剣聖が謳う。
レンたちが馬でエウペハイムへ戻っていた頃に。
その孤島の中央には祠があった。
獅子王ゆかりの祠で、滅多に人が訪れない聖域のような場所だ。
「……ふぅ。どこにでもあるわけじゃないか」
少女の声だった。
漆黒のローブに身を包んだその少女が、沖にある孤島でため息をつく。祠の内部、魔法で暴かれた空洞の奥に捧げられていた宝物を手に、それが魔石であると知って。
祠の内部にあった封印は現代でも通用する強固な護りに覆われていたが、彼女は気にせず破壊して中に入り込んでいた。
少女は祠の空洞から跳躍で出ると、一人、孤島を歩く。
ここまで一人で乗ってきた小さな木製の船に乗り、
「七英雄の装備が他にもあればと思っていたけど……しょうがないか。別の場所を探さなくちゃ」
船を魔法で動かし、数分。
「早く帰らないと、剣王と魔女に目を付けられちゃう。あの子たちと戦うのは面倒だし、行かないと」
さらに沖へ沖へ進んだところで、小船の真下に現れた巨大な影が泳ぐのを見た。
彼女はローブのフードをとり、海風に髪を揺らす。銀髪に、黒いメッシュがいくつも入った髪だった。
端正に整った顔立ちに涼しげな笑みを浮かべ、目を細める。
宝石のようなオッドアイだった。
「これはあげる。だから暴れておいで――――巨神の使い」
彼女は水中に浮かんだ巨大な影へ、祠の中で手に入れた魔石を放り投げた。
◇ ◇ ◇ ◇
レンたちが進む岬の下に広がる海が揺れた。
海面が不規則に隆起したと思えば、周囲の海面から水柱が上がる。
水柱が鞭のようにしなり、岬に叩き付けられようとすれば、
「お下がりください」
エドガーが前に出て、腰に携えていた二本の剣を抜いた。
それらの剣はどちらも、エドガーが生み出す氷のように蒼い波動を浮かべていた。
(あれは――――)
剣聖級になると扱える特別な戦技。
以前、エステルがレンとリシアに披露したのと似て非なるもの。
使用者により変化するという性質から、
「私の前で、主に手を出せるとお思いか」
エドガーもまた、一握りの実力者。
彼の性質は絶対的な氷。
蒼い纏いに触れたものを凍てつかせる、彼が用いる魔法の本質を現したようなもの。
一瞬、
『ふむ……どこで剛剣を習われたのですか?』
走馬灯のようにレンが見た光景。
『ある女性からです。すごく強い方なんですよ』
『ま、まさか獅子聖庁の――――』
『なわけないじゃないですか。クロノアさんを殺した俺のこともあの人は探してますし、エドガーさんだってそうなんですから。別の人ですよ』
どこかの古びた、埃っぽい建物の中でのことだ。
レン・アシュトンがエドガーと話している。きっと、以前目の当たりにした別の世界線における二人だろう。
『それで、どうでしょうか。俺にエドガーさんの剛剣技を見せていただくというのは……』
『かしこまりました。では、私だけの剛剣をお見せいたしましょう』
現実のいまと同じで、美しい蒼だった。
その光景が、実際には一秒と経たぬうちに終わっていた。
やはり、七英雄の伝説でもレンとエドガーは知り合い、行動を共にしていた。
どのような目的で二人が行動を共にするようになったのかはわからない。もっと長く見せてくれたらと思ってしまうが、いまはその時間じゃない。
水の腕とエドガーの剣が触れ合って、水の腕が凍り付く。
「俺もいますよ、エドガーさん」
反応が遅れたレンが用いる、赤剣。
はじめから召喚して腰に携えていた炎の魔剣を振る。新たに生じた水の腕を、今度はレンがただの海水へと変貌させた。
蒸発による熱波は剣圧に弾かれ、エドガーが凍り付かせた水の腕ごと海へ弾き飛ばした。
蒸気もかき消さされ、ここにいる誰の肌も灼いたりしない。
エドガーはレンに振り向き、微笑む。
「また、腕を上げましたな」
この隙にこの場を脱し、町へ戻らなくては。
誰よりも守るべきユリシスを中心に、レンは一団の後方で警戒しながら馬を走らせる。
同時に彼は、先ほどの攻撃がどういうものか理解して、頭を悩ませていた。
……どうして、ここに巨神の使いが。
巨神の使いは魔大陸周辺の海域に存在する魔物で、その名が示すようにある存在の眷属だ。
