがるぬいぐるみの速度は常識を超えていた。狭い路地に飛び込むが、その後ろからは悲痛で耳障りな叫び声が迫る。
「くそっ、何とかしないと!」
俺が焦りながら叫んだ瞬間、視界が急に歪み、身体が宙に浮くような奇妙な感覚に襲われた。目の前の景色が急速にぼやけて消え、全く別の空間が現れる。
「これは――」
次に目を開けると、俺たちは薄暗い空間に立っていた。そこにはあの見覚えのある男――監視役が静かに立っている。彼は何かに深く疲れたような険しい表情をしていた。
「お前ら、無事か?」
「監視役!? これはお前が……?」
「ああ、お前たちを救出した。あの状態では時間の問題だった」
監視役は重い口調で話した。その声は低く、何かを深く後悔しているようにも聞こえた。
「楽園は既に深刻な危機に陥っている。お前たちが考えている以上にな」
俺は胸の動揺を抑えつつ問いかける。
「一体何が起きてる? 説明してくれ」
「メルトダウンで死んだ者たちの霊が楽園内に蔓延している。奴らは未練や憎悪に縛られ、電脳空間を汚染し始めているんだ。このままでは、全てが崩壊する」
「そんな……」
アミリアの顔が蒼白になり、リリスも言葉を失っている。
「もう悠長に構えている暇はないぞ。ここから先は、命を懸けて対処する必要がある」
監視役の言葉が重く響く。俺たちはただ頷くしかなかった。
楽園は既に悪夢と化していた。そして俺たちに残された時間は、思っている以上に短いのかもしれない――。




