朝食
翌朝。仮想空間の空はいつも穏やかで、どこまでも透明に近い青が広がっている。夕べ眠ったはずなのに、相変わらず現実とは違う不思議な感覚が抜けない。それでも目を開けば、ここが“未来”の世界であることを嫌でも思い知らされるのだ。
(……さて、と)
ベッドから身を起こし、ボーッとした頭を軽く振って目を覚ます。昨日はアナログ・アーカイブで監視役に出くわし、さらには“Project Eden”の存在がますます色濃く浮かび上がってきた。情報量が多すぎて消化しきれていない感がある。
そんなモヤモヤを抱えながら、とりあえず“朝食”を取ろうと考えた。楽園では栄養を摂る必要はないはずだが、飲食自体を楽しむ文化は確かにある。俺もこの世界に来てから、意外と食事を味わえることを知っている。
(現実じゃ朝飯をしっかり食べるなんて、あんまりなかったけどな……)
自分の居住エリアに用意されている“キッチン”のカウンターに向かう。仮想世界だというのに、食材や調理器具が揃っているのはちょっと面白い。もっとも、すべてデータの再現に過ぎないのだけれど。
コンビニバイトと大学生活に明け暮れていたころの俺は、朝は菓子パンやインスタントコーヒーで済ませるのが常だった。だが、ここでは自由に“理想の食材”を呼び出せるらしい。半信半疑でメニューを選ぶと、目の前のカウンターに新鮮な卵や野菜が“生成”される。
「……なんつうか、未来だな」
独り言を漏らしながら、半ば実験のつもりでスクランブルエッグを作ってみる。味や香りは自分の好みに合わせて調整できるらしいが、下手に調整しすぎると逆に不自然になりそうなので、ほどほどに。本来の俺なら、こんな手間をかけてまで自炊することはないはずだが……奇妙な高揚感を覚えていた。
食卓に皿を並べ、簡単な朝食が完成。スクランブルエッグとベーコン、サラダにパン。やけに鮮やかな見た目だ。口に運ぶと、香りとコクがふわりと広がる。現実でもこんなに美味いスクランブルエッグは作ったことがない。
「うめぇ……」
思わずつぶやき、ひとりで苦笑いする。ここが仮想空間だという事実を忘れそうになるほど、食感も風味もリアルだった。
(こんな贅沢な朝飯を食ってる場合じゃねえかもしれないけど……ちょっとぐらい、いいだろ)
そんなことを思いながら、腹を満たしていると、玄関のインターホンが控えめに鳴る。誰だろう? とモニターを確認すると、そこには猫のぬいぐるみを抱えたアミリアの姿が映っていた。
ドアを開けると、彼女は少し気まずそうに視線を落として言う。
「おはようございます、マスター。もう朝食は済みましたか……?」
「え? ああ、今ちょうど食べてるところだけど……」
「そうですか……実は、マスターがお時間あれば一緒に朝食でも、と思っていたんです。まあ、楽園では食事は飾りみたいなものなんですけど……」
珍しくアミリアが遠慮がちに言葉を続ける。彼女も、“人間のような体験”をしたいと思うことがあるのだろうか。俺は笑って彼女を部屋に招き入れた。
「いいじゃねえか。ちょうど作りすぎて余っちまったし、一緒に食うか?」
「えっ、いいんですか? じゃあ、少しだけ……」
アミリアが控えめにテーブルにつく。猫のぬいぐるみは椅子の横に置かれ、ちょこんと座っているように見える。その光景がほほえましくて、思わず笑みがこぼれる。
「なあ、アミリア。お前は実際、食って旨いとかそういう感覚あるのか? アンドロイドなんだろ?」
「厳密には感覚センサーを通して擬似的に味わっています。人間と同じように舌があるわけじゃないですが……感情プログラムや学習アルゴリズムで、“おいしい”と思えるんですよ」
「へえ……まあ、こうして一緒に食べるの、悪くないだろ」
