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第53話 颯真くんとキスをしたのは、私のわがままなんだよ

 加那さんは指先で涙を拭うと一つ大きく息を吸った。

 微かに揺れる口元に緊張を感じる。

 軽く目を閉じて。覚悟を決めたかのように開いたブルーの瞳は真剣に俺を見つめていた。


「去年の夏の初めごろに付き合いだして、私と颯真くんはあの日まで幸せに過ごしてたよね?」

「しっかり覚えてる。というか思い出した。だからこそわからないんだよ」

「そうだね。あの日、私がキスしたのはね、颯真くんを見ているのが辛かったからなんだよ。だからこれは全部、私のわがままなんだ」

「わがままって、どういうこと?」

「颯真くんは私といるのを楽しいって言ってくれてたんだよ。でもね、ずっとどこか寂しそうにしてた」


 そうだった……かもしれない。

 

 記憶が戻ったといっても、あのころどんな感情を抱いていたかまでは、加那さんに言われるまで思い出していなかった。

 けれどたしかに、あのころの俺はキスをするのは恋愛成就の証しだって思ってて、でもそれができないことをもどかしく思っていた。


 そんなことを思う俺が唇をかんでいると、加那さんは柔らかく口角を上げて言葉を継いだ。


「違ったかな?」

「ううん、そうだった。だけどそれを加那さんが気にする必要なんてなかったのに」

「そうかもしれないね。だから颯真くんとキスをしたのは、私のわがままなんだよ。もし私と付き合わなければ颯真くんが苦しまないで済んだかもしれないって思うと、私のことなんて忘れてくれたほうが颯真くんは幸せに過ごせるって思ったから」

「そんなのおかしいだろ?」

「そうかな?」

「そうだよ。だって、もし仮にそれで俺が救われたとしても加那さんはどうなるんだよ?」

「私はいいんだよ」


 強がる言葉と裏腹に加那さんは寂しい笑みを浮かべる。

 好きな人のこんな顔なんて見たくない。

 胸がたまらなく痛くなる。


 でもなおも加那さんは

「けど颯真くんには悪いことをしたって思ってるんだよ。ごめんね」

 と、謝罪の言葉を口にする。


「なんで? あのあと俺に悪いことは起きてないよ」


 実際、俺は加那さんとキスしたあとから、いろんな女の子とデートを重ねるようになったわけだし。

 それでそれなりに楽しい日々を送っていたわけだし。


 たぶん加那さんとの思い出を忘れたのをきっかけに、恋愛拒絶ウイルスに感染したショックが和らいで気持ちが切り替わったんだと思う。

 感情は記憶と紐づいているらしいから、記憶を失ったのと同時に青春が終わったというショックが消えたんだろう。


 それで逆に恋愛拒絶ウイルスを利用すればいろんな女の子と付き合えるという発想に至った気がする。

 だから加那さんとのキスがなければ、ずっと悶々とした気持ちを抱えて灰色の青春を送ることになっていた。


 キスだらけの青春どころか引きこもっていてもおかしくなかったはずだ。

 考え込む俺に加那さんは意地悪な笑みを向けてきた。


「私は颯真くんがいろんな女の子と出かけていたことを知っていたんだよ」

「うっ……。その点に関しては申し開きのしようがありません」

「別に責めるつもりはないよ。颯真くんは私のことを忘れていたわけだし。それにね、颯真くんに悪いことをしたっていうのは、そのことなんだ」

「どういうこと?」

「颯真くんはいろんな娘とデートをすることで自分自身を傷つけていたんだよ」


 さっきとは違う優しい微笑をたたえて、加那さんは続ける。


「颯真くんはね、どうせどんな関係もすぐに消えるものだって自分に言い聞かせ続けていたんだよ」

「……そんなつもりじゃなかった」

「気づいてなかっただけだよ。ずっと見ていた私にはわかるの――あれは自傷行為だった。ゲームみたいにいろんな女の子と知り合ってはすぐにキスして別れて忘れられて。空っぽが積み重なると心はつらいよね?」

「そんなことは……」


 ない、と強がろうとする俺の口は動かない。


 加那さんと過ごした日々を思い出して初めて気づいた――残らない思い出の積み重ねは心の中に虚しさを残すだけだということに。


「私は颯真くんをそんなことをする人に変えてしまったことをずっと後悔していたんだ。それでも颯真くんがなにをしても放っておこうって思ってた。……寂しかったから、たまにからかったりはしてたけどね。でもこれ以上、余計なことをしたらいけないって思ってたんだ。だけど颯真くんが山下さんと臥輪島に行ったときに目の前でキスをしようとしてるのを見たときに、もう見ていられなくなっちゃって。もう颯真くんが自分を傷つけるのをやめさせなくちゃって思ったんだ」


「それで、これでいいのって訊いてきたんだね?」

「そう。お節介かもしれないと思ったんだけどね」

「いや、あの言葉がなければ俺はずっと加那さんのことを思い出せなかったかもしれない。だからありがとう」

「……思い出してくれなくて良かったのに。ただの生徒会長と人助け係の関係で良かったんだよ、私は」


 加那さんは普段通りの口調を取り繕うとするけれど声が微かに震えている。

 強い人のはずなのに、そんな弱い一面を見せられると気持ちが抑えられなくなってくる。

 告げるべきか迷っていた一言をどうしても伝えなくちゃならないって思ってしまった。

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