この先、帝都を襲うかもしれない強力な魔物。
レンが昔、夢に見たこともある存在、
(レン・アシュトンがクロノアさんを殺したとき、ヴェインたちが帝都の海で戦ってた魔物――――)
海の王にして、巨神の使いの主。
いずれもヴェインたちが戦った魔物に違いはないのだが、やはりわからない。
巨神の使いがここにいるのなら、すでにヴェインたちが戦って撃退したのか……それとも、別の理由でこの辺りに現れたのか。
「レン・アシュトン! どうやら我らが警戒していた魔物のようだね!」
「はい! ですがどうしてここに……っ!」
「さて、理由はわからないが、我が領内に現れたことは事実だ! 幸い、私も万が一に備えて戦力は増強しているが、この辺りに来るとは……!」
すぐに戦艦が来るだろう。
岬は切り立った岩々が立ち並ぶせいで、内陸へ向かって馬を走らせる際の妨げになっている。
まだ岬から海までは距離が近くて、海岸すら見下ろせる。
海を泳ぐ、巨大な影が見えた。
横目で様子を確認したレンは、巨神の使いが泳ぐ姿を視認した。
(怪我はなさそう)
では、ヴェインたちに撃退されたわけではない?
だとすると、思いつくのは二つ。
一つは、そもそもレオナール領に現れずここに姿を見せたということ。
もう一つは、レン自身馬鹿なと思ったが、あれが二匹目の個体であるということ。
巨神の使いは数匹存在するという設定があったから、馬鹿げた話と一蹴することはできなかったし、直に見ている時点でそれは愚かなことだ。
ギルドの認定はBランク上位。
だからこそ英雄装備の見せどころだったのだが、
『ォオオオオ――――ッ!』
海中からブレスが放たれようとしていた。
消耗したように見えないことから、やはり撃退されてここに逃げたわけではなさそう。
エドガーが、レンが、そして騎士たちが動こうとした。
ふと、レンが抱いた違和感。
(――――変だ)
巨神の使いはとてつもない強さを秘めていた。
それでも、いま放っているほどの力はなかったように思う。レンは知らないが、実際にレオナール家の戦艦を襲った個体より強力なブレスを放っていた。
一段、あるいは二段も強力なように感じる。
Bランク上位の実力のはずが、Aランクにまで到達していそうな……
身体も大きく、身体を飾るヒレも大きく魔力により煌々としていた。
炎の魔剣を握る手に対し、これまで以上に力を込めた。
こうしていると炎の魔剣は応えてくれる。全身に伝える熱が、星瑪瑙に囲まれた空間での戦いを呼び起こした。
アンデッドといえど、アスヴァルと戦ったのだ。
伝説と相対したというのに、臆してはいられない。
『ゴォオオオオオオオ――――ッ!』
ついに放たれたブレスは、レオナール家の魔導船に放たれた以上の破壊力に満ちていた。
つまり、強い。そこいらの魔道兵器以上の破壊力に満ちた水のブレスが、皆が進む岬へ襲い掛かった。
馬に乗って走りながら、片手間に振って防ぎきれるか。
……否、不可能だ。
しかし赤剣の威力も相当なもので、一段の前方へ届きそうなそれらはすべてただの海水に戻る。
残されたブレスの余波でレンの後方に広がる岬が崩れていくが、十分である。
巨神の使いの意識がレンに向かう。
はじめはエドガーにも向けられていたのだが、いま厄介なのはレンと、彼の炎であると巨神の使いが確信。
奴は水深が浅いのも気にせず、一気に岬へ近づいた。
レンとエドガーの力により直撃により犠牲者はいなかったが、岬に亀裂が生じている。
水の腕が岬に叩きつけられ、次にレンだけを狙った攻撃により彼らは分断。
「レン・アシュトン!」
先を進むユリシスの心配した叫び。
それでもレンは、
「早く行って! すぐに俺も離脱しますから!」
できるだけ時間を稼いで離脱したい。
目的は時間稼ぎで、討伐でも撃退でもない。
無理をしてここで一人戦うのが目的ではないのだ。
ユリシスは足を止めかけたけれど、彼の存在はレンの邪魔になる。
また、レンの助けになるのか。そうした思いに駆られながら、くっ! と自身を情けなく思い舌打ち。
馬を走らせ、戦場を離脱してくれた。
(で……?)
