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ヴァレンシュタインシリーズ

笑わぬ王子様

作者: 川里隼生

 東ヨーロッパの小国、ヴァレンシュタインからマンフレート第一公子が来日した。市民から笑わぬ王子様と呼ばれ、元首のレオン公爵ですら、生まれてから一度も笑った顔を見たことがないと冗談交じりに評するほどだった。関西空港で行われた歓迎式典では、同じく笑わないことで一躍有名になった日本の元ラグビー選手と共に、見事なポーカーフェイスで見物客を喜ばせた。


 皇室との交流会を終えたマンフレートは、氷のように固まった顔のままホテルに戻った。料理が合わなかったわけではないし、母国ヴァレンシュタインで執務をするよりは外遊するほうを好んでいる。それでもマンフレートは、どうしても笑顔になれないでいた。若い公子は偽りの笑顔でいるより、正直な顔を見せていたいと思っていた。


 部屋の空気がひどく乾燥していたため窓を開けると、歩道にマンフレートより少し年下の少女を見つけた。妹のエリーゼ第一公女と同世代のように思われた。その少女は買い物帰りらしく、何かが入った紙袋を持っていた。紙袋に持ち手がないため、両手で抱えていた。マンフレートの視線を感じ取ったのか、その少女は上を見上げた。一瞬、三階のマンフレートと目が合った。すぐに少女は目線を逸らし、ホテル裏の通りを小走りで通過しようとした。


「きゃっ!」

 足下を見ていなかったようで、少女は躓いて転んだ。紙袋の中から林檎が五つ飛び出した。

「あっ! ちょっと待って!」

 その林檎に鳥が寄ってきた。鳥を追い払って林檎を袋に戻すと、少女はまた上を見上げた。そこには、一部始終を目撃したマンフレートの顔があった。少女は恥ずかしそうに、しかし今度は先程より慎重に歩き去っていった。


 窓から振り返ったマンフレートは、正面の鏡を見た瞬間に目を見開いた。生まれて初めて、自分の口角が上がっていたのだ。少女のコミカルな行動を見て、自分は初めて笑顔になった。あの少女なら、自分を笑顔にさせてくれる。また彼女に会いたい。その日、マンフレートは中々寝付けなかった。


 翌朝になると、マンフレートは仏頂面に戻っていた。他人の失敗を見て笑った自分に失望したのだ。マンフレートは母から嘘をついてはいけないことを、父から他人を尊重する必要性を教えられた。自分が昨日笑ったのは、他人を尊重していなかったことが原因だ。公子としても、個人としても、彼女と再会したいと願うことすらおこがましいと思えた。


 この日、マンフレートは開幕したばかりの大阪・関西万博の会場を訪れた。工事が遅れたため開幕までに完成しなかったヴァレンシュタイン館のオープニングセレモニーに出席するためである。式典は滞りなく進み、マンフレートによるスピーチの順番が回ってきた。登壇しようとしたとき、ステージとの段差で躓いて前のめりに倒れた。


「ふふっ。あははっ」

 控えめな女性の笑い声が、関係者席から聞こえた。立ち上がったマンフレートが声の方向を見ると、ホテルの窓から見た少女が口を隠しながらこちらを見つめていた。思わず、マンフレートの顔も僅かに緩んだ。照れ隠しであるというのは赤くなった頬が示している。その少女は、どうやら万博関係者の家族らしかった。


 彼女も自分の失敗を笑ってくれた。マンフレートは初めて、失敗を笑い合えるという体験をした。とても素晴らしいことのように感じた。マンフレートは原稿の一行目を確認すると、白い歯を見せてスピーチを始めた。

「親愛なる日本の皆様、本日は……」

 少女以外の関係者たちは、見たことのない王子様の表情に気を取られ、誰一人としてスピーチの内容を聞いていなかった。

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