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饗庭のアトリエは、彼女の言う通り円佳のマンションからそう遠くはなかった。偶然にもわたしの通う大学の近く、山が目の前にあって周りにあまり住宅がないひっそりとした場所。地方大学なんて、土地が安い郊外にあるのが普通なのだ。
田舎の祖老夫婦が住んでいるような、ごく普通の一軒家だった。
手入れがされておらず伸び放題の生け垣に囲まれた広い庭と、これまた大きい木造の平屋建て。庭の隅には物置だろうか、簡単な作りの小屋もある。ひっそりと暮らすには丁度良い環境だが、魔女のアトリエというよりは、伝統工芸作家の工房のような雰囲気を感じる。それは、単に外見が和風の造りだからというところに起因するのだけれども。
饗庭が玄関の引き戸をがらがらと開けると、黴っぽい臭いが漂ってきて、わたしは思わず顔をしかめた。饗庭はそんなこと気にする様子なく、中へ入っていく。
「入らないの?」
わたしが躊躇っているのに気付いたのか、そう言われてようやく、わたしは彼女のアトリエの敷居を跨いだ。
玄関からは板張りの廊下が奥まで続いていて、襖で部屋が仕切られている。ごく一般的な和風の民家という感じだが、埃っぽさと黴臭さが外で感じたよりもいっそう強くなった。
わたしが靴を脱ごうとすると、饗庭は当然のように土足のまま廊下に上がった。確かに、床には埃が薄く積もっていてあまり裸足で歩きたくはなかったけれど、改めて彼女には常識が通用しないのだと感じさせられた。
気が引けるが、家主に倣ってわたしも靴を脱がずに廊下に上がった。
「……饗庭さん、ここに住んでるんですか?」
廊下を歩く彼女の背を追いながら訊ねる。饗庭は足を止めることなく答える。
「そんなわけないでしょ。家は他にあるし、ここも仮のアトリエなのよ。ま、しばらくはここで暮らすつもりだけど」
なるほど、生活感が感じられないのはそれが理由なのかと納得する。
饗庭が襖のひとつを開ける。質素なテーブルと椅子ふたつが隅の方に置かれただけの板の間だ。
「座っていいわよ」
言われて、わたしはひとつの椅子に腰掛ける。椅子もテーブルも、埃が積もった部屋の中にあるには不自然なくらい綺麗で、建物に比べて明らかに新しい。恐らく、最近購入したものなのだろう。
「コーヒー飲める?」
「あ、はい」
わたしが返事をすると、饗庭は部屋から出て行った。ややあってマグカップをふたつ手にして戻ってきて、わたしの前にひとつを差し出した。芳ばしいコーヒーの香りが鼻腔をくすぐるが、口をつけようという気はあまり起こらなかった。
饗庭はわたしの対面に座った。テーブルの上に頬杖をついて、妖しい笑みを浮かべながらコーヒーをひと口飲んだ。
「さて、いろいろ訊きたいことがあると思うけれど」
マグカップを口元から離して、饗庭が言う。
本当にその通りだ。何から何まで分からないことだらけで、どこから訊ねれば良いのかわたしの中でも整理がついていない。けれど、まず初めに訊かなければならないことがあった。
「あの蛹は、一体なんなんですか?」
突如として円佳の部屋に出現した巨大な蝶の蛹。明らかに内部で何かが蠢いていたことが、それが作り物ではなく生物であることを物語っている。饗庭はそれの回収が目的だと言い、実際に現実のものとは思えない術でその目的を達成した。そして、彼女によれば、円佳はそれの生態に巻き込まれた。
あの蛹こそが、一連の事件の元凶であることは間違いなかった。
饗庭は、ふぅ、と小さく息を吐いた。
「いまから話すことは信じられないかもしれないけど」
「今更、何聞かされても驚きません」
この一時間あまりのうちに、現実のものとは思えないことを目の当たりにしてきたのだ。わたしが真剣な眼差しでそう答えると、饗庭はくすりと笑った。
「そ。……まず、あれは何の蛹だと思う?」