時間を稼ぐといったが、戦い方はどうしたものか。
相手は海にいる。ときどき姿を見せたり近づいてくるものの、基本的に相手のほうが圧倒的に有利な戦場だ。
しかし、レンは思いのほか落ち着ている自分を嬉しく思った。アスヴァルと戦い、剣魔と戦った。これらの経験が、レンの自信になっている。
岬にて、馬上で海を見るレン。
馬が大きく嘶いて、前足を力強く振り上げた。
応えるのは、海からレンに狙いを定めた巨神の使いだ。
「――――」
『――――』
岬の上からレンが。
海中から顔を覗かせた巨神の使いが。
次に動いたのは海中の魔物だ。海面のいたるところに水柱を生むと、水の力を駆使するために動きはじめる。
「……時間を稼ぐ、みたいに言ったけど」
敵の強さに苦笑し、レンは炎の魔剣を振り上げた。
ヴェインたちが、レオナール英爵が、そしてアイリアの力も駆使して戦った以上に強化された個体と、レンが繰り広げるのは一対一。
やはり、恐れはなかった。
『ギィイイイイイイイイイイイイ』
空を裂くような声を煩わしいと思いながら……
水の塊が岬に叩きつけられる。レンはそれを躱して、
「もう、これが無茶と思えないくらい強くなれてたのかな!」
地形ごと破壊されたことによる衝撃の音が轟々鳴った。
岬の大部分が崩れ、瞬く間に海に崩落していってしまう。
レンが乗るのは、エウペハイムの騎士から預かった軍馬である。魔物の血を引いているため、ここでも臆することなくレンに従っていた。
崩れる岬の大岩などを足場にして、軍馬を無理やり走らせた。
完全に岬の下へ落ちてしまうことを危惧したレンは、大岩を足場に掛ける途中で言う。
「ありがと。離れたところにいて。怖かったら町に帰って大丈夫だから」
軍馬の鬣を撫でさすりながら言い、その背を脱する。
あたりに飛び散る岩を足場に宙を掛け、つづけて迫る水の腕へ炎の魔剣を振った。
「はぁあああ!」
赤剣を駆使して、迫る水の腕をただの海水へ帰す。
幾分か、飛び散った海水がレンの顔にも降りかかっていた。
汗と混じった海水を、彼は前髪と一緒にかき分ける。
『――――!?』
矮小な一人の少年だったはずなのに。
強化された巨神の使いの意識が変わる。確かにレンを敵であると狙いを定めたのだが、まさかこれほどまで対処されるとは思ってもみず、海を泳ぎながら警戒を強めた。
半壊した岬に降り立ったレンの前後左右から迫る、水の腕。
ふと、レンは自分の身体から――――
笛の音色に似たふぉん……ふぉん、という穏やかに響く笛のような音を聞いた気がした。
わけもわからず、彼は戸惑いながら、
(いまのは)
正体は不明だが、音を聞いてから纏いが変化していた。
あるいは纏いに変化が訪れたからの変化? レンは迫る水の腕へと意識を戻し、
「焼き尽くせ」
赤剣をさらに力強く、広範囲に行使。
深紅の炎による壁がレンを包み、揺れ動く表面が水の腕に触れるたびに焼き尽くす。
肌を灼く蒸気も炎の壁に阻まれて、届く脅威は一切が消え去る。
だが、
「……?」
戦況は悪くないのに、ちょっとした違和感。
先ほどの音色を聞いてから、纏いの調子が芳しくない。
いつもよりずっと強く行使できている気がするのに、それでいてレンの言うことを聞いていないように、不安定。
纏いに意識を向けなおしても、やはり感触は変わらない。
再び、短くも笛のような音が響いた。
しかし、レンはそれを無理やり気のせいだと思いこんで海を睥睨。
すると――――
「な……!?」
巨神の使いが猛然と泳ぎ、岬のすぐ前で全身を大きく跳ね上げた。
巨大な尾が、半壊した岬の上に立つレンの眼前へ迫る。
