強さの理由と、隠された道へと行く先を変えて。
『物語の黒幕に転生して』1巻が8月17日に発売です!
「下山できるまで、あと二日くらいでしょうか」
しばらく沈黙を交わしたのちにフィオナが口を開いた。
「ですね。そのくらいでギヴェン子爵領に下りられると思いますが――――あれ? 今更ながら、ギヴェン子爵領って言うのは間違ってるんですかね?」
疑問を口にしたのは、ギヴェン子爵がもういないからだ。
彼があの事件の後で失脚したであろうことは間違いないけど、それより先に、自ら命を絶っていたからである。
「えっと……いまは皇族預かりになっていますから、恐らく……?」
「……今回はわかりやすさ重視ということで、ギヴェン子爵領とさせてください」
レンが頬を掻けば、フィオナがくすっと目を細める。
そこにはこの状況に悲観した姿はなく、どこまでも気丈だった。
「イグナート嬢はお強い方なんですね」
「え? 急にどうしたんですか?」
「俺の勘違いだったらすみません。思えばあの吊り橋での事件ですら、恐れた様子をお見せになってなかったと思いまして……」
「――――そのことなら、この前に話したことと同じ理由ですよ」
彼女は満天の星が輝く夜空を見上げた。
白い吐息を漏らしながら、焚き火の灯りで横顔を照らす。
「この景色をほんの一年少し前の私に見せたら、これは夢だ、って笑い飛ばされてしまいそうです」
話題が変わった気がしたレンはきょとんとしたけど、それは指摘しない。
フィオナはきっと、これも必要な話だと考えているから前置いているのだ。
ここに来てはぐらかされるなんて、到底考えられない。
「一年少し前……ですか?」
「はい。私って本当に病弱だったので、それまで自分の部屋から外に出たこともなかったんです」
フィオナが言うには、空も窓から見える範囲しか視界に収めたことが無かった。
外がどれだけ広いかも知ることができず、空が広いことも知ることができず。自分の部屋を出られる機会も、年に数回限りだった。
「砦に居た方たちが器割れに似た症状だった、と言いましたよね」
レンがすぐに頷いた。
「私はその器割れに罹っていたんです。それは魔法による治癒を生業とした者や薬師、それに魔道具職人が無理と言い切るほど重度でした」
(……だから、あのネックレスをしてたのか)
破魔のネックレスの存在は、そのためだった。
元々あれは、七英雄の一人が仲間の気配を隠すために作ったもの。七英雄の強大な魔力を抑えることで、魔王をはじめとした相手を惑わした。
その魔力を抑える効果を利用することで、フィオナの身体を少しでも良くしようとしたのだろう。
「この話って、俺に教えても大丈夫なんでしょうか」
「ええ。冒険者さんになら、きっと」
フィオナは迷うことなく答え、つづける。
「私の世界は、私の部屋だけでした。お父様が用意してくださった治療用の魔道具が並び、ポーションが並び、体調がいい日にだけ読める本が並ぶ棚と、介助なしでは自分で座れない椅子……これだけが、私の住む世界だったんです」
身体を動かすことも介助なしでは難しかった。
動かせても、ベッドの上で自分の力で身体を起こし、飲み物を飲んだり、食事をすることくらいなもの。
それすらも、体調がいい日に限られる日々を過ごしたのだ。
だが、あるときを境に世界が変わった。
それは唐突に訪れて、彼女の運命を大きく変えた。
「お父様や給仕たちの様子が変わった日がありました。私はそれを、ああ、もう自分は余命いくばくなのだろう――――と勘違いしてしまいましたが、そうではありませんでした」
夜、フィオナが眠ってからのことだ。
彼女は明言を避けたが、シーフウルフェンの素材を用いたと思われる薬が、彼女に知らされずに投与された。
理由は簡単。
イグナート侯爵たちがフィオナにぬか喜びをさせたくなかったから。
「瞼を開けたとき、生きていたことに安堵しました。それから、今日は介助があれば立てるかな? 一人で上半身を起こせるかな? もう何回、自分でご飯を食べられるかな? ――――って、ささやかなことを祈ったんです。だけど、私はすぐに身体の様子が違うことに気が付きました」
