揺れる影
あれから数時間。アミリアと別れて、一度自分の“居住エリア”へ戻った俺は、シャワーを浴びて頭を冷やしていた。電脳世界とはいえ、そういった生活感が再現されているのは面白い。もっとも、本当に体が汚れるわけでもないから、ただの“演出”なのだろうけれど。
シャワーを止め、タオルで髪を拭きながら思う。今日一日の出来事は、さすがに情報量が多すぎた。
(Project Edenに監視役、謎の女性……あの“マスター”やM.K.の影も、どこまで絡んでくるか分からねぇ)
まとまりきらない思考を一旦脇に置き、部屋の窓際へ向かう。この“居住エリア”はいわば仮想空間における自分の部屋で、広さもデザインも適当に選択できるらしい。そこまでこだわりはないので、シンプルな1LDK風の内装を選んでいた。
窓を開けると、夕暮れの空気がすっと入り込む。街のビル群の向こうには、仄かにオレンジ色がかかった空が広がっていた。楽園とはいえ、時間や天候もある程度は再現されているらしい。
「はあ……」
深呼吸して、少しだけ心を落ち着ける。考えることは山ほどあるが、まずはアミリアと相談して、情報を整理しながら動くしかない。
(そういや、アミリアはこのあと中央管理区のログを洗い直すって言ってたっけ)
彼女も一度、俺と別れて管理AIとしての業務に戻っているはずだ。気になるのは“監視役”の動向だが、追いかけるにしても手がかりがなさすぎる。今はひとまず、こちらの手の内を整えておくべきだろう。
そう思った矢先、玄関のインターホンが鳴った。仮想空間にもこんなシステムがあるのかと苦笑しつつ、ドアを開けると、そこにはアミリアの姿があった。
「お前……こんな時間にどうした? もう管理区に戻るんじゃなかったのか?」
「はい、ログをざっと確認してきたんですけど、ちょっと奇妙なデータがあって……伝えたいことがあったので」
アミリアは猫のぬいぐるみを抱えたまま、どこか浮かない顔をしている。俺は彼女を部屋へ招き入れ、テーブルの前に座らせた。
「奇妙なデータ? なんだそりゃ……」
「その……“マスター”が残したと思われる履歴が、新たに発見されたんです。十年前のログの断片なんですが、そこに“Edenシステムの一部をロック解除”という記述があって……」
「ロック解除……? まさか、“意識融合”の残骸か?」
思わず身を乗り出す。もしそれが実際に動作しているとしたら、楽園にとんでもない爆弾が仕込まれているようなものだ。
「まだ分かりません。ただ、そのログは断片的で、解除された先のファイル名や具体的な操作内容が不明なんです。どこか別の場所にあるメインファイルへアクセスした形跡があるようですが、それが何かは特定できなくて……」
アミリアの表情が曇る。アンドロイドである彼女が、こうも人間的に悩んでいるのを見ると、この問題の深刻さを感じずにはいられない。
「とにかく、その謎のファイルを探さないと話にならないな。たとえ意識融合が機能していたとしても、どこでどう起動するのか分からないんじゃ防ぎようもない」
「ええ、まさにそれが問題です。それと、さっき管理区で確認したんですが、監視役の活動ログがほとんど残っていなくて……どうやら、公のシステムとは別の管理網があるみたいなんです」
監視役の男……あの冷たく張り詰めた視線が脳裏をよぎる。彼は“Project Eden”への接触を警告したが、その真意が何なのかも分からない。どうにも嫌な予感だけが積み重なっていく。
「どうするか……」
俺は頭を抱えながらテーブルに肘を突いた。混乱しそうになるが、アミリアはそんな俺の様子をじっと見つめてくれている。かつての自分なら、こんな状況になったら逃げていたかもしれない。だが、今はもう逃げるわけにはいかない。
(あの日、未来に飛ばされてきた時点で、これは俺の問題になっちまったんだ)
不思議と、そう覚悟が定まっている自分がいる。俺は小さく息を吐き、アミリアに言った。
「まずは、“マスター”の行動履歴をもっと調べよう。あれだけ特別な立場だったんだ、別の場所に痕跡が残ってるかもしれないだろ? 楽園内にある“特別区画”とか、“制限エリア”とか、わかんねぇけど、そういうのないのか?」
