第3話 たしか喜入くん、だよね?
前日のキスの余韻を引きずったまま朝早くに目覚めた俺はベッドの上でスマホを操作し、「おはよう」と結唯にメッセージを送った。
しばらくして暗くなったスマホの画面に俺のにやけた顔が映る。
いつもなら自分のそんな顔を見ると気恥ずかしいんだけど、この日は結唯はどんな言葉を返してくれるんだろうってワクワクしか感じなかった。
けれど、どれほど待っても俺のスマホが返信を知らせる音を鳴らすことはなかった。
はじめは「まだ寝ているのかな」なんて思って大して気にしていなかった。
「昨日のことを夢で見ながら、幸せな気分で寝てるんだろう」なんて考えたりしていた。
なにより返信を催促するなんてかっこ悪い。
ちゃんと付き合う約束をしたんだから、待ってればいいんだって自分で自分を納得させてた。
でも時間がたつにつれて俺の胸の中では不安がムクムクと顔を出してきた。
昨日のあれは夢だったのかとすら思えてきた。
だから情けないと思いながらも何度かメッセージを送った。
「まだ寝てんの?」とか「付き合い始めたばっかりなのに焦らしプレーなんてひどくない?」とか。
結唯が好きそうなネコのスタンプもいくつか送った。
それでもやっぱり返信はなかった。
既読のマークは付いているからメッセージが届いていないというわけではないはずだ。
しびれを切らした俺は昼前には通話も試みた。
けれど対応してくれたのは留守電の機械音だけ。
昼すぎになって俺は、こうなったら直接家に向かうしかないと意を決した。
結唯の両親に会うことになるかもしれないけど、この際仕方ない。
はやる気持ちを抑えながら結唯の家まで自転車をとばした。息を整える間もなくインターホンを鳴らすと返事はすぐにあった。
「はい……」
親父さんとかが出てきたら気まずいなと思っていたけど、インターホンに応えてくれたのは結唯だった。
ほっとするのと同時にどうしてメッセージを返してくれなかったんだろうと不安を感じる。
「結唯? 俺だけど。メッセージに全然返事がないから心配で。もしかして体調を崩したりしてる?」
「えっと、たしか喜入くん、だよね?」
インターホンのモニター越しに俺の姿を確認したらしい結唯はたしかにそう言った。
――『喜入くん』と。
昨日は『颯真くん』と甘い声で呼んでくれたのに。
「どうしたの? そんな他人行儀で。いつもみたいに呼んでよ」
「いつもみたいにって、私たちちゃんと話したことないよね?」
「……っ!」
思わず絶句してしまう。
『ちゃんと話したことない』だって?
なにを言っているんだ?
昨日のあれはなんだったんだ?
混乱したせいで俺は思わず声を荒げてしまう。
「昨日の卒業式のあと俺たち付き合う約束しただろ? キスだってしたじゃないかっ!」
話しながら声がだんだん大きくなるのがわかったけれど、止められなかった。
「夢なんかじゃないって言って笑ってくれよ」
すがるような俺の声に返事はない。
諦められず何度かインターホンのボタンを押したけれど、結唯の声は返ってこなかった。
最後にもう一度だけとボタンを押す。
それでも反応はなくて結唯の家に背を向けたとき、ガチャリとドアが開く音が聞こえた。
「結唯っ!」
慌てて振り返り必死に呼びかけたが、出てきたのは結唯ではなかった。
「娘が困っているようなんだが、君はなんなんだね?」
結唯の父親だった。
警察官だと結唯から聞いたことがある。
がっちりした体形に威圧感を覚えるけれど臆している場合ではない。
「あの、俺っ、結唯さんと同じ中学校に通っていた喜入颯真って言います。結唯さんと話をさせてくれませんか?」
「結唯は君のことは名前ぐらいしか知らないと言っている。君が変なことを言うからすっかり怯えてしまっているんだが」
「怯えているって……。そんなはずはありません。昨日、付き合う約束だってしたのに」
結唯の父親は、はあと大きくため息をつく。
「結唯の同級生だというのは信じよう。だがこのぐらいにして帰ってくれないか」
「でもっ……」
なおも食い下がろうとする俺に結唯の父親は鋭い視線を送ってくる。
「これ以上しつこく娘に付きまとうようであれば、大事にせざるを得ないぞ。ストーカー規制法という言葉ぐらいは聞いたことがあるだろう?」
知らねえよ!
そんな変な法律なんて聞いたことなし、俺は断じてストーカーなんかじゃない。
でも結唯の父親の目は冗談を言っているようには見えなかった。
「聞こえただろう? 近所の目もある。この辺にしときなさい」
有無を言わせぬ強い口調だった。
信じられないけれど結唯も結唯の父親もうそや冗談を言っているようには思えない。
なにが起きたのかはわからないし、やっとできた最高の彼女のことを諦めたくはなかったけれど、どうしようもない。
俺は頭を下げると結唯の家をあとにした。
次に結唯の姿を見かけたのは高校の入学式。
けれどこわごわ手を上げた俺に結唯は一瞥をくれただけでなにも言ってはくれなかった。
その入学式直後の健康診断で精密検査の必要があると言われ、俺は大学病院に来ていたのだった。