不穏な動き
その日の訓練を終え、俺とアミリア、そしてリリスは一度解散した。短時間ながらも密度の高いバトルシミュレーションをこなし、少しずつ電脳楽園での“戦闘”に慣れていく手応えを感じている。けれど、走り続けるだけでは消耗が大きい。休みながら進む――それが俺たちのやり方だ。
夕方、アミリアと共に宿泊区画へ戻ろうと大通りを歩いていると、彼女がふと足を止める。猫のぬいぐるみを胸に抱えながら、端末を取り出して何かを確認しているようだ。
「……どうした? 何かあったのか?」
「うん、少しだけ気になるログがあって。中央管理区から“メルトダウン”関連の古い書類が移動された、という情報が流れてたんです。でも、出所が不明でログファイルも途切れていて……」
アミリアは困惑したように眉を寄せる。メルトダウンについて、こんなタイミングで動きがあるというのか。俺は少し胸がざわつくのを感じながら、彼女の端末画面を覗き込む。
「…old meltdown docs relocated…???… permission denied…」
「要するに、メルトダウンに関する書類が別の保管場所へ移された、みたいな記録が残っているんだな。でも、移したのは誰かも分からないってわけか」
「はい……。監視役が関連しているのか、あるいは別の組織やAIが動いているのか……いずれにせよ、このログは断片的で正体不明なんです」
「怪しいな。とりあえず、どうやって調べるか考えないとな」
俺はアミリアにそう言いながら、視線を街角へ向ける。夕暮れの光がビル群を染め、電脳楽園の人々がそれぞれの夜を迎える準備をしているのが見える。穏やかな風景と、この不穏な情報の対比が何とも皮肉だ。
「……やっぱり、中央管理区に潜り込んでログを洗い直すしかないか? 以前も行ったけど、今は警戒が厳しいかもしれないし……」
「そうですね。私が持っている権限で入れる場所は限られていますし、監視役がどう出るかも分かりません」
アミリアは猫のぬいぐるみを抱きかかえたまま、考え込んでいた。しかし、しばらくしてふと頭を振り、笑みを浮かべる。
「まあ、焦っても仕方ないですよね。マスター、今日はもう休みませんか? リリスにも言われたように、無理をすると意識に負担がかかりますし」
「だな……。俺もぼちぼち体を横にしたいところだ。そっか、じゃあ一旦宿泊区画へ戻るか」
そう提案し、二人で歩き出そうとしたとき、アミリアが小さく「ふえっ?」と声を漏らした。猫のぬいぐるみがかすかに震えた気がしたからだ。
「お、おい……今の見た?」
「はい、さすがに気のせいじゃないような……。ごめんなさい、マスター」
アミリアは困り顔でぬいぐるみを覗き込む。まるで何かが反応しているかのように、耳のあたりがわずかに揺れているようにも見える。だが、数秒後にはピタリと静止した。
「……まあ、すぐ暴れだすわけでもないし、今日は無視していいんじゃねえかな。何らかのデータ干渉かもしれないし……」
「そうですね。こっちも疲れてるし、明日リリスにも見せてみます」
アミリアはそう言って、ぬいぐるみをしっかり抱きしめた。俺も胸の奥に小さな不安を覚えながら、彼女と連れ立って宿泊区画へ向かう。
翌朝。予定どおり宿泊区画で一夜を過ごした俺は、朝食を簡単に済ませ、アミリアに連絡を入れる。すると、まだ早い時間にもかかわらず、彼女からすぐ返事が来た。
『マスター、おはようございます。少し早いですが、どこかで合流して昨日の“ログ”を調べてみませんか?』
『おう、いいよ。じゃあ、広場の噴水前に集合で』
端末越しにやりとりを終え、俺は外へ出る。電脳楽園の朝は少し涼しい風が吹いていて、街並みが徐々に活気づく様子を眺めるのが好きだ。何事もなければ、本当に平和な場所だと思う。
(でも、メルトダウンや監視役の影は確実に近づいている……)
広場に着くと、すでにアミリアが噴水のそばで待っていた。彼女の腕には、やはり猫のぬいぐるみ――と思ったが、今日はリボンの位置が変わっているような気がする。気のせいだろうか。
「おはよう、マスター」
「おう、おはよう。ぬいぐるみ、ちょっと雰囲気違うな」
「え? ああ、リボンが少しズレてたので結び直しただけですよ。変ですか?」
「いや、可愛いけどさ……」
なんというか、アミリアが猫のぬいぐるみを大事にしているのは分かるが、この微妙な“変化”が気になる。しかし、それを深く追及しても仕方ない。俺は小さく首を振り、話題を切り替えた。
「で、昨日のログだけど、やっぱり何かの痕跡があるのか?」
「はい。ほとんど断片ですが、中央管理区から外部サーバへデータを移した形跡があるようです。どこに移したのかは分かりませんが……監視役じゃなければ、何者かが動いてるとしか」
「ふうん……よし、とにかく朝のうちに軽く当たれるところを当たってみようぜ。あの特別区画とか、管理区に入れそうなルートがあるかもしれない」
そう提案し、アミリアも同意する。いざ動こうとしたところで、猫のぬいぐるみが微かに“ぴくり”と揺れたように見えた。だが、再度静止して動かない。
「…………」
思わず目を細める俺に、アミリアは苦笑い。
「マスターも気にしすぎですよ。私もさっきから注意して見てますけど、今は特に動いてませんし……」
「まあ、そうだけどさ……」
何とも言えない奇妙な空気が流れる。だが、今はメルトダウンのログのほうが急ぎだ。ぬいぐるみのことを気にかけつつ、俺たちは中央管理区へ行くための道を歩き出す。
(猫のぬいぐるみが揺れた気がするのは、ただの気のせいなのか?)
そんな疑問を抱えながら、俺はアミリアの隣を歩いた。空は晴れ渡り、電脳楽園の朝はいつも通り穏やかだ。だが、その裏で何か大きな力が動き始めている予感が、消えずに胸を騒がせる。
メルトダウンの書類が移動されたというログ。ぬいぐるみに宿るかもしれない小さな意志。もしかすると、どちらも近いうちに繋がってくるのかもしれない――そんな不思議な直感を覚えながら、俺たちは人通りの増え始めた道を進んでいった。