「蝶……じゃないんですか?」
何を当たり前のことを訊いているんだろう、と思ってわたしがそう答えると、饗庭は少し驚いたような顔をしてみせた。
「……どうして、蝶だと思ったの?」
「どうして、って……」
言われてみれば、あれの形態は確かに、一般的に知られている蝶の蛹とは似ても似つかないし、色だって生物とは思えない。蛹を作る昆虫なんて、この世に溢れるほどいる。蛾だってそうだし、カブトムシやクワガタムシのようなのも、形態は違えど蛹を作るはずだ。
わたしは何故、あの蛹を直感的に蝶のものだと思ったのだろう。
考えて、思い至る。
そうだ、あの蛹が羽化する瞬間を、わたしは知っている。中から生まれ出る生物が何であるかを理解していたから、それが蝶の蛹であると分かった。
もちろん、過去に実物を見たわけではない。幼少の頃に目にしたあの羽化の絵―それがあの巨大な蛹からの羽化の瞬間を描いているものなのだ。あの絵ほど強烈な色彩があるわけではなくほとんど黄金色に近かったせいで、さっき見たときには気がつかなかっただけ。
わたしがその事実に思い至って無言でいると、饗庭は呆れたように口を開いた。
「……ま、いいわ。確かにあれは蝶の蛹よ。わたしたちは、その生物を夢幻蝶って呼んでる」
「ムゲンチョウ……?」
「夢幻のムゲンね。蛹の間をこちらの世界で過ごして、羽化すれば翅を広げて向こうの世界へ幻だったかのように消えていく。だから、夢幻蝶」
次々に新しい情報が出てきて、わたしの頭はパニック状態になってしまった。
「ちょ、ちょっと待ってください。その、向こうの世界って何ですか? まるで異世界があるみたいじゃないですか」
「みたいじゃなくて、あるのよ。わたしたちが認識できない世界が」
饗庭は、さも当然のことのように頷いた。
「……ちょっと、ついて行けません」
頭を抱えるわたしを意にも介さず、饗庭は話を続ける。
「夢幻蝶は、幼虫の間はあちらの世界で過ごすのだけど、蛹になる前、こちらの世界に来て人間に寄生するの」
いま思えば、食欲がないとか、円佳が体調悪そうにしていたのは、夢幻蝶に寄生されていたのが原因だったのかもしれない。
「その、寄生された人はどうなるんですか?」
それは直接的ではないが、円佳がどうなったのかを訊ねているのと同義だった。それが、最も訊ねたいことだ。
饗庭の言葉がすべて正しいとは限らない。彼女が真実を話してはいないかもしれない。だとしても、円佳を助けられる可能性があるのならば、わたしはそれに言及しなくてはならなかった。
饗庭は、わたしへの気遣いのためだろうか、返事をするのに少しの間をおいた。
「死ぬわ」
わたしは、その言葉を聞いてそれほどショックではなかった。何となく、そうだろうという気はしていた。
あの蛹がわたしの前に現れた時点で、円佳は既にこの世から去っていた。
「蛹になった時点で、いえ……夢幻蝶に寄生された時点で、宿主の身体は餌として蝕まれて、助かる未来なんて存在しない。あなたは円佳ちゃんを助けたかったのかもしれないけど、残念ながらそれは叶わない」
「そう……ですか」
円佳ともう一度会える未来を完全に否定されて、わたしはうなだれた。
ふと、さらなる疑問が頭の中に浮かんだ。
「あの、もうひとつ訊きたいんですけど、どうして饗庭さんは夢幻蝶の蛹を回収したんですか?」
饗庭が夢幻蝶を回収しに来なければ、わたしと出会うこともなくて、わたしがこうして彼女のアトリエに招かれるようなこともなかった。
「別に何かに使うってわけじゃないわ。ただ、わたしは、あの蝶が羽化するところを見たいだけ」
「羽化?」
想像していなかった答えが返ってきて、思わず彼女の言葉を反芻した。
「ええ。夢幻蝶が羽化する瞬間は、この世のものとは思えないくらいに美しい。わたしはその光景が見たいから、あれを追い求めているの」