炎の魔剣を構えて相対しようとしても、これは膂力に限った話ではない。
圧倒的すぎる体重差によって、レンの身体が半壊した岬の上で大きく後退。弾き飛ばされた。
同時に飛び散った石礫が宙でレンの頬を掠め、薄い線状の鮮血が彼の頬に浮く。
レンは空中で身体を旋転させて体勢を整え、炎の魔剣を地面に突き立てた。そうしてからもじりじりと後退させられる圧に耐え、キッと岬の先を睨む。
『――――』
岬と海の境目がひどく曖昧で、見晴らしがよすぎる。
海上に上半身を見せ、ブレスの構えをとる魔物と目が合った。
さらに、いつからから生じていた水の腕が海面の各所から現れて伸び、レンの周囲を取り囲むように蠢いて……
『ォオオオオオオオ!』
空を揺らす咆哮につづき、水の腕が一斉にレンを襲う。
まずは水の腕が再び岬を襲い、レンの足場ごと奪っていく。
そこへブレスが放たれようとしていた直前、巨神の使いを見つめるレンは――――
(あれなら……いや、だけど――――ッ)
とある力の存在を思い返し、行使しようとした。
けれど、それも途中で思いとどまる。
さっきは無理やり気のせいだと思い込むことにした、纏いを用いる感触の違い。そして、思い浮かべた力の影響を鑑みて、間違いは許されないと考えて。
レンは考え直し、何度目かわからない炎の魔剣で迎撃。
水の腕はどうにかなったが、真正面から立てつづけに襲い掛かるブレスに対して、赤剣による守りがやや遅れた。
どうにか炎の壁を生んで防ぐも、殺しきれなかった圧がレンを襲った。
弾き飛ばされることはなかったが服はいたるところが破れ、頬と手元にも傷が生じた。
強大な水属性のブレスがつづいた。
炎の魔剣を手に、懸命に耐えつづけるレンは歯を食いしばった。
「こ……の……!」
そして、この状況に陥ったことで迷いを消した。
さっき使うのを避けた力を、いま。
迷いを消し、強力な敵と対等以上になるためにも。
この状況下でレンは炎の魔剣を消し、ミスリルの魔剣を召喚して持ち直す。
足場が消えたことで身体が宙に持ち上げられた中、放たれたブレスと全方位から迫る水の腕に対して、
「受けて立つ――――ッ!」
強力な水魔法のすべてが、矮小な少年の全方位から襲い掛かった。
水しぶきがどこまでも散って、空高く舞い上がった。
巨神の使いも、さっきまでのように力をかき消された気配を感じていない。
代わりに、巨神の使いも笛のような音を聞いた。
すぐにブレスの中心から発生した閃光を見た。
地形にも影響を与える強大な魔力の暴走と、迸る魔力を。
レンが夏に得た、新たな戦技の強さを。
「巨神の使い、いまの俺は強いぞ!」
レンが岬の下の海岸線に、岩陰に隠れた若い冒険者たちを見つけたのはそれからすぐだった。
◇ ◇ ◇ ◇
戦艦より早く岬に近づいていたのは、エステルとフィオナの二人だった。
二人は途中、町へ向かう最中だったユリシスらと鉢合わせた。
「フィ、フィオナ!? なぜ町を出てきたんだい!?」
答えはエステルの口から。
「すまない。屋敷に帰すべきと思ったのだが、私も立場上じっとしてはいられない。であれば私の傍にいた方が安全と判断し、ここまで同行してもらった」
エステルはレオメル最強の騎士だ。
もしも町の中で新たな異変が生じたらと思うと、エステルは無視することができず一緒に行動したほうがいいと判断した。
事実、エステルはそれほど強い騎士だ。
「それに、遠く離れたところから不審な揺れを感じ、町の民へ内陸に逃げるよう指示していた。フィオナはそれを率先して行い、街道にて指示をしていたのだぞ」
フィオナも懸命に務めを果たし、町で、町の外でできることをつづけてきたのだ。
