第1話
こうなることは、必然だったのかもしれない。
机の上に置かれた白い便箋に目をやりながら、ネオ=ド・レは分かり切っていたことだ、と自分に言い聞かせていた。時折、便箋に添えられていた真っ赤な花が窓から入り込んできた秋の風により、左右にユラユラとテンポよく揺れる。
───この花の言葉はなんだっただろうか。
もっとしっかりと聞いておくべきだった、と今更後悔した所で、失った時間は戻ってなど来るはずもない。手紙のラスト一行に綴られた『必ず帰る────』と言う文字は喪失感と虚しさを際立たせる一方であり、更なる絶望感を与える。
元々、ネオと彼女は住む世界が違うのだ。彼女はネオと会う前までは当たり前のように戦場へと足を踏み入れ、血で血を洗う生活を送って来た。世界中から危険視される最凶の半妖────【骸ノ姫】それが彼女であり、彼女の生きて来た世界だ。対して彼は、彼女の従者だという点を除けば、どこにでもいる普通の半妖。本来、出会うはずも無かった二人が出会って一緒にいた。ただ、それだけの話だ。
キッパリと忘れてしまえば、これ以上苦しむ必要などない。頭では理解してはいるはずなのに、心の片隅では、それでも今すぐに駆け出してしまいたい自分がいる。そっと目を閉じれば、瞼の裏には彼女の笑顔が浮かび上がり、その姿に心の奥が何故か、きつく締め付けられた。溢れ出る感情は、もはや理屈や理性で押さえ込むことは出来ない。
雫は頬を伝って、さながら止むことを知らない雨のようにネオの心に降り注ぐ────もう一度、彼女に会いたい、と。
***
あれから百年の年月が経ち、ネオは彼女の姿が最後に目撃されたという、荒れ果てた戦場跡へと足を踏み入れる。
枯れた大地に無数の慈悲なき死体。腐敗と火薬のような臭いが強く立ち込め、ネオの鼻を刺激した。地を埋め尽くす程の打ち捨てられた老若男女の死体には別の死体の上に折り重なって、ハエがたかっている。
腹を裂かれたもの。口が裂けたもの。耳や眼球を失ったもの。骨が折れたもの。砕かれたもの。焼かれたもの。四肢の一部が切断、或いは引きちぎられたもの。それらは、まるでゴミのように乱雑に捨てられていた。
失った部分からは断面が見えるものもあり、赤ピンク色の肉片の中に赤色に染まった骨が見える。それを舞い込んで来た鴉が突き、死体の肉を口に運ぶ。その都度、クチャ、ブチュ、ドサッと死体が生々しい音を上げ、鴉が突く度にその口から肉片の一部が零れ落ち、口を真っ赤に染め上げる。そして、落ちた肉片をまた口に運ぶ。その繰り返しだ。
鴉が口にしている死体も転がっている死体も僅か数日。或いは数時間前までは動き、必死に生きようと足掻いていたモノたちであろう。だが今ではこの有様。
────物言わぬ肉片の塊。鴉の胃袋に収まるだけの餌でしかない。
あるのは、慈悲も尊厳もなく、嘆くことも祈ることも出来ずに戦死したであろう、死体の山々のみ。
異様な光景に口腔内に何とも言えぬ苦味を覚え、胃の中が掻き回されているような吐き気が不意に襲い掛かる。最早、気が狂いそうになる環境にネオの精神力は少しずつ、すり減って行く。
心と身体は今にも引き剥がされそうで、今にも来た道を引き返してしまいたい感情が徐々に心を飲み込んで行くのが分かる。
ネオは咄嗟に胸ポケットからナイフを取り出すと、自分の左膝に突き立てる様に差し込む。
「────ッ」
ただならぬ激痛が左膝に走るが、それにより忍び寄っていた恐怖は消え失せ、そのままナイフを乱暴に抜くと血が滲み、膝の部分を赤く染め上げる。ネオは首に巻いていたスカーフを包帯代わりにし、血の流れが止まる程、きつく結びつけると再び歩き出す。風が強くなり、砂煙が巻き起こる。視界はさらに悪くなり、かつて青空が広がっていたキャンパスには今や戦闘による爆発と灰となった死者の赤く濁った憎悪が塗りたくられている。
死者の灰は当たり前のように降り積もり、地を枯らす。行き場のない亡者の怒りは地球を真っ赤に染め上げ、赤黒い血の雨となって大地に降り積もる。
