第1話 君はラヴに感染している
「喜入颯真くん、だね? 結論から言おう――君はラヴに感染している」
高校入学から間もなく訪れた坂の上にある大学病院。暖かな日の射す診察室で俺は白髪交じりの男性医師にダンディーな声で告げられた。『ヴ』は下唇をかんだきれいな発音だった。
医者の脇にある窓からは残り少なくなった桜の花びらが静かに待っているのが見えた。
……
…………
………………ってちょっと待てっ! 俺はなにを冷静になってるんだ?
『ラヴに感染している』だと? なにを言われたのかさっぱり分からない。
ラヴ……
ラブ……
……愛?
つまり――愛に感染している?
いや、まったく意味が分からない。
俺がこの医者に恋をしているとでも言いたいのか?
それとも逆にこの医者が俺のことを好きだとでも言いたいのか?
多様な愛の形が認められている今日この頃だっていうのは俺も理解している。
だけど俺が好きなのは女の子だし。これまで女の子にモテるための努力はしてきたつもりだ。
その努力は高校で実を結ぶことになっている。
……ちょっとばかりの手違いはあったけど。
「うん、混乱しているようだね。無理もない」
発言の意図を探ろうと俺が視線をさまよわせていると、医者は再び口を開いた。
そうだろうと言わんばかりに首を上下に振っている。
いったいなにを納得しているんだろう?
いまだになにが起こっているのかわからずにいる俺に医者は言葉を続ける。
「君が感染しているのは、ラブ(Love)・アポカリプス(Apocalypse)・ウイルス(Virus)。その略称が頭文字を取ってラヴ(LAV)だ」
……アポカリプス?
なんだそれは?
聞き慣れない言葉にポカンとしていると医者が頷く。
「日本語で言うと恋愛拒絶ウイルスだ」
「はい?」
「わからないのも無理はない。なんせ一千万人に一人ぐらいの割合でしか感染報告のない非常に珍しいウイルスでね。特定するのにだいぶ手間がかかったよ」
シルバーのフレームの眼鏡をくいっと持ち上げてから机に置かれた本の山を指差す。
恋愛拒絶ウイルス……?
日本語に訳されたところで、まったく聞いたことがない。
どう反応すればいいのか皆目見当もつかない。
けれど、黙ったままじっとこちらを見つめる医者の姿が気になって俺の口からはぽろぽろと疑問が漏れる。
「あの……ウイルスと言うからには病気なんですよね? どんな病気なんですか? 命に関わるようなものなんですか?」
「安心してほしい。命に関わるような病ではない。ただ……」
言いよどむ医者に思わずつばをのむとごくっと大きな音が響いた気がした。
その響きが自分で恐ろしくて俺は医者に続きを促す。
「ただ、なんなんですか?」
「落ち着いて聞いてほしい」
言葉を区切る医者。眉間のしわをひときわ険しくして俺の目をしっかり見すえる。
「恋愛拒絶ウイルスに感染した人がキスをすると、キスをされた人はウイルス感染者に関する記憶を失ってしまうのだ」
「??? よく分からないんですけど……つまり俺が女の子にキスをすると、その女の子は俺のことを忘れるってことですか?」
「その通りだ。思い当たることはないかね?」
「それは……」
…………残念ながら思い当たることは、あった。
医者の言葉で、忘れようとしていたいやな記憶が呼び起されてしまう。
ひと月前のこと。中学校の卒業式のあとのことだった。