『8番出口』鑑賞記
名古屋へ赴くため電車に揺られながら本を読んでいた。珍しく小難しい内容のものである。そういった本を読んでいると、ときおり顔を上げて、眉間に溜まったモヤモヤとした、理解の順番待ちをしているトピックを揉みほぐしたくなる。
そうしてみたとき、目の前に大きなパチンコ屋が鎮座していた。都会に近接した店舗にしては珍しい、立体駐車場のないタイプだった。週末ということもあり、モータープールには数多くの乗用車が綺麗に整列させられていた。
ふと微妙な心持ちになる。つまり車の数だけ人々が筐体の前に座りながら、ハンドルを捻ったり、あるいはボタンを押したりしているだろうことは、さすがにこの歳になると理解できる。
さて、彼らはなぜそんなことをしているのだろう。私は幸運なことにもギャンブルに否定的な意見を持つ両親に育てられたため、そういった遊戯をした経験こそあれど、未だのめり込むほどにハマった経験がない。
つまり私は真に彼らの気持ちというものが理解できないのである。幼少の頃、パチンコ屋とはお金を捨てるところだと教え込まれた。幼い私には比喩というものが理解できず、実際に紙幣やら何やらを焼却する施設だと理解し、大人はなぜそんなことをするのだろうかと純真な疑問を抱いたことがあるのを強烈に記憶している。
しかしパチンコ自体ではなく、その行為を抽象化して他の事例に当てはめたとき、その気持ちの一片を理解できるような気もする。パチンコというのは、ショート動画の消費に似ているように思うのだ。少ない労力で大きな報酬が与えられるものに人間はどうにも弱いものであるのは、今までの人生を鑑みても容易に理解できる。たとえばそれは、ハンドルを捻るだとか、ボタンを押すだとか、画面をスワイプするだとかといった具合である。
確かに受動的な趣味や遊戯はたまの休日にも体力を削ることなく楽しめるよい文化であるとも考えられる。しかし私も物書きの端くれを気取っている手前、それを全面的に肯定する気にもなれない。体力気力のあるうちは、自分の持てるビジョンを形にするような趣味に没頭する方が優れていると主張したい。語弊のないよう追記すると、ここでいう優れているとは、自己実現や自己表現など一部の視点における優越である。
さて、私が今日名古屋に足を運んだのは、かねてよりの友人と映画鑑賞するためである。タイトルは『8番出口』。二宮和也氏主演、同名のゲームを原作とするソリッド・シチュエーション映画である。
動機は主に二宮和也氏が主演を務めていることによる。『GANTZ PERFECT ANSWER』での素晴らしい演技を見て、アイドルやタレントとしてより、俳優の氏の実力を推している──『ラーゲリより愛を込めて』は好みのジャンルでないため敬遠したままだが──。
また、ソリッドシチュエーションというのも実に私の好みであり、『THE WALL』や『ALONE』、『THE GUILTY』などのタイトルを観て、ソリッドシチュエーションの面白さを教えられた。
主題曲は『ボレロ』である。ボレロに始まってボレロで終わる構成になっているのだが、これもまた趣深く、同じ構造の空間がなん度も続く8番出口と、同じ旋律が続くボレロとの対比がじつに見事だった。そして、両者とも同じ構造ではあるものの微妙に異なっているという面白さもある。
ラストシーンの美しさについては、語るべくもないが、ソリッドシチュエーションの醍醐味である主人公の心情描写とその移り変わり、そしてそれを受けて自身をどう変えるのか、というお約束に添いながら先述のボレロのように、ボレロが流れながら終わっていくという圧巻のラストになっている。スペクタクルこそないものの、終幕としてはまさに見事であるとしか形容できない。
監督を務められた川村元気氏は映画監督のみならず小説家もしているとのことなので、ぜひ著作も読んでみたい。




