歩み
朝食を終え、アミリアと一緒に居住区から外へ出る頃には、街の光はすっかり柔らかな昼前の明るさを帯びていた。広場には大勢の住人たちが行き交っていて、どこか祭りじみた賑わいすら感じる。人々は皆、忙しそうにしているわけでもなく、ただ“ここ”での生活を楽しんでいるように見えた。
「ねえ、マスター。さっきまで深層領域に行く気満々だったのに、どうして急にゆっくり歩いてるんですか?」
アミリアが不思議そうに首を傾げる。確かに、朝食で気合いが入ったはずなのに、俺は今、わざわざ人通りの多いエリアを遠回りする形で歩いている。理由は……自分でもよく分からないが、なんとなく“いまここにいる”世界を見ておきたい気がしたからだ。
「いや……深層領域に行くまでにも、いろいろ考えることあるしさ。ほら、あんま気張ってると疲れちまうだろ?」
「そう、ですか? まあ、確かにマスターは緊張しているように見えます」
猫のぬいぐるみを抱き直しながらアミリアが笑う。その笑顔につられて、俺も肩の力を抜く。周りを見渡すと、マーケット通りのような場所には屋台や露店が立ち並び、いろんなアバターが行き交っている。
「さっき朝飯食ったばかりだけど、なんだか屋台が楽しそうだな……」
「ふふ、楽園にはいろんな楽しみ方があるんですよ。あそこの店なんて、見てください」
アミリアが指差した先では、小さなパフォーマンスステージがあり、何やら大道芸のようなショーが行われている。炎の玉を操る男や、宙を舞うような曲芸を披露する女性。現実では難しいような大技も、楽園ならではの派手さで盛り上げている。
「すげえな……。仮想空間だからこそ、現実じゃ不可能な動きもできるってわけか」
「ええ。でも不思議と、ここにいるみんなは“見せ方”を工夫して、本当にリアルに近いパフォーマンスを目指してるみたいです。完全に自由になれるのに、ちょっとだけ不自由を入れるのが面白いんでしょうね」
確かに、何でもありの世界なら、いっそ空を飛んだり瞬間移動したりと、超能力じみたこともできそうだが、意外とそういう風にはしていない人が多いのかもしれない。ある程度の“制限”があるからこそ面白い――そんな考え方がここにはあるんだろう。
ショーをちらりと見物していると、観客の一人がこちらに気づいたらしく、チラチラと俺たちを見ている。何かあったのかと目を合わせると、その観客は口元をほころばせ、話しかけてきた。
「こんにちは。あなたたち、見かけない顔だね? 新しくここに来たの?」
若い女性のアバターで、シンプルなワンピースを着ている。明るい笑顔を浮かべ、フレンドリーに接してくる。俺は少しだけ警戒しつつも、アミリアと顔を見合わせた。
「あ、まあ、最近来たばっかで……あんまり詳しくないんだ」
「そうなんだ。楽園って、いろいろな楽しみ方があるでしょう? ここのパフォーマンスは、私が学生時代に一緒だった仲間たちがやってるんだけど、よかったらあなたたちも観てみてよ」
「へえ……学生時代の仲間か。そりゃ思い出深いだろうな」
女性は「うん、そうなの!」と嬉しそうに頷く。どうやら生前にやっていたサークルか何かのメンバー同士が、楽園に集まって大道芸を続けているらしい。そういう集まり方もあるのか……
「私、ふふ、現実じゃもう歳とっちゃってるかもしれないけど、この世界ではこうやって若い姿を保てるのよ。そういうところも、仮想空間のいいところだよね」
女性はそう言って笑う。何もかもが理想的に整っているこの世界で、昔の仲間と昔の姿のまま、好きなことを追求して生きている……本人たちにとっては夢のような話だろう。
「お姉さんたちはさ、楽園でどんなことしてるの?」
そう尋ねられて、俺とアミリアは言葉に詰まる。まさか「深層領域に潜って封印された機能を探ってる」なんて言えるわけがない。
「あー、いろいろとあって……管理区のほうで調べ物をしてるんだ。今はちょっとばたついてる感じかな」
曖昧に答えると、女性は「そっか。何か大変そうだけど、息抜きもしっかりしてね」と優しく声をかけてくる。本当に親切な人らしい。俺とアミリアは笑顔で礼を言った。