目が覚めると、身体がやけに軽かった。
まるですべてが、別の世界のようだった。
これまで見えていたものが白黒だったと勘違いするほど、視界に映るすべてが煌めいた。
色鮮やかに、眩しいくらいに輝いていた。
「身体が痛くなかった……それが不思議で、介助がないのにベッドから立とうとして、床に転げ落ちました。頭を床にぶつけて、コブができました。だけど、それだけだったんです。情けなく絨毯の上を這いずっているだけで――――私ははじめて、嬉しくて涙を流しました」
フィオナの横顔を見ていたレンは、その瞳に宿る力強さに気が付いた。
大貴族の令嬢が語る壮絶を、彼はじっと聞いていた。
「だからいまは何も怖くありません。あの日々と比べたら、こんなのへっちゃらです」
フィオナが天空に向けていた顔をレンに向ける。
その瞳は夜空に瞬く星々が石屑に見えるほど、神秘的な煌めきを秘めていた。
(この子が、本当は死ぬはずだったなんて)
レンがレンでなければ、死ぬはずだった運命のフィオナ。
彼女がいまを必死に生きている姿が、尊かった。
そして、彼女が何も恐れずにいられた理由も、痛いほど伝わってきた。
「すみません。簡単に聞いていい話じゃなかったんですね」
「う、ううんっ! 平気です! いまはもう大丈夫ですし、それに――――」
そっとレンから目をそらし、カップに目を向けたフィオナが呟く。
「……それにいまは、下山してからを想えば頑張れます」
小さな声で、何かを明言せずに。
だけど彼女は、いまの呟きに大きな意味を抱いて、そのためにも頑張るのだと密かに強い意志を持っていた。
その呟きはレンに届かなかったけど、それでいいと思っていた。
「必ず、無事に下山しましょう。俺が絶対に、バルドル山脈の外へ送り届けるって約束します」
レンの口から自然に出た言葉と、彼の力強い瞳がフィオナを射抜く。
頼もしさは言うまでもなく、フィオナはこの短期間で持ち得るはずのない強い信頼感を以て頷いた。
「ほんと、あの方たちが言った通りの――――すごく優しいひとなんですから」
フィオナはつづけてレンに聞こえない小さな声で言い、くすくすと笑いつづけた。
だが、
「……」
彼女はおもむろに手を伸ばし、自分の胸に手を当てた。
すぅっ……と深く呼吸をして見せたところで、レンが違和感を覚える。
「大丈夫ですか? 何か、体調が優れないとか……」
「い、いいえっ! 大丈夫ですっ!」
慌てて言い繕ったフィオナだけど、大丈夫と言えるだけの説得力が頬に宿る。
レンが覚えた違和感を気のせいだったのかと思わせるほど、彼女は平静を装って、これまでと変わらぬ笑みを掲げていたのだ。
「もう少し寝てください。俺なら大丈夫ですから」
さっきはうとうとしてしまったが、もう少し頑張ろう。
フィオナを気遣えば、彼女は少し迷ってから「すみません」と謝った。
「お言葉に甘えて、先に休ませていただきますね」
すると、フィオナは立ち上がってからもう一度謝罪して、レンが居る焚き火の傍を立ち去ったのだ。
自分が使うテントに戻り、入り口を閉じる。
それと同時に、彼女は勢いよく両膝をついた。
つづけて横たわると、両腕を胸に伸ばして目を伏せる。身体全体に奔った強烈な痛みに耐えながら、
「……こんな、どうして……急に……っ」
絶対にレンに気が付かれないように、呼吸すら息をひそめるように。
殺しきれない声は、両手で口をふさぐことで少しだけ抑えた。
◇ ◇ ◇ ◇
二人は夜が明けてすぐに野営地を発った。
周囲の雪は数日前と比べて、かなり少なくなっている。
まだ豪雪の影響は散見されるものの、溶岩流がいたるところで流れたことで、その熱を受けた雪が解けてしまっていた。
おかげで、下山は順調に思えたのだが――――
(……最悪だ)
ギヴェン子爵領へつづく道が、レンの目の前で途切れていた。
あるはずの道は巨大な溶岩流に阻まれている。
辺りの急な斜面の下から、溶岩が飛沫を上げながらはじけた。これほどの勢いは、イグナート侯爵がこの地でアスヴァルを復活させようとしたとき以上だ。
(これが普通の溶岩だったら、どうにかなったかもしれないのに)
