8.一転して
「セーナ。」
後ろのほうで呼び声がしたが、無視して星奈はずんずんと前に進み続けた。さっさと距離をつけてしまいたいのに、のろのろと自分勝手にうろつく人々に阻まれて思うように進めないのがよけいに星奈をイライラさせる。きょろきょろよそ見してないでさっさと歩け。
「待てって。」
案の定いくらも離れないうちにカリムに追いつかれて、雑に腕を掴まれる。無視して進もうとしたのに腕がぴんと伸びただけで、すぐに引き戻されてしまった。
「どこ行くんだよ。迷うぞ。」
「離せ!ばか!変態!」
振りほどこうとして腕をぶんぶんと振ると、その剣幕に驚いたように周囲の人々がざわざわとこちらに注目してくる。うるさいうるさいうるさい。見るな。
「おい、……。ちょっとこっち。」
さすがにまずいと思ったのか、カリムは周囲を見回すと星奈を隅のほうまで引っ張っていった。そのまま出店の間に伸びている細い路地の中ほどまで引っ張り込まれると、大通りからは完全に隠れる位置になる。あんなに賑わっていた通りを少し入るだけで、あっという間に昼間の喧騒が遠くに感じられた。
「さっき脅かしたやつ?」
「……。」
カリムがこちらを振り返って覗き込むように尋ねてきた。ご機嫌取りをしようと見え見えの態度。今さら遅いんだから。絶対に懐柔されたりなんかしないという意思表示に、口を引き結んだままぷいと顔を背けてやった。
「ごめんって。もうしないから。」
「……帰る。」
「……はあ。わかったよ。」
星奈が頑なさを崩さないと悟ったのか諦めたように髪をかき上げて、ため息。まるで笑って済ませられないこっちが悪いと言わんばかりの態度だった。その一瞬で決定した、絶対に許さない。
反射的に腕を振りほどくと油断していたのか簡単にはずれたので、そのままカリムを通り過ぎて大通りとは反対方向の路地の奥に向かって歩き出す。こんなやつと仲良く一緒に帰るなんてごめんだし、もう一秒だってこいつと同じ空気を吸っていたくなかった。
「あ待てよ、そっちじゃないって。」
「一人で帰るからついてこないで。」
「おい、一人で帰れるわけないだろ。」
いつになく荒げられた声で乱暴にまた腕をつかまれた。一人で帰れなくたって、それならいっそのこと帰らなくていい。カリムなんかに頼ったりするくらいなら、そのほうがましだ。それから――怒ってるのはこっちだ。
「離せっ!」
今度こそ全力で抵抗したらその反動で頭の日よけショールが外れてぱさりと地面に落ちた。そのせいで、カリムの向けてくる無神経な視線がすべて星奈に突き刺さる。負けずに星奈も睨み返した。今度は腕は、離れない。
「なに意地張ってんだよ。」
「張ってない。」
「張ってるって。悪かったから、機嫌直せよ。」
言葉とは裏腹にイライラとした口調で言われて、しかも全部星奈が悪いみたいな言いぐさ。頭の片隅がぷつんと切れた感じがした。
「……はあ?誰のせいだと思ってんの。」
「だから、謝ってるだろ。」
「やだ、許さない。いっつもいっつも、私のことばかにして。今日だってせっかく、」
……せっかく楽しかったのに。全部言い切る前に勝手に顔がくしゃりと歪んでしまい、慌ててうつむいた。遅れて喉の奥から震えが来て、歯をくいしばって耐える。こんな奴に負けるなんて、絶対に嫌だ。
目に力を入れて耐えているとカリムのポケットから銀色の串がのぞいていて、あの気のいいおっちゃんを思い出してまたじわりと目が熱くなる。せっかく親切にしてもらったのに、台無しにされた。カリムのせいで。
不自然に途切れてしまった言葉のせいで、うかつには何も言えないような重苦しい沈黙がその場を支配する。そこに場違いにも大通りののんきな黄色い喧騒が漏れてきて――、いや場違いなのはむしろこっちのほうなのだった。普通はああやって楽しく出店を回るものだというお手本。それなのに星奈一人だけそこからあぶれて、薄暗くて肌寒い路地にいる。なんでいつも私ばっかり、こんな目に遭わなきゃいけない……。
そのまましばらく足元にまとわりつくように砂埃が流れていって、
「……ごめん。」
先に口を開いたのはカリムのほうだった。
「ごめん。もうしないから。」
言葉は少ないがその口調は先ほどのイラついたものではなく、静かに落ち着いていた。ぎゅうぎゅうと捕まれていた腕もいつの間にか添えられているだけくらいになっていて、それで星奈ももう無理に反抗しようとは思わなくなった。今度の言葉は一時しのぎのご機嫌取りなんかじゃなくって、ちゃんとカリムの深いところから来たものだと思えたのだ。
まだすぐに許してやる気にはなれないけど、一応謝罪は受け入れてやる。そういう気持ちでカリムの足元を見つめながら頷こうとしたとき、しかし続けてカリムが、
「ばかにしてるとか、そういうつもりじゃなかった。その……、からかうと、反応が面白かったから。」
と小学生みたいなことを言うので、星奈は思いっきり見つめていた足を踏んでやった。やっぱり絶対に許さない。
・
足を踏まれたカリムはうめき声で耐え、鬼の形相で睨みつける星奈を見て情けなく笑った。これで痛み分けだと思ったのだろう。確かに先ほどのような地を這うマグマのようなどろりとした怒りはなくなったものの、星奈の炎はまだまだ燃えさかっている。仕返しに、なるべくカリムのお財布を空っぽにしてやってから帰るのだ。
「お腹すいた、ご飯食べる。カリムのお金で。」
「はいはい。」
手始めに本来の目的である屋台飯をいろいろと頼んだ。デザートは売っている店が少なかったので、全部制覇だ。
「シーリとラニアにもお土産買っていく。カリムのお金で。」
「はいはい。」
カリムも宣言通り、その後は星奈をからかって遊ぶことはしなくなって、むしろ星奈に仕える忠実な騎士のようになり、あれこれと召使のように働いた。というか、これが本来の正しい姿ではないか。久しぶりに己の揺るがぬ優位性を確信した星奈は、さらに気を大きくした。
「やっぱり、もうちょっと見ていく。カリムのお金で。」
「はいはい。」
シーリとラニアに屋台飯をお土産にしようとしたら、クッキーのような焼き菓子詰め合わせの出店の存在を教えてもらったのだ。そんなの、自分用にも買っていくに決まっている。カリムのお金で。
しかし最初のお店で買いこんでしまったあとに似たようなお店がいくつかあることに気づき、ここ一番といっても過言ではない絶望が星奈を襲う。
「えーっ、ウソ、こっちのほうがおいしそうだった……。どうしよう、さっきのやつ賞味期限いつまで?」
「別に今日全部買っていかなくても、また来たときに買えばいいだろ。」
若干呆れたように言われてついに星奈は納得してしまったのだった。それもそうか。また来よう。……なんで今日しかないと思ってたんだっけ?
そうやってにこにこ顔でお土産をたくさん携えて帰ってきたことにより、「水の乙女とカリムが街でデートをして、ずいぶんと楽しんできたようだ」という噂が、十分な真実味を持って王宮中に広まることとなった。