だから彼女も町の外にいた、そうした理由もあった。
「フィオナ、迅速に動いてくれて助かったよ」
「いえ、私もエステル様にご指示をいただきながらでしたので……!」
馬を一度止めると、皆が馬上で話をする。
「それで、レンはどこにいるのだ」
ユリシスが、エドガーが事情を話す。
激しい音と大きな揺れが、ここまで届いていた。
それらの衝撃に交じって聞こえた、ある音。レンの身体から鳴っていた、笛のような音色である。
「この音は……」
エステルの目の色が変わり、声に多くの驚きを内包していた。
「――――くくっ、レンめ」
愉快そうに笑って、一言だけ呟いて。
彼女はエドガーを見る。
「エドガー、聞こえたな?」
「……無論です」
通じ合っているように頷き合った二人から、数秒前まで漂わせていた緊張感がほぼすべてと言っていいほど消えた。
まるで平時のそれと大差がない。
「フィオナ、レンを迎えに行きたいか?」
そして、唐突な提案。
――――遠く離れたレオナール領では、魔導船乗り場で皆が事後処理に追われていたところだった。
魔導船乗り場に広がる巨大な窓ガラスの前に立ち、力が抜けた様子で自分の手のひらを見ていたヴェインに、セーラが声をかけた。
「ヴェイン、どうしたの?」
「ああ、よくわかんないけどさ」
彼はセーラに顔を向け、頬をかきながら苦笑してみせた。
先の戦いで自分が使えた力のことを考えながら、レンのことを頭に浮かべる。
「少しはレンに追いつけてるかなって」
「……ええ。きっと」
騒々しい魔導船乗り場の一角で。
少年と少女は、確かな達成感を感じていた。
◇ ◇ ◇ ◇
もはや戦場は岬ではなく海の上だった。
時間を稼ぐという目的からみれば愚かかもしれないが、岩陰に潜んで体を震わせる若い冒険者たちを、レンは見過ごせなかった。
だから彼は、海に降り立った。
大樹の魔剣を召喚して、海上へ木の根の足場をいくつも設けた。
「早く逃げるんだ!」
大声で呼びかけ、身体を震わせていた者たちを逃がした。
また、時間を稼がなければならなくなった。
しかしレンは気にせず、さっきまでと同じように戦いに身を投じる。
やや違和感のあった纏いの扱いが、以前までと同じように馴染んできた。馴染むのにつれて纏いの練度が飛躍的に上がり、剛剣使い特有の力強さも増していく。
ふぉん、という音がまたレンの身体から……彼の纏いから鳴っていた。
『――――ッ!』
木の根の足場があろうと、相手は海の魔物。
戦場における圧倒的な優位を生かし、水魔法も、
『ゴォオオオオッ!』
そして巨躯を活かし、体当たりすらできた。
木の根の足場で軽快に躱し、ミスリルの魔剣で戦うレン。
レンが知らない、強化された状態の巨神の使い。
ぶわっ! と強烈な風圧が巨神の使いの突進につづき襲ってくるが、臆せず戦うレンは逆に相手の身体に傷をつけた。
巨神の使いの巨躯に刻まれた切り傷は、もういくつもある。
徐々に追い詰められていく巨神の使いが本能的に、逃げることを考えた。
しかし不可能だ。
戦いがはじまった最初と違い、逃げ切れる気配がない。
それが巨神の使いの生存本能に訴えかけ、一心不乱に戦わせた。
ねじれた二本の角を突き立てるが如く、レンに頭から突進を仕掛ける。
「っ……さすがに疾い!」
レンは躱しきれず、正面から巨躯を受け止めた。レンの身体は陸地の反対、沖合いへと連れ去るように海の上を押されていく。
背中に海水を受けながら、押し寄せる圧に抗っていた。
目の前には巨神の使いの額、その左右に生えた恐ろしい二本の角。
ミスリルの魔剣を額に押し当てるが、圧倒的体格さによる突進が止まらない。
(――――あれは!)