ギヴェン子爵領側への道を目指してはじめてからすぐ、フィオナが気が付いたことがある。
彼女は辺りに流れる溶岩流が、普通の溶岩ではないと言ったのだ。
曰く、溶岩の熱から魔力を感じる――――まるで溶岩が生きているようだ、と。
吊り橋を襲った炎とよく似ている、と。
だから溶岩はこの寒さに凍り付く様子もなく、猛威を増す一方だった。
当然、これまでの道で、レンが自然魔法を用いて道を作ろうと試みたこともある。
同じく、フィオナが用いる氷の魔法で溶岩をせき止めようとしたことだって。結果はいずれも効果がなく、魔力を孕んだ溶岩の勢いは収まることを知らずに猖獗を極めた。
「……冒険者さん。私たちが最初に来た道に向かってみますか?」
「いえ。イグナート嬢も予想していると思うんですが、この分だと、そっちの道も同じ状況か……俺たちが到着する前に、もっとひどい状況になっているかもしれません」
「そう……ですよね」
もう、余裕はない。
バルドル山脈はすでに、レンが知る光景からかけ離れている。
白銀の峰は刻一刻と溶岩に覆われて、やがてレンとフィオナが歩く場所すら奪い去ってしまうだろう。
下山の手段をえり好みしている時間はとうにない。
……いや、最初からなかったのかもしれない。
「……一応、他の道に覚えがあります」
もう苦肉の策だった。
他に思い付く道はなく、一日の猶予もない。
「他の道……そこからなら、下山できるんですか?」
「はい。間違いなく」
それはレンが知る隠しマップである。
この世界でもその場所が存在するかどうか。
また、必ず出現する鋼食いのガーゴイル、それに、隠しマップ周囲の環境も相まって、これまでその選択肢を除外していた。
「ですが、Dランクの魔物も居るため、危険を伴う道です。もしもその道まで行けなかったら、場合によっては砦で待っていた方がよかった――――という結果になるかもしれません」
「……いいえ」
フィオナが切なげに苦笑。
「冒険者さんもおわかりのはずです。外からの助けは期待できません」
仮に吊り橋で分かれた者たちが生きていたとして、更に無事に生還していたとして。
きっと彼らは、もう下山を終えているはず。それから増援を求める――――あるいは、下山して間もない騎士や冒険者たちが、レンとフィオナを助けに来ようとしているかも。
だが、不可能なのだ。
吊り橋を経由しない場合、二人が居る砦側への道は峡谷を進むしかないのだが、あの深い峡谷を進むことは現実的ではないし、いたるところに流れる溶岩流は勢いを増す一方だ。
(かと言って、別の道からの救助も期待できない)
それらの道から救助が来るのなら、そもそもレンとフィオナは自力で下山できるからだ。
となれば、救助を待つ間に溶岩流がレンとフィオナの命を奪うだろう。
溶岩流はここより高い場所からも流れ出ている。二人の命を奪えるだけの勢いに至るのは、想像に難くない。
「行きましょう。……危険だとしても、冒険者さんが知っている道に行く以外、私たちが助かる方法はないみたいです」
待っていても溶岩流に飲み込まれるだけなら、危険を覚悟の上で進むべき。
二人はその考えを共有した。
……それにしても、
(どうしてこんなことになってるんだ)
イグナート侯爵がボスとしてこの山脈に君臨し、アスヴァルを復活させようとしたときと比べても、いまの溶岩流はそのときの比じゃない。
此度の騒動を誰か仕組んだとして、こんなことができるのだろうか? たとえそれが、魔王復活を企む者たちの犯行だとしてもだ。
(それができるなら、イグナート侯爵だってしてたはずなんだけど……)
そうすれば、七英雄の伝説における主人公たちの横やりも入らない。
イグナート侯爵は彼の目的であるアスヴァルの復活を果たし、レオメルに牙を剥いたはず。
でも、していなかった。
これがゲーム的な演出だったのか、それとも別の要因なのか。
(……)
あるいは……フィオナの存在が関係しているのかも。
一瞬、その考えがよぎったレンだったが、彼はすぐに頭を振って歩き出す。
「行きましょう。まずは俺が知る道へ向かってみます」
するとフィオナは「わかりました」と、疲れた声で返事をした。




