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 一週間も経たないうちに、篠見円佳は行方不明者としてちょっとしたニュースになった。

 誰が通報したのか知らないが、女子大学生の急な失踪ということもあって事件性があると判断されたのだろうか、学内にしばしば警察の姿を見るようになった。もちろんわたしのところにも、誰が話したのか円佳の親しい友人ということで警察の人が事情を訊きに来た。饗庭との約束があるし、どうせ話しても信じてもらえないだろうから、彼らには核心を話さなかった。

 ただ、円佳の家を訪ねたことだけは話した。万が一、それが防犯カメラなどで後から判明して、わたしが要らぬ疑いを掛けられても困るからだ。

 わたしの周りだけに限らず、大学内では数日ほどその話題で持ちきりだったけれど、みんなの興味が薄れたのか、いまでは円佳の話が挙がることはほとんどなくなった。


 あれ以来、わたしの生活は少し変わった。

 朝起きて大学に行って授業が終われば、誰もいない美術部の部室で日が暮れるまで絵を描く。それがいままでのルーティーンだった。いまは授業が終わると部室には向かわず、そのまま饗庭のアトリエへ足を運んでいる。

 荒れた生け垣の中に隠れるようにして在る門扉を開いて中に入る。

 夢幻蝶の蛹は母屋ではなく小屋の方に置かれており、わたしはいつも直接そちらへ向かう。

 小屋の戸には壊れた南京錠がぶら下げられているだけで、つまり施錠されていないことになる。不用心ではないかと饗庭に言ったことがあるが、このアトリエには特殊な結界が張られており、招かれた者以外は辿り着けないようになっているらしい。

 戸を開けると、あの、バニラのような甘ったるい蠱惑的な匂いが漂った。

 小屋の中、中央には夢幻蝶の蛹が置かれており、少し離れた壁際に椅子と描きかけのキャンバスが配置されている。キャンバスは、わたしが美術部の部室から持ち込んだものだ。

 わたしは明かりを点けてから、入り口近くの床にカバンを置く。ジャージに着替えてから、椅子に座ってキャンバスに向かう。

 いままでのわたしは想像でそれを描いていたが、いまは目の前に実物が存在している。

 筆を手に取り、それに視線を移す。


 それは、初めて見たときに比べると、明らかに様子が変わっていた。いや、正確に言えば日々変化している。

 黄金色の要素が強かった殻は中が透けてきたのか、それとも殻そのものが発色しているのか、どんどん極彩色が強くなってきている。部屋の中に充満した甘い匂いに変化はないが、蛹そのものが、電灯の光を反射しているのかもしれないけれど淡く光を放っているような気がする。夏原望の絵に描かれていた姿に―つまり、わたしが描こうとしていた蛹の姿にどんどん近づいていっていた。

 多分、羽化のときが近づいているのだと思う。

 普通の蝶ならば、羽化が近づけば殻の色が変化したり、中身が透けて翅の模様などがはっきりと見えるようになる……と、ネットで調べた。かつてわたしが見たアゲハ蝶の蛹も、緑色だったのが羽化の直前には黒く変色していた。夢幻蝶が現実のそれと全く同じ生態をしているとは限らないが、そうだとすれば、数日以内に羽化が見られるのではないだろうか。……饗庭には直接訊いていないから、あくまでわたしの想像でしかないけれど。


 絵は、想像で描いていたときよりは捗っている。目の前にモチーフにするものがあるのだから当然なのだけれど。

 しかし、この蛹がわたしの描きたいものだったのだろうか。本物を目の当たりにしてからそれが揺らいでいる。わたしの原動力は夏原望の絵だったはずだ。


「調子はどう?」


 しばらく筆を動かしていると背後から声がして、わたしはびくりと肩をすくめて振り返った。饗庭だった。他に訪ねてくる者がいないのだから当たり前なのだけれど、絵に没頭し過ぎていたせいか入ってきたことに気付かなかった。

 一度筆を置いて、軽く伸びをしてから振り返る。


「まあまあですね」

「そ」


 小さく返事をして、饗庭はわたしの隣に立って描きかけのキャンバスを覗き込んだ。


「うまく描けてるじゃない」

「全然ですよ。所詮(しよせん)、趣味で描いてるだけなんで」

「技術的にはそうかもしれないけれど、あなたがモチーフにしているのはこの世界の生物じゃないもの。それを絵に起こせているだけで普通じゃないのよ」


 確かに、想像の中のものを描き起こしているのではなく、現実にある超自然的なものをありのままに描くのは困難だ。

 わたしがこうして描けているのは、夏原望の絵という前例を見たことがあるからだ。わたしが描いているものは結局のところ、それを下敷きにしているに過ぎないのだから、超常のものであっても描き起こせて当然だ。