沖合いに位置した孤島と、半壊した古びた祠。
突進を受け止めたままのレンを、巨神の使いはまっすぐ孤島へ誘う。このまま孤島に押し付け、レンを潰してしまうつもりなのだろう。
久しぶりの陸地が近づいてくる。
レンはギリッと歯を食いしばって、
孤島の砂浜に足が触れた刹那、両腕に込めたすべての力でミスリルの魔剣を動かした。
たとえ砂浜でも、足元にだって力を込めて踏ん張れた。
『ゴォ――――!?』
魔物はレンの唐突な動きにバランスを崩した。
陸地を転がるわけでもなく、奴の頭部が孤島の砂浜に激突。砂浜はその地形ごと崩れ去り、抉られ、海に侵食されていく。
それでも止まらず海面から跳ねながら水魔法を用いたり、幾度もレンに突進した。
巨躯を活かし、強力な水魔法を放つたびに孤島の面積が減っていく。
鈍く蒼い光沢を放つ剣身のミスリルの魔剣が、接敵するたびに浅くない傷を巨躯に刻む。
すると、再び距離をとった巨神の使いが、全身に水の鎧を纏った。
これまで以上の攻撃が、決死の攻撃が放たれようとしている。
レンは束の間の休息の途中で、
「……あんな技だって、使ってこなかったはずなのにな」
もうわかりきっていることだが、明らかな異変である。
何らかの影響で巨神の使い強化されていることは確実だが、レンは気にしすぎず呼吸を整える。
纏いの様子が、また変わりつつあった。
再び、穏やかな音が彼の身体から鳴った。
もはや、時間稼ぎという名目は頭にない。
いまのレンが思い描いているのは、この感覚に全身を委ねること。
「よくわからないけど……悪くないんだ」
それを聞いた巨神の使いの突進。
水の鎧を纏った巨神の使いの突進と水魔法の攻撃は、これまで以上に苛烈だった。
孤島の中央にある祠は元から古びていたが、立てつづけに巨神の使いが仕掛けた攻撃で半壊。
(大丈夫。思い通りに戦える)
レンはここならエウペハイムへの影響はないはずと確信した。
しかし孤島の中央、小高い丘陵の上に立つ祠を見て少しだけ目を伏せる。
一般的な民家より小さい祠へ、すみません――――と。
あれはきっと、フィオナが言っていた祠である。
いまからすることで余波が届いたら申し訳ないと思い、でも戦わなければと深く呼吸した。
『アアアアアアアァァァアアアア――――ッ!』
絶叫にも似た咆哮が一帯の海域に響き渡り、文字通り決死の攻撃が。
水の鎧が巨神の使いの全身をより分厚く覆い、その表面が荒々しく波打つ。
周りの海には巨大で旺盛な渦潮がいくつも生じると、荒々しい波が島を囲むように立つ。
水柱も天を穿つ勢いで海上に顕現し、やはり鞭のようにしなり孤島を狙っていた。
しかし、このときにはもう勝敗は決していたのだろう。
レンがミスリルの魔剣をまっすぐ、いまから迫ろうとしていた巨神の使いに向けていた。
一際……これまでと違い、とりわけ大きな音が鳴る。
レンの身体から響いた、笛の音に似た穏やかな音だった。
◇ ◇ ◇ ◇
岬へ引き返すように馬を走らせること、そう長くない時間。
この緊急時に何故? レンがわざわざ時間を作ってくれたのに引き返すなど愚か者の極み。
普通であればそのはずだったのにエステルが、そしてエドガーがもう心配はいらないと言い切ったから、一行は疑問に思いながら馬を走らせたのだ。
そうしていると、沖で巨神の使いが暴れまわる姿を見た。
それからすぐに、巨神の使いが本気の一撃を放とうとしている姿を目の当たりにした。
だというのに、エステルはまだ落ち着いている。
あそこでレンが戦っている、そう思うとフィオナたちは気が気じゃなかったのに。
「レンの邪魔はできんな」
エステルが馬を降り、ブレスの余波が届いていた岬に立った。
エドガーもそうだ。彼も馬を降り、後ろ手を組んで孤島を見た。
「っ――――エステル様!」
心配そうな声音で言ったフィオナを見て、エステルが孤島を見たまま少女の頭をぽん、ぽんと優しく撫でた。
「この音色が聞こえるか?」
「……時折聞こえてくる、笛のような音のことですか?」
そうだ、と。
やはりエドガーも知っているようで、緊迫した様子は見せない。
彼はつづく言葉をエステルに任せ、口を閉じて孤島へ視線を送りつづける。
「この音色が発生する理由は昔、ある一人の研究者によって解明された」