「そうだな、ありがとう。大道芸も楽しませてもらうよ」
「うん、ぜひぜひ。じゃあ、またねー!」
手を振って去っていく女性の背を見送りながら、俺はふと考える。ここにいる人たちの多くは、こうやって“やりたいこと”を見つけて自由に暮らしているのだ。あるいは、生前の夢や仲間との思い出を大切にしつつ、永遠に続く青春を謳歌している人もいるのかもしれない。
「……なんか、羨ましい気もするけど、逆に窮屈な感じもするな」
ポツリと呟くと、アミリアが柔らかい声で相槌を打つ。
「はい。私も、ここを管理する立場として、いろんな人の暮らしを見てきました。みんなそれぞれ幸せそうではあるんですが、どこか踏み出せない“停滞感”もあるというか……」
「だよな。永遠に同じ姿で同じことして、苦痛や不都合がないってのは、それはそれで退屈にもなるんじゃねえか……って思う」
もちろん、それを幸福だと思える人には最高の世界だろう。だけど、人間には“成長”だの“変化”だのが必要なんじゃないかとも思う。ここでは、そのあたりがどう折り合いをつけられているのか、俺にはまだ理解できない。
「……まあ、行こうか。あんまり寄り道しすぎても時間がなくなるしな」
「ええ。そろそろ深層領域へ向かいましょう」
アミリアが猫のぬいぐるみを抱き直し、俺たちは再び中央管理区の方向へ足を向ける。先ほどの女性のように、温かい言葉をかけてくれる住人もいるこの楽園。この人たちを巻き込む形で大きな事態が起きてしまわないように、俺は少し祈る気持ちで歩を進めた。
大通りを抜け、中央管理区のビル群が視界に入り始める頃、少し先の路地から幼い子どもの声が聞こえた。どうやら転んでしまったのか、小さな女の子が泣きそうな顔で膝を擦っている。
「うう……痛い……」
膝にすり傷――というか、仮想空間で“すり傷”も何もあったもんじゃない気もするが、リアル感が高いせいか、彼女は相当痛そうにしていた。周囲を見ても、特に保護者らしき人はいない。アミリアが真っ先に駆け寄る。
「大丈夫? 痛いところ見せてごらん」
優しく声をかけ、猫のぬいぐるみを小脇に抱え直す。子どもは顔を上げて涙目になりながら、膝を差し出した。見ると確かに赤く腫れているが、仮想のダメージにしても、幼い心には充分ショックだったのだろう。
「これくらいなら、回復システムがすぐ治してくれると思うけど……。うん、もう少し待ってたら痛みは消えるよ?」
アミリアが優しく微笑むと、子どもは少し安心したようで涙を拭う。するとそのとき、突然少女の服の袖に取り付けられた通信端末がピロンと音を立てた。どうやら親からの呼び出しらしい。
「お母さん……もう帰らなくちゃ。ありがとう、お姉ちゃん……」
か細い声で礼を言い、少女はヨロヨロと立ち上がると、少しぎこちない歩き方で走り去っていった。やがて路地の角を曲がったところで、すっと姿が消える。転送でも使ったのかもしれない。仮想空間特有の便利さだ。
「……こうして見ると、本当にここは“普通の生活”を営んでる人ばっかりなんだな。子どももいるしさ」
「ええ。意識データを追加して新たな子どもを作ったケースや、生前の年齢のまま留まるケースもあるみたいです。子ども本人がそれをどう思うかは、なかなか難しいところですけど……」
確かに、仮想空間における“成長”はどう扱われているんだろう。そこに踏み込めば、ますます哲学的な問題になりそうだ。だが、今はそれを考えている余裕はない。
「よし、今度こそ行こうか。寄り道ばっかしてたら日が暮れる」
「はい、そうですね」
アミリアが微笑み、俺たちは再び歩き出す。朝食を食べ、街の人々と触れ合っていると、ついつい忘れそうになるが……俺たちはこの先、とんでもない領域に踏み込もうとしているのだ。住人たちが悠々と暮らす光景を横目に見ながら、その裏側にある“深層”を目指している。
(こんな平和な日常を壊すわけにはいかない。だけど、放置していても何か起きるかもしれないし……)
少しだけ胸が苦しくなる。とはいえ、答えは出ない。俺はアミリアの隣を歩きながら、いつもよりゆっくりした足取りで中央管理区へと向かった。