第50話 そのときに後悔しても知らないからねっ!
「颯真くん……」
試合後、水飲み場で頭から水をかぶってると声をかけられ、俺は慌てて声がしたほうを振り返る。
「加那さんっ!」
「えっと、その……」
勢い込んで加那さんの名を呼んだ俺の目の前にいたのは菜月だった。
両手の人差し指を合わせてバツが悪そうな顔をしている。
そういえば臥輪島に行ったとき、俺は菜月にキスをしようとしたけど、そのあとまともに話していない。
しかも菜月からはあの日書いていた絵葉書が郵送されてきていた。
その葉書には俺に対する好意がしたためられていた。
加那さんのことを思い出した俺にはその思いにどう応えればいいのか分からなくて。
だから意図的に菜月のことを避けていた。
だけど加那さんに避けられてしまったいま、菜月のことを放っておくのも悪いという気持ちも湧いてきている。
気持ちを伝えられないっていうのはつらいということを身に染みて実感しているから。
一つ息を吸って菜月に向き合う。
微笑を浮かべたつもりだけどうまくいってるかは分からない。
「ごめん、菜月。ちょっと別なことを考えてて。でも名前を呼び間違えるなんて最低だよな」
「ううん。突然声をかけた私のほうが悪いから。そんなことより、試合お疲れさま。……かっこよかったよ」
「見てたのか?」
「うん。私だけじゃなくて、女の子はみんな颯真くんのことを見てたよ」
菜月が口にしたのは、ちょっと前の俺だったら小躍りして喜んでいたであろう言葉。
これでいろんな女の子に手を出しやすくなるって思っていただろう。
でもいまはそうじゃない。
俺のことを見ていてほしいのはただ一人だけ。
そんなことを考える俺の前で菜月は少し頬を赤くしながら言葉を継ぐ。
「颯真くんがデートに出かける前にほかの人には内緒にしててほしいって言ってた理由が分かったよ。きっと嫉妬されちゃうからなんだね。私のためを思ってそう言ってくれてたんだね」
内緒にしてほしいと伝えていたのはキスしたあとに菜月が俺のことを忘れてしまうから。
そして、それのことを不審に思う周りの人間に変な詮索をされないためなのだけれど、菜月が勘違いしてくれているのならそのほうがいい。
重くなりつつある雰囲気を振り払うように俺は口の端を上げて笑顔をつくる。
「いや、そんなんじゃないんだけどな。俺が菜月に振られても笑われないようにだよ」
「私が颯真くんを振ることなんてないよ。だって私が自分に自信を持てるようになったのは颯真くんのおかげなんだから。颯真くんには感謝してるの。髪型だってそうだし、服もアドバイス通りにしたら自分でも見違えちゃうぐらいだし」
「それももともと菜月がいい素質を持ってたからだって。俺はなにもしてないよ」
「ううん。颯真くんは私を変えたんだよ。私は颯真くんのおかげで自分のことが好きになれたの。そして――」
菜月は一瞬だけ天を仰いで、一つ深呼吸をして、俺の目を見つめる。
「そんな颯真くんのことが私は好きなの」
真摯な響きを持った言葉は俺の心にまっすぐ届いた。
さくらに俺が彼女を変えたと言われてから、人を変えることがどういうことなのか、そもそも俺にそんなことができるのか、ずっと考えていた。
無責任にするべきことじゃないって思っていたけど、菜月は感謝しているという。
俺のことが好きだと言ってくれてもいる。
どんな状況であれ、人に好きだと言ってもらえることは嬉しい。
だけど俺の心の中にいるのは、ほかの人だ。
なにより忘れられてしまうことが、どれほど残酷なことかってことを俺は身に染みて知っている。
もう人の気持ちを振り回すことなんて絶対にしたくない。
黙ったままの俺に菜月は
「困らせちゃったね。ごめんね、忘れて」
と、いじらしく告げる。
無理やりつくった笑みが俺の胸を締め付ける。
だからこそ俺の本当の気持ちを伝えなくちゃいけないって思う。
一つ息を吸って俺はゆっくりと口を開く。
「いや、困ってはいないんだ。俺のことを好きだって言ってくれるのはありがたいと思ってるんだ。でも菜月の気持ちに応えてやることはできない。……ごめん」
頭を下げると頭上にため息が響いた。
「やっぱりそっか。わかってたんだよ。だけど言いたかったんだ。こんなふうに勇気を持てたのも颯真くんのおかげだから」
顔を上げると菜月は晴れ晴れとした笑みを浮かべていた。
「その……ほんとごめんな」
「いいよ。ただ最後に一つだけ言わせて?」
「うん。ちゃんと聞くよ」
頷く俺に菜月は背を見せる。
「絶対に颯真くんなんかよりいい男を捕まえてみせるんだからっ! そのときに後悔しても知らないからねっ!」
一息に言って一瞬だけ振り返った顔はやっぱりすっきりしていた。
「それは楽しみだな」
菜月は小さく頷くとそのまま駆け出していった。