もう、百年以上前のことだという。
「纏いは一定の練度に達すると、身体に負担になりすぎないところでそれ以上の練度に到達しなくなる。進化の寸止めだ。それらを自身の意思に基づき、容易に使えるようになることが重要なのだが……」
エステルは横目でエドガーを見た。
エドガーはこくりと頷いた。
「使用者の身体が新たな纏いに順応して参ります。体外に生じた魔力の膜と体内の魔力がこすれあい、順応しあうために共振する。一時的に纏いの扱いに苦慮しましょうが、僅かな時間です」
「そう。馴染むまで苦労するが、短時間だ」
剣聖がつづける。
「この笛のような音色は、纏いの共振による音だ」
獅子聖庁長官にとっても、胸が早鐘を打つほどの興奮。
「ふぉん………ふぉん、とまるで笛のように鳴り響く。その音色は風に乗り、空気中の魔力を伝い遠くまで届く」
巨神の使いが動くと、奴が生じさせた波の音以上に聞こえてきた。
美しい、福音のような音が。
「古来よりこの音色は、ある表現をもって讃えられている」
「ある表現……ですか?」
「うむ。特別な言い方があるのだ」
何がきっかけだったんだ、レン――――と。
レオメル最強の騎士が笑う。
沖の孤島から届く圧と揺れ、風と水魔法の名残りを見つめながら。
誰もが、彼女の声に耳を傾けた。
古き時代より言い伝えられる、この現象の名を聞くために。
それを、
「――――剣聖が謳う」
響き渡る音色がいま、止んだ。
◇ ◇ ◇ ◇
剣魔との戦いを経て新たな魔剣を得ることはなかった。
だが、新たな戦技を使えるようになっていたことにレンが気が付いたのは、あの戦いが終わってからほどなくだった。
孤島の地面が、散らばる大岩や土砂が宙に浮かび静止していた。
濃密な魔力の波動を散見する不可思議な景色の中心。一つの岩を足場に立っていた少年。
「行くぞ」
滾る。これまで経験したことがないほどに。
レンの周りに広がる濃密な魔力の空間。ローゼス・カイタスでレンとリシアを死の間際に追い詰めた力――――剣魔の技。
レンは地面にミスリルの魔剣を突き立てる。
その破壊力、消費される魔力の量から本気で使うことにためらいはあったが、
「――――巨神の使い!」
レンが生み出した力の奔流がすべて、海に向けて放たれた。
雷鳴に似た音を響かせながら、海を薙ぎ払いながら巨神の使いへと。
水の鎧が、周囲の海を荒れ狂わせる力のすべてが、瞬く間に消し去られた。
残されたのは、丸裸の巨神の使い。手負いの魔物。
真っ赤に光らせた瞳でレンを睨みつけながら、奴は泳ぐのを止めない。もはや、死んでもいいからこの矮小な少年の命を奪うのみ。
『オオオオォォ――――ッ!』
それだけに囚われていた巨神の使いは咆哮を上げた。
「これで、終わらせる!」
剣魔から得た戦技を用いたあとで。
ミスリルの魔剣が漆黒の雷光、銀の閃光を同時に迸らせる。
逃げることなく、臆することなく真正面から。
“権能ノ剣”
剣聖に至った剛剣使いのみが使える力。
以前エステルが使ったとき、レンが使用者により性質が変わるということに触れた戦技だ。
波動の色すら変わるというそれをレンが用いると、白銀と漆黒である。
きっとそれが、レンの魔力が宿した彼の色。
レンはこの場で自分の性質を理解しきることはできなかったが、些細なことだ。
この戦いを終わらせることにだけ、意識を向けて……
英爵たちが六人がかりで撃退に追い詰めた魔物を、さらに強化された魔物に対してレンはいま、たった一人で――――
「はぁぁああああああああ!」
ミスリルの魔剣を振れば漆黒と白銀、二色の波動が波打つ。
それらの波動を纏い、レンが放つ最高の剣。
一振り。猛進する巨神の使いの全身を波動が駆け巡り、剣圧がつづいた。
『――――………』
その双眸が最後に映し出したのは、剣聖の少年。
「――――俺の勝ちだ」
巨神の使いの額の奥で何かが割れる音が天高く響き、瞼が閉じられた。
巨躯は斃れ、地響きを鳴らす。
その亡骸から生じた光の粒子が宙を漂い、レンの腕輪へ吸い込まれていく。
・水の魔剣(レベル1:1/1)
それは水の女神が落とした力。
戦いはここに、剣聖の誕生をもって終焉を迎えた。
また一つ、彼に新たな魔剣をもたらして。




