試験対策期間にて
翌日、学院にて。
周囲の生徒がペンを走らせる音を聞きながら、レンも同じようにノートに向き合う。
歴史の授業だった。中間考査が迫っていることも関係なく、通常通りの授業も進められていた。
最近の勉強疲れか、こうしていると瞼が重く感じる。レンが眠気に抗っていたらリシアがくすりと笑い、声帯を振動させない微かな声を届ける。
「眠いの?」
正直に「はい」と首を縦に振ったレンのことを、リシアは可愛いらしく思った。
「もうちょっとだから、頑張って」
彼女は再び小声で言った。
この日の授業の範囲は魔王討伐を終えてからのレオメル国内にて、各地の神殿が再建、あるいは新設された時代について。
眠気に耐えるレンが教授の声に耳を傾けつつ、参考書へと視線を落とす。
……この神様って、確か。
再建されたとある神殿、獅子王が存命だった頃に祈りを捧げた場所。
そこに祀られているのは創造神アリス。
以前、ラグナの報告書にも書いてあった、ジェノ院のステンドグラスに模されていた少女の姿をした神だ。
とても……とても古い神で、その二つ名が示すように最初の神。いまでこそアリスを祀る神殿は少ないが、代わりにその他の四神の神殿が多く造られた。
時の神。
知恵の神。
生命の神。
そして――――主神。
全員がアリスにより生を受けた女神たちで、はじまりの四女神とも呼ばれる存在。
世界開闢の頃、漆黒の世界にただ一人漂っていたアリスが寂しさに涙を流し、大地と海、空が生まれた。アリスが世界の中心にできた小さな泉の水を振りまいたことで、四神が誕生したとされている。
やがて戦神などが生み出され、いまの世界があるというのが創世神話の一部分。
世界中の人々にとって、主神エルフェンはどの神よりも身近だろう。彼女は世界中に信者を持つ偉大な神として知られている。
唯一、彼女の加護を得た勇者ルインという存在も、主神の名を知らしめる一因だったことは言うまでもなかった。
(その母親の創造神は、勇者みたいな存在を創らなかったのかな)
少なくとも、そうした存在を生み出したという記録は存在していない。
――――鐘の音が鳴ると同時に教授が教室を去り、生徒たちは一斉に脱力した。
試験前の授業はどうも緊張感が高まりつづける傾向にあり、授業を終えた生徒たちがすぐに教室を出ていく。
一方で、レンとリシアはほとんど緊張していなかった。
普段と変わらず過ごしていた彼らは少し時間を置いてから食堂へ向かい、やはり授業を終えたフィオナと合流したのだが、いつもより席が空いていた。
落ち着いて昼食を終えるとレンはリシアと別れて中庭に出て、噴水の近くまで歩いた。
この日は、中庭などで昼食をとる生徒の数も数える程度だった。いつもより静かなせいか、近くの噴水から届く水の音が普段より大きく聞こえる。
そんな噴水を横切るように歩くレンの隣で、フィオナが噴水の音を聞きながら唇を動かした。
「二年次の授業、最近はどうですか?」
「少しずつ難しくなってきてる気しかしてません。四年次はどうです?」
「あはは……実は私のほうも同じような感じです」
黒の巫女――――フィオナ・イグナート。
黒曜石を想起させる長く美しい髪に、紫水晶色の瞳。
神秘的な美を湛えた息を呑むような気品すら秘めていながらも、時折見せるあどけなさはあまりに可憐。
幼い頃は黒の巫女がもたらす身に余る力に耐えきれず、命を落とす寸前にまで追い込まれたことがある。しかしそのときも、またつづくバルドル山脈での騒動の際も、レンに命を救われたことで彼に心を寄せている少女である。
その純粋な愛慕を抱きつづけてきた彼女が、話を膨らませた。
「歴史の授業ってこのくらいの時期だと……神殿の成り立ちとかでしたよね?」
「ちょうどその付近です。今日は女神様たちのこととか……いろいろと細かい内容からでした」
「二年次の歴史の授業って、参考書も特に分厚いですよね……」
と、苦笑いを浮かべたフィオナの髪が風で揺れる。