こんな場所に彼女の姿などある筈はない、という否定的な考えまで浮かび始めた瞬間、彼女のアイデンティティであった赤色のリボンが遠くの丘の上で揺れたのが見えた気がした。
「姫っ……!」
先走る気持ちに身を委ね、ネオは丘に登り、リボンに手を伸ばすが、枯れ木に引っ掛かっていただけであり、掴まれたリボンは儚く風に靡く。
そのリボンを握りしめると、例えようもない胸の痛みに押し潰され、彼はその場に崩れこんだ。
もう彼女に会うことはできないのだ、と落胆し、事の重大さを理解したところで、自分の罪深さを知った。彼女との別れがより現実味を増し、残酷に突きつけられる。心には暗雲が立ち込め、今にも大雨が降りそうだというのに、目からは一粒の雫すら落ちてこない。
────本当に最低な男だ。
彼女と会いたかったのも、自分の罪を許す為の自己満足であったのかもしれない。彼女と会って、たった一言『貴様は何も悪くない』と言われて楽になりたかっただけだ。心の中では、自分に対する怒りと彼女にもう会えないのだという悲しみの感情が、使用後の絵具のように混ざり合っていた。
気力の全てが奪われ、闇に飲み込まれそうになった時、鮮やかな赤色に輝く宝石のような瞳と真っ黒な長髪が目に入った。
見間違えようにも、見間違えようのないその姿を見た瞬間、ネオの心に透き通った水が通ったのが分かった。身体は自ずと動き、一歩、また一歩と足早に地を駆けていく。
脳裏を過るは、彼女との楽しかった思い出の数々であり、それを共有するかのように、ネオは彼女に語りかける。だが。
「姫……?」
彼女からは何の反応も見られず、さながらよく出来た人形がそこにあるかのようだ。ネオは心が再び濁っていくのを感じつつも、恐る恐る彼女の顔を覗き込み、絶句することになる。どこか一点だけを見つめているような、虚ろな目。曇った瞳の中に灯火は一切感じられない。
────彼女の目には、生気が宿っていなかった。
ただ、そこにあるだけの人形のような彼女に恐怖を感じ、ネオは必死に肩を揺らして、呼び続けた────このまま彼女を見ていたら、自分が壊れてしまいそうで怖かったから。
「大丈夫ですか、姫? 姫っ!」
「えっ……あっ……」
しばらくすると意識が戻ったのか、彼女はこちらに視線を合わせ、小刻みに震え上がった。
「貴方は────」
────誰ですか?
震える声で、放たれた一言。
少女の目は徐々に恐怖で塗り潰されていき、ネオが少しでも動くとその都度、身体を震わせ僅かに後ろに下がり距離おく。演技とはとても考えられない程の怯え方にネオは絶句すると同時に喪失感を覚え、大切な思い出が徐々に汚染されていくのをネオは感じた。
恐怖で自分のことしか見えておらず、焦る気持ちで彼女に詰め寄る。
「私は姫の従者のネオ=ド・レです。本当に覚えていないのですか?」
「ごめん……なさい……」
俯く彼女の仕草が更に不安と恐怖を増幅させ、ネオの焦りは最高値に到達する。
「なんで……ですか? ……なんで、忘れているのですかっ!」
「……ごめん、なさい」
怯えながら謝罪を繰り返す彼女にネオは近づくとその場で崩れ落ちる。「貴女は────【骸ノ姫】リリア・ツェペシュは……私の憧れであり、超えるべき人だ……。『必ず帰る────』 って、そう残しといて、記憶を喪っています。ごめんなさいって、か。ふざけないでください……ふざけんなよ!」
この収まらない苛立ちは、自分のせいである、とネオは理解していた。
それでも彼女に当たるしかできない自分の愚かさと不甲斐なさに苛立ちが募る。
「ごめん、なさい……」
「だからっ! もう、聞き飽きたんだよ!」
ネオは声が枯れそうな程大声で叫ぶと、苛立ちをぶつけていたリリアを抱きしめた。
「頼むから……」
「えっ……?」
「もう……もう、これ以上傷つかないでくれ」
抱き寄せられたリリアは驚きと焦りから、ネオの腕の中から逃げようとするが、ネオの言葉を聞いた瞬間、逃げるのを止め、身を寄せてきた。彼女の頬から安堵の涙が流れ落ちる。
ネオはそんなリリアを全力で抱きしめた。誰かに────。
こんな華奢で弱々しい少女にすら、縋ってしまいたい程に心が脆くなってしまっていたから────。