第4話 恋愛成就を俺は望まない
「心当たりがあるようだね」
医者の言葉が俺の意識を現実に引き戻した。
「……はい。あれは心をえぐられる経験でした」
忘れたくても忘れられないひどい思い出を頭に浮かべ、俺は声を落とす。
「うむ。その辺りが君の感染したウイルスが、恋愛拒絶ウイルスと呼ばれるゆえんだな。感染した多くの人が恋愛を諦めざるを得ないと言われている。わからないことばかりだと思うが、なにか聞いておきたいことはあるかね?」
正直、ウイルスの名前すら初めて聞いたし、ほんとにわからないことだらけ。
なにがわからないのかすらわからないほど混乱している。
でも青春を諦めることなんてしたくない。
そのためにせめて思いつくことだけでも聞いておきたい。
必死で頭を巡らせながら俺は口を開く。
「キスをする相手が誰でもウイルスの影響は出るんですか?」
「誰でもではない。説明が少し難しいのだが、わかりやすいようにゲームなどで使われている言葉で言うと、影響が出るのは君への好感度が百パーセントの相手だけだな」
「ということは、ただの友達とかの記憶はなくならないってことですよね?」
「そうだ。その点は安心してもらっていい」
安心と言われても、そもそもただの友達にキスをすることなんてないんだが。
そういえば、なんでキスがきっかけなんだろう。
「なんでキスをすると記憶がなくなるんですか?」
「具体的な原因はいまだ不明だ。ただ、唾液の交換がきっかけになる可能性が高いとは言われている」
唾液の交換、ね。
じゃあペットボトルとかを介した間接キスもまずいってことか。
しかし俺はこんな面倒なウイルスと一生付き合わないといけないんだろうか。
「このウイルスって治るんですか?」
「残念ながら、いまのところ治療法は見つかっていない。さっきも言ったように症例が少なくてね」
「それに」と少し言いにくそうにして医者は続ける。
「感染したからといって死に至るものではないから、研究のための予算も少ないんだよ」
肩をすくめる医者に、お門違いだと思いながらもふつふつと怒りが湧いてくる。
恋愛ができないというのは、ある意味で死刑宣告のようなものだ。
特に俺のように楽しい青春を送りたいと思っている者にとっては。どうでもいい病気なんかではない。
そんなことを考えていると、医者が少しだけ表情を崩して続けた。
「あと、君の症状に関して付け足すと幸い軽い部類に入る」
「軽いも重いもあるんですか?」
「あぁ、実はキスだけがきっかけではないんだよ。症状が重くなると手をつないだだけで記憶が失われてしまうということも報告されている」
「それはきついですね」
思わず口をつくが、キスができないんじゃ手をつなげるような仲になっても意味がないということにすぐに思い当たる。結局は同じことだ。
ほんとに残酷なウイルスだ。
「俺はなんでこんなウイルスに感染してしまったんですかね?」
「申し訳ないが、感染源も分からないんだ。ただ、人から人に伝染することはないと言われている。その点も安心してほしい。ほかに聞きたいことはないかね?」
たぶん、もっと知らないといけないことはあるはずだ。
だけどいまはすっかり混乱してしまって考えがまとまらない。
なにより診察室に留まり続けるのが苦痛としか感じられない。
消毒液のにおいがきつい。
だから俺は「いえ、今日のところはいいです」と静かに告げて診察室を出た。
大学病院をあとにした俺は、とぼとぼと坂道を下っていた。
眼下に広がるのは鹿児島市中心部の住宅街。びっしり並ぶ住宅の一つ一つでいつもと変わらぬ生活が営まれていることを想像するとたまらなくむなしくなる。
なんで俺だけがこんな変なウイルスに感染しなくてはならないのか。
ため息を漏らしながらゆっくりと歩を進める。自宅に帰るにはバスを使うのが一番早いのだけれど、いまは歩きたい気分だった。
とにかく一人になりたかった。
この日は菜種梅雨の合間の快晴。見上げる空には雲一つない。
けれど心がすっかり曇ってしまった俺には青空すらも憎たらしく思える。
カラフルに彩られるはずだった俺の高校生活はモノトーンに塗りつぶされた。
最高の恋愛をして最高の青春を満喫するつもりだった俺のプランは完全に崩れ去った。
『恋愛拒絶ウイルスに感染している』
そう告げられた俺はこれからどう生きればいいのか?
なにを目標にすればいいのか?
なにを楽しみに生きればいいのか?
さっぱりわからない。
なにも考えられない。
けれど一つだけ心に決めたことがある。
――恋愛成就を俺は望まない。