夏の制服に身を包んだ彼らが日差しを避けるように木々の陰を歩いていると、涼しい風が通り抜け、先ほどまでの暑さを少しだけ忘れることができた。
「『はじまりの四女神』は歴史への影響が特に強いですし、帝都以外にも神殿がたくさんありますから」
「各地の逸話とかもこれからの範囲らしいんで、いまから気が重いです」
そう言ったレンをフィオナが「また一緒に勉強しませんか?」と気遣えば、彼は頼もしく思い「お願いします」と即答した。
「リシアと夏以降はもっと大変そうって話してたんです」
「そういえば……ご飯の途中でリシア様も復習しなくちゃ、って言ってましたものね」
「ですね。それからすぐ、リオハルドさんと行っちゃいましたけど」
「図書館でしたよね。リオハルド様が、試験のことで教えてほしいところがある……って」
リシアは昼食を終えると、セーラとの約束を果たすべく席を外していた。
それを話していたら、フィオナが図書館へ用事があったことを思い出した。
何冊か参考書を借りていきたかったから、このまま向かってリシアたちの様子を見てみるのも悪くなさそう。
「……そうでした。私も図書館に参考書を探しに行かなくちゃ」
「それなら俺もいいですか? 俺も何冊か探したいので」
「ええ、もちろんです」
ただ、校舎へ向かうのをやめれば日陰のない道を歩くことにもなる。二人は燦々と降り注ぐ陽光を全身に浴びながら、それを覚悟した。
まばゆい光に照らされた二人の横顔はより鮮明に照らされ、力ない笑みを交わす。
「……にしても、暑いですね」
焼け焦げてしまいそうな暑さにレンが声を漏らした。
「ええ……だけど、これからもっと暑くなりますよ」
「……やっぱり、暑いって言わなければよかったって思いました」
「……私もです」
頷いて返したフィオナの白い首筋を、一筋の汗が伝った。
明日はきっと、今日より暑い日になるだろう。
二人はそう思ったが、口にすることは決してなかった。口にしてしまえば、いまよりもっと暑い気分になってしまいそうだと知っていたのだ。
しかしそれも、図書館に入るまで。
空調用の魔道具が完備の校舎と同じで、一歩足を踏み入れればその涼しさに包まれる。試験対策に励む生徒で賑わっていると思われた図書館だが、この日は意外にも空いていた。
二階に設けられた席にリシアとセーラが隣り合って座っていたのが見えたから、レンとフィオナは彼女たちの元へ歩を進めた。
すると、リシアが二人に気が付いて顔を上げる。
一方でセーラは、ノートにかぶりつくように下を向いていた。
「……変ね。計算が合わないわ」
七英雄の伝説ではメインヒロインに位置付けられていた少女、セーラ・リオハルドが力ない声を発して机に突っ伏した。その人となりが浮かび上がったような整った顔立ちに、いまは弱々しい表情が浮かんでいる。
彼女はノートの上に絹のような茶髪を広げるように倒れ込むと、リシアに遅れてレンたちに気が付いた。
ノートの上に顔を落としたまま、やってきた二人にその顔を向けた。
「あらレン、イグナート様と一緒にどうしたの?」
「俺たちは参考書を探しに来たんです。それで、二人がどうしてるかなって見に来てみました」
「ふふっ……見に来たところで、あたしのこの情けない顔しか見れないけどね」
「い、いえ、情けないなんて思ってないですけど……」
レンが以前も心の中でフォローしたことだが、セーラは成績が悪いわけではないのだ。
きちんと繰り返していけば難問だって間違いなく解けるから、決して要領が悪いわけでもなかった。
「セーラ、少しだけ休憩にする?」
「……うん。する」
「わかった。じゃあ私は別の参考書を探してくるから、ゆっくりしてて」
優しげな笑みをセーラに向けてから席を立ったリシアが歩きはじめると、レンとフィオナがそれにつづいた。
参考書を探しながら、思い出したように口を開いたのはレンだった。
「……こんなに暑いと、明日の仕事も大変そう」
それを聞いたリシアが「ほんとにね」とため息交じりに言えば、フィオナがさっきのことを思い出して。
