どんな時も、一番近くにいてくれるひと
「以前のように、俺のことは“ヴィクトル”と呼んでくれないか」
「……え"!?」
思ってもみない願いに、私は慌てて尋ねる。
「きゅ、急にどうして!?」
「それはこちらの台詞だ。
……疲労で倒れたあの日以来、君は何故か“ヴィクトル様”と呼ぶようになった。
てっきり皆に対してそうなのかと思って様子を見ていたら違った。
クロードやアランには呼び捨て、挙句の果てには、ベルンハルトのことを幼い頃しか呼んでいなかった“ベルン”と呼ぶなんて……、俺だけ不公平だとは思わないか?」
「ふ、不公平!?」
そんなこと考えたことなかったけど……!
とあわあわとした私は、咄嗟に口にする。
「そ、それではまるで、嫉妬しているみたいじゃない!」
「! ……嫉妬?」
(っ、あぁ!)
口を噤んだが時既に遅し。 車内に重い沈黙が流れる。
(私、何てことを……っ! 一ファンであり悪役令嬢に過ぎない私が烏滸がましすぎる!)
それに、ヴィクトル様は顎に手を当てて真面目に考え込んじゃってるし……!
(絶対“何言ってんだこいつ頭おかしい”って思われてるに違いないっ!
よし、こういう時こそ淑女教育の一貫で培った会話術を)
「そうか……、嫉妬か」
「へ……?」
そう呟く声が隣から聞こえてきたため顔を上げ、そちらを見れば……。
「っ!?」
(つ、ついに最推しのご尊顔の後ろにバ、バラが見える!?!?)
麗しいお顔には、まるで甘い蜜を舐めた時のような甘やかな笑みを讃え、こちらを見つめる彼の顔が……って。
(ち、近ーーーい!!)
ムリムリムリッ! 一体何が起きてるのー!?
「〜〜〜ヴィクトル様っ!? 距離が近っ」
「君が名前を呼ぶまで、絶対に離さない」
「!?!?」
(距離感バグを通り越して、今すぐ天に召されそうですけどぉーーー!?)
何何何この状況っ! 名前一つでそんな、ヴィクトル様の圧倒的美の暴力が凄いんですけどっ!!
「……名前を、呼んではくれないのか?」
「っ!!」
まるで幼子のように、彼はそう悲しげな声で口にする。
「……っ」
その間にも、ヴィクトル様は徐々に距離を縮めてきて……。
「……アンジェラ」
「っ!?」
もうすぐ吐息が触れそうな距離になった時、私は羞恥で顔を真っ赤になっているのを自覚しながら、ようやく言葉を発した。
「っ、どうしても、言わなきゃダメ……?」
「!?」
(だって恐れ多すぎるものっ!
最推しの名前を本人に向かって呼び捨てだなんてぇ!!)
その途端、ヴィクトル様が目を丸くし固まった……と思ったら、今度は一瞬にしてバッと距離を取られる。
そして、口元を手で押さえて小さく何かを呟いた。
「〜〜〜それは、反則だろっ……」
「え??」
あまりにも小さい声だったから、私はその声が上手く聞き取れず聞き返そうとすると、彼は「分かった!」とやけになったように口を開いた。
「今日は無理にとは言わない。
だが、言っておくが公式の場はともかく、俺は呼び捨てにしてもらった方が嬉しい。
……俺はアンジェラ、君の婚約者なのだから」
「……!」
その言葉にハッとする。
そんな私の目の前で、彼はコホンと咳払いをすると言った。
「それはそうと、アンジェラ、少し目を瞑ってくれるか?」
「っ、え、えぇ……」
推しからのお願いに応えないわけがない。
戸惑いつつも、ギュッと力強く目を瞑ったけれど、心の中は大パニックだった。
(な、何何何!? この状況で目を瞑ってとか……っ、何があるの!?)
真っ暗な視界の中で、煩いくらいに騒がしい鼓動の音を聞きながら待つが、一向に声がかからない。
私は恐る恐る尋ねた。
「ヴィクトル様?」
「っ、あぁ、開けて良いぞ」
彼の声にゆっくりと目を開ける。
すると、私の視界に飛び込んできたのは……。
「……っ!?」
彼の手に載っている物に、私の視線は釘付けになる。
そして、震える声でようやく口にした。
「っ、スター、ドーム……?」
私の言葉に、彼はいつもより早口で言った。
「サプライズで渡そうと思って待ってもらっている間に買ってきたんだ。
君が、それをあの店で見ていた気がして」
「!」
私は彼の言葉に、震える口元を手で押さえた。
そして、やっとの思いで声を絞り出すようにして口にした。
「どうして、分かったの?」
スタードームの中には、騎士とお姫様の人形が向かい合い、一本のバラを一緒に持っている場面が収められている。
それは、『薔薇姫物語』中の最後のシーンを模したもので。
そして、そのスタードームは間違いなく、私が帰りにでも買って帰ろうかと目を付けていたものだった。
そんな私の言葉に、彼は安堵したように息を吐いて言った。
「君を見ていたら、すぐに分かった。
……幼い頃から、君の一番近くにいたつもりだから」
「……っ」
「とはいえ、合っていて良かった。
君が『薔薇姫物語』を好きだと言っていたから、それで……、って、アンジェラ?
泣いているのかっ?」
焦ったような彼の声に、私は口を開こうとするけれど、上手く言葉にならなくて。
(だって……)
―――幼い頃から、君の一番近くにいたつもりだから
その言葉を、彼はスタードームという形で証明してくれた。
(私は、悪役令嬢なのに……)
こんなに幸せで良いのだろうか。
アンジェラと前世の“私”の記憶の狭間で、気持ちが揺れ動く。
「……泣かないでくれ」
そう言って、彼が自身のハンカチでそっと私の頬を拭ってくれる。
その優しい手付きに、また涙が込み上げてきてしまって止まることを知らない。
(そう、いつだって彼はこうして近くにいてくれた)
どんなに私が、“悪役”をしても、我儘を言っても。
逃げ出すことはせず、時には私のことを叱ってくれながら、それでも彼だけは共にいようとしてくれた。
私は彼のハンカチを持つ手を掴む。
「アンジェラ……?」
戸惑ったように名を呼ぶ彼に向かって、私はスタードームを指差し、口を開いた。
「もう、大丈夫。 ……それ、頂けるかしら?」
「あ、あぁ……」
彼は困惑気味に私の手にそのスタードームを載せる。
私はそれをじっと見て呟いた。
「素敵……」
先程は手に取ってじっくり見ることが出来なかったため、こうして近くで見ると、思わず見惚れてしまうほど、繊細に作られているのが分かり、その可愛さに自然と笑みが零れる。
私は顔を上げると、彼の目を真っ直ぐと見て言った。
「ありがとう。 凄く嬉しい。 ……大切にするわ」
「っ、あ、あぁ」
彼はそう言って、私から目を逸らす。
その耳が赤くなっていることに気付き、思わず笑みを零した。
(今なら、言える気がする)
私はギュッとスタードームを持ち、胸元で抱えると言葉を紡いだ。
「本当にありがとう。 改めて、これからも宜しくね。
……ヴィクトル」
「!!!」
私の言葉にこちらを向いた彼の顔が、今度こそ真っ赤に染まったのだった。