それを話す饗庭は、まるで恋をする乙女のような恍惚とした表情だった。わたしには、それが無性に腹立たしかった。人ひとりの命を犠牲にしてまで実現する価値が、この生物の羽化にあるとは思えない。
「……それだけのために、あなたは円佳を見捨てたんですか?」
わたしは怒気を孕んだ口調で饗庭に問い掛ける。
「言ったでしょう、寄生されたら助からない。仮に夢幻蝶を排除する方法があったとしても、わたしはそれを知らないし、喰われて蝕まれた身体は元には戻らない。……そういうものだと受け入れるしかないのよ」
シマウマがライオンに喰われるように、ネズミがフクロウに啄まれるように、蝶が蜘蛛に絡め取られるように―食物連鎖の下位に位置する者が、上位者に抵抗することなど出来はしない。それと似たようなことなのだと理屈は分かっているつもりだが、あまりにも受け入れがたい現実であった。
「それでも、何かあったでしょう……!?」
声を荒らげるが、饗庭は動揺する様子もなく冷静にわたしを睨み返す。
「あったとしても、それはわたしの義務ではないわ。わたしは、わたしの目的のために行動する」
ああ、そうか。魔女を自称し常識の埒外の術を行使する彼女は、根本的に普通の人間とは違う人種なのだ。だから、死の淵にある人を何としても救い出そうという考えに至らないのは仕方のないことだ。
それに気付いた途端、わたしはすっと自分の中の怒りの温度が下がっていくのを感じた。自分で思っていたよりも、円佳が見捨てられたことに対する憤りが大したものではなかったのだと気付いて、驚いた。
円佳を救うことも出来ず、その怒りすらぶつける先がないのならば。
「……わたしは、絶対に羽化を見ます。円佳がもう二度とわたしの前に戻ってこないのなら、あの子が最後に残すものを見届けたい」
「厳密には、もう円佳ちゃんじゃないけどね」
そう訂正して、饗庭は言葉を続けた。
「好きにするといいわ。ここにも自由に出入りしていい。ただし、夢幻蝶の存在を口外しないこと……まあ、あなたはそんなことしないでしょうけど」
饗庭が自信あり気にそう言うものだから、わたしは少しむっとして訊ねる。
「なんでそう思うんですか?」
「あなたも、夢幻蝶に魅入られたからよ。あれの羽化を邪魔するようなことは、決してしない」
どきりとした。「魅入られた」という表現が、何となく痛いところを突いているように感じた。
確かに、幼い頃に見たあの蝶の絵がずっと頭から離れない。自分でもあんな絵が描きたいと思って、何度も真似をしようとしたことがある。そういう意味では、わたしはあの絵に魅入られているかもしれないけれど、それとこれとは話が違うのではないか。夢幻蝶そのものに魅了されているわけではない。あの絵を、芸術作品として美しいと感じているだけに過ぎない。
わたしが夢幻蝶の羽化を見届けたいのは、円佳の末期がそこにあるからだ。
きっと彼女は、急な失踪として家族から捜索願が出されるだろう。けれど見つかることは決してない。葬式などあげられることもなく彼女は人知れず死んで、蝶に生まれ変わる。その事実を知っているのは、饗庭とわたしだけだ。だから、わたしが彼女の最期を見届けてあげなくてはならない。
だから、わたしは夢幻蝶に魅入られているのではない。
「他に何か、訊きたいことは?」
コーヒーの最後のひと口を飲み干して、饗庭が訊いてくる。
「いえ……」
ないわけではなかったが、これ以上訊く気が起きなかった。いろいろなことがあり過ぎて、それを処理できるだけの時間がわたしには必要だった。
「すみません、もう帰ります」
「あら、そう?」
そう言って立ち上がると、饗庭はわたしを引き留める素振りも見せず、手をひらひらと振った。
「またいらっしゃい」
わたしは饗庭の言葉には応えず、部屋を立ち去った。
アトリエを出てから、そういえばコーヒーを結局少しも飲まずに出てきたことに気付いて、なんだか悪いことをした気分になった。