「レン君、もう暑いって言わないんじゃなかったですか?」
「……すっかり忘れてました」
レンはばつの悪そうな表情を浮かべ、手にしていた数冊の参考書を小脇に抱えた。
いまフィオナに言われたばかりだからもう口にするつもりはなかったけれど、確か明日はもっと暑くなるという予報だったような……。
ついでに、
「確か明日って、夕方過ぎから雨が降るみたいですよ」
「でも、明日の仕事自体は朝早くからなんで、その時間には帰れてそうですね」
レンはそう言い、まばゆい陽光に目を細めた。
別の本棚へ向かうためにレンが離れたところで、リシアがフィオナに問う。
「やっぱり、四年次の試験って難しそうですか?」
「そうかもしれません……試験勉強は去年のほうが楽だったと思います」
「はぁ……やっぱりそうなんだ……」
嘆息したリシアにフィオナが新たに言った。
「あとは、夏休みになる前に返ってくる点数が気になるくらいでしょうか」
「そう! あれってすごくドキドキしちゃいませんか?」
「します! 何度も経験してるはずなのに全然慣れなくて……!」
最近では、以前にも増して自然体で話せるようになっていた二人。特にリシアは、気が昂ったときによく出るいまのような口調も時折交じっていた。
年上とか、年下とか。
先輩とか、後輩とか。
それに恋敵とか、別派閥とか。
ほかにも思いつくことはいくつもあったけれど、レンとともに多くの経験をしてきた二人を何かしらの一言で言い表すことはできない。
◇ ◇ ◇ ◇
雲一つない青空は、昨日に比べてもさらに鮮やかだった。
その色を見ていると、また一段と暑い日になりそうだと思えてならない。
日頃は通学のため魔導列車に乗る時間に、レンたちは普段は使わない方面行の魔導列車に乗り込んだ。
それは三人が、ある仕事をするために。
いつもならレンたち以外にも乗客がいるはずの車内だが、この日は騎士や文官の姿を僅かに見るだけ。
その静けさに浸りながら、穏やかな時間がしばらく経つ。
時折、正面の席に座るリシアとフィオナと言葉を交わして……外の景色を楽しんでいたら、
「レン、ラグナさんから連絡はないの?」
リシアが何の気なしに話題を変えた。
「まだです。あの鍵が直ってから時間が経ってますし、そろそろ来ると思うんですけど」
鍵というのは、伝説の吟遊詩人ミューディの隠れ家を示す魔道具のこと。
レンがラグナの紋章付きを受託したことも関連し、紆余曲折を経て修復に至っていた。
『孤児院に鍵があったということは、セシル・アシュトンのことを歌っているかもしれん』
レンが紋章付きを受託した際のラグナの言葉だ。
今後の調査にレンが同行するかどうかを含め、どこかのタイミングで共有するための何らかの連絡があるはず。
必ず冒険家アシュトンとは断言できなくとも、調べる価値はありそうだった。
ローゼス・カイタスで剣魔が言い残した『神子』という言葉を気にするレンにとって、イヴのことと等しく無視できない。
「もしかしたら準備中なのかもしれませんね」
色艶のいい唇に指先を一本当てて、フィオナが。
「あのミューディの隠れ家なら、ミリム・アルティアが作った防衛用の魔道具があるかもしれないですから。それで連絡が届いていないのかも」
「言われてみれば確かに」
かもしれないと言うが、実際にはほぼ確実だろう。
それならそうと教えてくれたらいいのにと思わないわけでもなかったが、ラグナの人となりを思えば連絡がないのもおかしくない。
……それから数時間もしないうちに、魔導列車は平原に寄り添った線路上で動きを止めた。
そこに駅のホームはなく、外に広がるのは車窓から見えた通りの景色だ。
三人が降り立った線路の上には、いつもはない急ごしらえの足場がある。簡素な階段から平原に足をついて周囲を見回せば、街道警備兵に正騎士、文官たちが使う天幕が見えた。
三人の姿を見て、そのうちの何人かが歩を進めてくる。
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