「特別区画……確かに、楽園の中心部には一般利用者が入らない施設がいくつかあります。そこは高度な権限を持ったAIや管理者しか立ち入れない場所なんですが……」
「お前なら、入れるか?」
やや強引に問いかけると、アミリアは目を伏せて考え込む。
「管理AIとはいえ、私にも制限はあります。けれど、やり方次第では……。本当は、中央管理区のトップ層の許可が必要なんですが、それを無視して入れば、多少問題になるかもしれません」
「問題覚悟でやるしかねえよ。“Eden”の残骸が本当に起動したら、そんな問題どころじゃすまないだろ」
勢いに任せて言い放つが、アミリアも反論はしなかった。むしろ、その瞳の奥に一瞬だけ決意の色が宿るのを感じる。
「……分かりました。明日、再度管理区へ行って、私ができる限りの権限を使ってみます。それで無理なら、別の方法を考えましょう。マスターも一緒に行きますよね?」
「当たり前だ。お前ひとりで危険な橋を渡らせるわけにはいかねえし……いや、むしろ俺が橋を渡らせてもらわないと」
自然と笑みがこぼれる。自分でも驚くほど、前向きな気持ちがあふれているのを感じる。現実世界でくすぶっていた俺が、こんな風に行動意欲を燃やす日が来るとはな。
「よし、決まりだ。今日はもう遅いし、しっかり休んで明日に備えよう。お前も無茶しすぎるなよ?」
「……アンドロイドなので、休息は必要ないですけど、まあ多少はリラックスします」
アミリアは小さく笑い、猫のぬいぐるみを抱いたまま立ち上がる。帰り際、ふと俺に向き直って言った。
「マスター。少しだけ、ありがとう」
「え? 何が?」
「昔から私がずっとやってきたのは、“マスターの帰りを待つ”ことでした。でも今は、マスターと一緒に動ける。誰かと共に何かを成し遂げるのって、こんなにも心強いんですね」
アミリアの微笑みは、どこか切なげでありながら温かい。俺は言葉を返せず、ただ頷いた。彼女が背負ってきた十年間の孤独。それを埋める手伝いが、少しでもできているのなら嬉しい。
「じゃあ、また明日。……おやすみなさい、マスター」
「ああ。おやすみ」
静かにドアを閉めると、部屋に一人きりの静寂が戻る。カーテンの隙間から差し込む夕暮れの光が、部屋の一角を照らしていた。
俺はベッドに腰を下ろし、しばらくボーッと天井を見上げる。どうやってタイムスリップしたのか、現代へ戻る方法はあるのか——そんな問題はもう後回しになっていた。今はただ、“Project Eden”の行方と、あの“マスター”の正体が気になる。
スマホのような端末(楽園でも似たようなデバイスが用意されている)を手にし、ぼんやりと画面を眺める。アナログ・アーカイブで手に入れた報告書を開こうとしたが、いつの間にか瞼が重くなってきた。
(不思議なもんだな……仮想空間でも、ちゃんと眠気を感じるのか)
あるいは、精神的に疲れたからなのかもしれない。いずれにせよ、明日からまた動き回ることになる。ここらでしっかり休んでおくのが賢明だ。
「……よし。今日は寝るか」
布団の中に体を沈め、暗闇の中でまぶたを閉じる。こうして眠ること自体が“リアル”なのかどうか、もはや判断がつかないが、少なくとも安心感があるのは確かだ。
だが、意識が落ちかけたそのとき、不意に脳裏に何かがよぎった。
(……そういえば、あの監視役の男……“人間のお前には”って言ってたよな)
あの言葉が引っかかる。いずれにせよ、彼の動きを無視して進めるわけにはいかないだろう。いつか、必ずもう一度相対する日が来るはずだ。
薄れゆく意識の中、遠くで誰かの声が聞こえたような気がした。それは何語とも知れぬ、風のように儚い囁き。あるいは、過去の自分が発しているものなのかもしれない。だが、掴もうとする前に意識が真っ暗に途切れる。
こうして、黄昏の中で俺は眠りについた。翌朝、再びアミリアと共に“特別区画”を探索するために、俺たちは行動を開始する――まだ見ぬ“Project Eden”の真実を掴むために。