「それにしても……」


 饗庭が顎に手を当ててそう呟くので、わたしは首を傾げた。


「どうしたんですか」

「いや、何でもないわ」


 そう言われると深く訊くことも出来ないので、わたしは話題を変えることにした。


「そういえば、もうすぐ羽化するんですか? だいぶ色が変わってきましたけど」

「あと数日かしらね」


 そう言って、饗庭は蛹の方に歩み寄っていった。


「そのうち金色がなくなって、もっと光が強くなっていくのよ」

「あ、やっぱりそれ光ってるんですか」

「ええ。羽化の瞬間は凄いわよ。言葉では言い表せないけれど、本当に美しい」


 うっとりとした表情で語る饗庭を、わたしは少し羨ましいと感じた。もうすぐ、彼女が夢中になるものを、夏原望が絵にしたものを拝めるのだと思うと、期待で胸がいっぱいになる。

 わたしは再び筆を手にして、キャンバスに向かった。



     ***



 それからまた数日が経った。

 蛹は、以前までのような淡い光り方ではなく、明らかに自ら発光していることが分かる程度には眩くなった。饗庭の言った通り日に日に光は強くなっていき、やがて美しかった黄金色も、無数の極彩色――いや、光を伴うそれは極光にも近いのではないだろうか。いままでに知覚したことのないような色彩だった。

 そんな蛹を目の前にして、わたしは相変わらず絵を描いていた。


 蛹の発光で、小屋の中はもはや電灯すら必要ないほどの明るさを保っている。

 見るたびに変わるのだから、いつまで経ってもわたしの絵は完成に近づかない。乾燥を待っているうちに、蛹はまた新たな色彩を見せ、そのたびにわたしは絵の修正を繰り返していた。

 わたしが筆を動かしていると、蛹がひときわ明るくなったのを感じた。蠱惑的な甘い香りも、気のせいかもしれないが濃くなったように思える。


 直感した――羽化の瞬間が、近づいている。

 わたしは筆を置いて、蛹の動向に神経を傾ける。

 それを知ってか知らずか、小屋の戸が開いて饗庭が中に入ってきた。

 わたしの隣に立って、彼女が呟く。


「始まったわね」


 やはり、これは羽化の兆候なのだ。

 ――羽化が、始まった。

 それまで微動だにしていなかった蛹がせん動し始め、既に極彩色の極光を放っていた殻の節々から更に強い光が漏れ出した。


 それは、蛍光、燐光(りんこう)曙光(しよこう)、妖光、冷光、爛光(らんこう)――饗庭の言っていたように言葉で表現し尽くすことは困難だった。不可視光すら認識できていたのかもしれない程の無数の光が、薄暗く狭い部屋の中に溢れかえっていた。

 わたしは、その光景を瞬きも忘れて眺めていた。


 そばで饗庭が何かを言っていたような気がしたが、目の前で起こっている衝撃的かつ神秘的な現象に意識を奪われて、まともに認識することも出来なかった。それがどうでもいいと思える程度には、眼前を埋め尽くす光とそれを放っている存在は神々しく、名状しがたい美しさを持っていた。

 やがて、頭部と思しき部分に大きな亀裂が生じ、中にいた何かが蠢いた。それは確かに生物で、昆虫の複眼のようなものが認められたように思えた。

 それが外界に姿を晒すにつれて、部屋の中に溢れる光がいっそう強くなっていく。

 かつて見たアゲハ蝶の羽化は、生命の神秘に触れているような感覚だった。けれど、いま目の前で起こっているそれは、生命の誕生とか、そういうものとは一線を画した、神の降臨にも近いような荘厳な何かであった。


 光がひときわ強くなって、それの実体を視界で捉えることが困難になった。蛹殻(ようかく)の中からそれの全身がこの世界に現れ出でたのが、眩さで見えないはずなのに何故かはっきりと認識できた。

 わたしが知っている蝶ではない。虚空に伸びているものが触角なのだろうか。頭部、腹部、胸部の境界も明瞭ではないように思えたし、脚の数も六本以上あるように見えて、そもそも昆虫としての特徴を持っているのかも定かではない。なのに、不思議とそれが蝶であることを、わたしはごく当然のように受け入れられていた。