「はい……こうやって誰かと朝食を囲むのは、すごく久しぶりなので、なんだか新鮮です」
アミリアは照れくさそうに微笑み、スクランブルエッグを一口運ぶ。そして嬉しそうに目を細める。どうやら、彼女にも“味わえる”らしい。
「ふふっ、本当に不思議ですね。楽園にいると、食事なんて不要ですし、みなさんもあまりこだわらない方が多くて……」
「まあ、飽きずに飽食できる世界でも、結局は面倒くさがって食べなくなるやつもいるんじゃね? 全部データだし」
「そうかもしれません。でも、こうして人と一緒に何かを味わうのって……やっぱり素敵だと思います」
アミリアの言葉に、俺は軽くうなずく。現実世界での孤独な朝食とは違い、誰かと一緒に食べるだけで心が温かくなる。仮想空間のデータとはいえ、この瞬間だけは確かな満足感を感じられた。
しばらく他愛もない雑談を交わしながら、ふたりで朝食を楽しむ。楽園の生活のことや、アミリアが昔好きだった“ミルク風味のパン”の話、生前の人々がどんな食文化を持ち込んだかなど……意外と知らないトリビアも多くて面白い。
「そういえば、牛乳という文化も昔は当たり前にあったみたいですね。私が覚えてる限りだと、電脳化が進む段階で、本物の牛を飼育する意義が失われたので……今は完全にシミュレートされたものになってますけど」
「ふむ……さすがに、本物の牛がいない世界じゃなあ。ところで、お前はそういう過去の情報をいろいろ知ってるのか?」
「はい、管理AIですから。ただ、そこまで興味を持つ人は少なくなってしまいましたけどね」
そんな他愛のない会話をしつつ、気づけば皿の上のスクランブルエッグもきれいになくなっていた。アミリアが満足そうに笑顔を見せる。
「ごちそうさまでした。とってもおいしかったです、マスター」
「おう、俺もこんなにちゃんと朝飯作ったの、何年ぶりだろうな……」
後片付けを簡単に済ませ、テーブルを拭きながら、俺はふと思い出す。今日の目的は、本来なら「システム深層領域」に行くことだった。だが、こうしてゆっくり食事をしていると、その緊張感が少し和らいでしまう。まあ、悪くない閑話休題というやつだろう。
しかし、アミリアも俺も、その“特別区画”へ行く覚悟を決めている。朝食を終えて一息ついたところで、アミリアの表情が少し引き締まった。
「……ごちそうさまでした。それでは、行きましょうか。今回ばかりは、私もかなりのリスクを犯すことになりますが」
「ああ。わりぃな、俺に付き合ってもらって」
「いえ、私だって気になりますから。それに、楽園を管理する立場としても、放置しておくわけにはいきません」
そう言うアミリアの瞳は、いつになく決意に満ちていた。俺も自然と背筋が伸びる。結果がどうなろうと、もう後戻りはできないのかもしれない。
「じゃあ、出発するか。あんまり朝ゆっくりしすぎても、タイミングを逃しそうだしな」
「はい。……マスター、スクランブルエッグ、おいしかったですよ。本当にありがとうございます」
「お、おう。まあ、また気が向いたら作ってやるよ」
照れくさそうに言い合いながら、俺はアミリアとともに部屋を出る。扉を開ければ、仮想空間の青い空と光が待っていた。手に入れた束の間の安らぎを胸にしまい込み、俺たちは次の目的地へ向かう。まだ知らない“深層”が、すぐ目と鼻の先まで迫っているのだ。
そんなわけで、俺たちは中央管理区へと足を運ぶことになる。これから待ち受けるのは、楽園の“裏側”へ踏み込む行為。それでも、さっきの朝食で少しだけ肩の力が抜けたように思えた。やはり、人間らしい営みというのは大切なのだろう。
そして、その先で起こる出来事を、俺たちはまだ何も知らない……。