 この光は翅から放たれているのだろうか。普通の蝶のように鱗粉が光を反射して光っているように見えるのではなく、そのものが発光しているようであった。そもそもそれが翅かどうかさえ判然としないのだけれども。

 それは抜け殻の上でじっと静止した。翅と思しき部分が次第に広がっていくのを感じて、それはやはり蝶なのだと実感した。


 神々しい光景を目に焼き付けながら、わたしは、自分がいまここにいる意味に気がついた。

 わたしは、円佳の最期を見るためにここにいるはずだった。そう思い込んでいただけだった。言い訳に過ぎなかった。本当は、円佳のことなんてどうでも良かったのだ。

 夏原望の絵を見たとき、あの絵に蝶の存在を見出したときから、わたしはこの瞬間に立ち会うことが運命として決まっていたのだろう。

 ああ、そして、わたしはこれを絵にしたいのだ。

 いまなら、夏原望がどうしてこの場面を絵にしたのか、どうしてあのような絵を描いたのかが理解できる。それは感性的なものであって、理屈で説明できるわけではない。ただ、わたしと夏原望が同じ種類の人間だったというだけのことだ。

 それくらいの時間が経ったのだろうか、夢幻蝶は翅と思しき部分を完全に展開し終えたようだった。

 すっかり翅を広げた夢幻蝶はいままでで最も眩い爛極光(らんきよつこう)を放って、抜け殻から脚を離した。


「あ……」


 わたしの口から感嘆の声が漏れる。

 羽ばたきひとつせず、夢幻蝶は虚空に浮かび上がっていた。どういう原理で浮遊しているのかなんて、今更考える意味もないだろう。それが異界の常識であって、こちら側の世界の住人であるわたしたちにとっては、目の前で起こっているそれを甘受するしか出来ないのだから。

 焦点すらまともに合わない視線でそれを眺めていると、いつの間にか、部屋に溢れていた光が薄くなっていた。はっと気がついて夢幻蝶に意識を向けると、その姿は、まるで夢か幻であったかのように、次第に希薄になっていくところだった。

 惜しい、とも思わなかった。ただ、その瞬間を最後まで目に焼き付けようと、瞬きすらも忘れてそれを見ていた。

 そうして夢幻蝶は、あちらの世界へと旅立っていった。

 あとに残ったのは、光の残滓と巨大な蛹の抜け殻だけ。

 わたしの中に残ったのは、終わってしまったんだという喪失感とか、素晴らしいものを見られたという充実感などではなかった。

 焦燥。それを少しでも早くキャンバスの上に残さなくてはならないという苛立ちだった。


「あははははは」


 そばで饗庭が狂ったように笑っているのをわたしは気にも留めず、筆を鷲掴みにして描きかけのキャンバスに向かった。




 気がつくと、小屋の窓から光が差し込んでいた。

 目の前にはぐちゃぐちゃに色彩をぶちまけられた絵があって、そばの壁にもたれかかるようにして、饗庭が気持ちよさそうに眠っていた。

 わたしを駆動させていた脳内物質がその効力を失ったのか、いままで自覚していなかった疲労感がどっと押し寄せてきて、わたしは大きく息を吐いた。


「あれ……」


 没頭していて気がつかなかったが、この小屋の中央にあった蛹の抜け殻は、いつの間にか消えてなくなっていた。饗庭がどこかへやったのか、あるいは、そもそもずっとこの世界に留まっていられるものではなかったのかもしれない。いまのわたしにはもはや必要のないものだけれど。

 あれだけ充満していたバニラのような媚香も、いつの間にかなくなっていた。

 わたしは、描きかけのキャンバスを見る。

 はじめは蛹を描いていただけだったそれには、上から無数の色の絵の具が塗りたくってあって、普通の人が見ればただ台無しにしたように見えるだろう。しかし、そこには確かに、極光を放ち生まれ出でる蝶が存在している。夢幻の、蝶が。

 油彩画のため乾燥を待たなくてはならないから、この調子で描いていても完成にはあと二、三日は掛かる。早く描き上げてしまいたいという気持ちはあるが、こればかりはどうしようもない。

 わたしは再度、息を吐いた。無我夢中で絵に没頭していた弊害で身体が怠い。けれど、心の中はとても満たされていた。


「ん……」


 声がした方を振り返ると、饗庭が眠そうに目を擦っていた。


「おはようございます」

「あ、おはよう。絵の調子はどう?」

「見ての通りです」


 わたしは彼女にキャンバスが見えるように、椅子を少しずらした。

 饗庭は、わたしの描いている絵を見て、驚いたように僅かに目を見開いた。

 それから饗庭は懐から箱のようなものを取り出して、それを口に近づけた。煙草の箱だった。口元からそれを離したときには、彼女の口には一本咥えられていた。ほんのりと甘いバニラの香りがした。なんだか懐かしいような感じだった。


「煙草、吸うんですね」

「たまにね」


 口に咥えた煙草に火を点けながら饗庭は答える。ふうーっと紫煙を吐いてから、彼女は口を開いた。


「……あなた、夏原望って知ってる?」


 わたしは、饗庭の口からその名前が出てきたことに驚いた。


「夏原さんを、知ってるんですか?」

「恋人よ、昔の」


 わたしはぽかんと口を開けて、何も言えなかった。


「あなたの絵、どこか彼に似てると思ってたのよ。そっか、彼のこと知ってたのね」

「小学生のときに夏原さんの絵を見たことがあるんです。ちょうどこんな、蝶の絵を」


 そう言ってキャンバスを指差すと、饗庭はくすりと笑った。


「当時、彼が言ってたわ。『卒業展示で、僕の絵に蝶を見た女の子がいた』って。そう……あなただったのね」

「夏原さんは、いまはどうしてるんですか?」


 出来ることなら会ってみたい。会って彼の絵について話をしてみたい。いまもまだ絵を描いているのなら、他の絵も見てみたい。わたしの始まりは彼なのだから。


「あの絵を描いてすぐに死んだわ。最期は、美しい蝶になってね」

「あの人もなったんですね、夢幻蝶に」


 饗庭から告げられた事実に、わたしは少しも驚くことはなかった。何となくそんな気がしていた。


「わたしが初めて見た夢幻蝶が彼のものだったのよ。彼を喪った悲しみなんて忘れられるくらいに、あれは美しかった。彼が寝食忘れてあれの絵を描く理由が、よく理解できたわ。生憎、わたしは作る才能がなかったからそういう欲求が起こらなかったけれど、こうやって夢幻蝶を追い求める程度には気が狂ってしまった」


 そう言って、饗庭は自虐気味に鼻を鳴らした。

 夏原望という人物に夢幻蝶の存在を教えられたのは、わたしだけではなかったのだ。わたしと饗庭が出会ったのも、もしかすると初めから決まっていたことなのかもしれない。でもきっと、夏原望も誰かに導かれて蝶に出会ったのだろう。あるいは、世界がそうさせたのかもしれない。

 饗庭は、夢幻蝶を求める自らを気が狂ったと称したけれど、その形容はとても的を射ているように思う。夏原望も、饗庭も、わたしも、例外なく夢幻蝶に狂わされてしまった。しかし、それを不幸だとは思っていない。


「饗庭さんはこれからも夢幻蝶を探すんですか?」

「もちろんよ。あなたもそうするでしょう?」


 饗庭の問いに、わたしはくすりと笑った。


「そうですね。わたしはもっと描きたいです、あの蝶の絵を」


 描かれた絵は、いつか必ず誰かの目に留まることになる。

 いずれ、夏原望に出会ったわたしのように、わたしの絵にも蝶を見出す者が現れるかもしれない。この世界にはわたしや夏原望のような特異な人間が存在しているのだから。

 きっと、その人も夢幻蝶に出会ったなら気付くはずだ。いままでの自分という存在が、殻の中でそのときを待っていただけに過ぎないのだということに。

 夏原望は、たった一枚を描いて夢幻蝶になった。もしかすると、わたしも彼のような末路を辿るのかもしれない。

 それでも良いと思えた。そのときが来るまで、わたしは甘い蜜に寄せられるように夢幻蝶を求め、その絵を描き続けるだろう。

 蝶が空を舞うように。

 ずっと、ずっと。


 本作は殻に籠もった少女が羽化する物語というイメージで書きました。なんか凄く青春っぽいテーマですね。

 何となくクトゥルフ神話的な要素も踏まえている(クトゥルフ神話そのものではない)ので、ジャンルとしてはクトゥルフチック怪異ホラー青春小説でしょうか。

 璃羽が知らず知らず異常者になっていく感じとか焦燥感が伝わってると嬉しいです。


 文学フリマで出すのと、一年半ぶりに書いた小説ということでちょっと張り切って表紙絵を描いたりしました。


 締切があっうたので寿命削って書いてましたが……久々にやるといいもんですね、小説。

 それでは、またどこかで。

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