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 それから三日間、円佳は大学に顔を見せなかった。

 月、火とずっと具合が悪そうにしていた。ただの体調不良ならいいのだけれど、わたしのラインにも返事を寄越さないし、既読さえつかない。同じ学科の人たちに訊ねてみても、誰も事情は聞いていないようだ。

 確かに円佳はレスポンスが遅い方だったけれど、三日間も全く返事がないということはいままで一度もなかった。まさか家で倒れたりしてないだろうか、とか、何か事件に巻き込まれたのではないだろうか、とか、いろいろ憂慮する事態だ。


 ともかくわたしは、描きかけの絵を部室に放ったらかしにして、円佳の様子を確認しに彼女の下宿先へ向かうことにした。

 円佳の下宿先は、女の子にしては珍しくオートロックではない学生マンションだ。セキュリティが甘いぶん家賃は安いのだが、親からしてみれば心配でしょうがないだろう。ただ、わたしとしては確実に部屋の前までは行けるのでありがたい。


 コンクリート打ちっぱなしの廊下は、以前までは切れかけの蛍光灯が点滅していて薄暗くおどろおどろしい雰囲気だったが、最近業者が交換したらしく随分と明るくなっている。円佳の部屋を訪ねるのが夏休みの半ば頃以来だけれど、そんなに期間が開いたわけではないのに何となく見慣れない光景だ。

 円佳の部屋のドアの前に立つ。金属製の、無骨な感じで頑丈そうなドアだ。

 わたしのところもそうだが、部屋番号とインターホンがあるだけで表札のようなものはない。

 インターホンを鳴らす。


 ……反応は、ない。物音も聞こえてくるような気配はない。

 わたしは胸の内で大きくなっていく不安感を抑えながら、続けてノックをする。金属を叩く音が、わたし以外誰もいない廊下にこだまする。

 しかしやはり、ドアの向こう側からは何の物音も聞こえてこない。

 この時点で、わたしの不安は最高潮に達していた。

 まさかないだろうと思っていた最悪の事態すらあり得るのではないか。焦燥感に駆られながら、わたしはドアノブを握り、捻っていた。

 ほとんど考えなしに行動していたが、意外にも、ドアは軋んだような音を立てて僅かに開いた。


「あれ……」


 まさか鍵が開いているとは思っていなかったわたしは、気の抜けたような声を出してしまった。

 しかし、よくよく考えてみれば女子大学生のひとり暮らしで、在室中にしても施錠をしていないということは考えづらい。特に、このマンションのようなセキュリティの緩いところでは。鍵が開いているという事実が逆に、わたしの警戒心を最大まで引き上げた。円佳以外の誰か―例えば強盗とかがいるという可能性も考えられる。

 大学の友人でも呼ぶべきだろうかと考えたが、いまから呼ぶとなるとそれはそれで時間が掛かる。

 わたしは意を決して、ドアをそうっと開けて、中の様子を窺った。

 真っ暗な廊下が奥の部屋へ続いていて、手前にはキッチンと、ユニットバスのドアがある一般的な1Kの間取りだ。奥の部屋はドアで隔てられていて、玄関からでは中の様子を窺い知ることは出来ない。誰かがいるような気配もしない。玄関の靴を確認しても、見覚えのある円佳のものばかりが並んでいる。

 鍵は開いていたが、誰もいないのだろうか……。わたしは恐る恐る、部屋の中へ足を踏み入れる。無意識のうちに足音を殺して廊下を進んでいく。


 ふと、わたしはあることに気付いて足を止めた。

 この部屋には何度も来たことがある。だからこそ、それに気付くことが出来た。

 匂いが、違う。

 部屋番号は間違いなく円佳の部屋のものだった。玄関マットや並んでいる靴も、何度も目にしたもので間違いなかった。

 鼻を利かせると、確かに嗅ぎ覚えのある円佳の部屋の匂いがして、その上から混ざるようにして微かに、バニラのように甘ったるい蠱惑(こわく)的な匂いがする。ただ、例えるならばそのような匂いというだけで、嗅ぎ覚えのある香りではない。それは心地良いようにも思えるし、ずっと嗅いでいると吐き気を催すような感じでもある。

 その得体の知れない匂いに抵抗感を覚えながらも、わたしは廊下を進んでいく。奥に歩を進めれば進めるほど、その匂いは強くなっていく。廊下と部屋を隔てるドアの前に辿り着いた。間違いなく、匂いはこのドアの向こう側から漂ってきている。

 わたしは覚悟を決めて、ドアを開けた。


 薄暗い部屋の中心に、それは鎮座していた。

 ちょうど、人ひとりが膝を抱えて丸くなったくらいの大きさのそれを、何と形容すればいいのだろうか。見覚えのある姿形をしているはずなのに、わたしはそれを記憶と結びつけることが出来ないでいる。蠱惑的な匂いは、それを源としてこの部屋を満たしているようだった。

 それは、蝶の蛹に他ならなかった。常識の埒外の大きさのそれを蛹だと認識したわたしは思わず悲鳴を上げそうになったが、口を手で押さえて、すんでのところで踏みとどまった。

 蛹を、じっくりと観察する。

 黄金色の中に、無数の色が(ほの)かに混ざったような色彩をしたそれを、わたしははじめ、作り物だと思った。このような大きさの蛹など存在するはずがないし、色も普通ではなかった。

 だが、その殻の内側で、どろどろになった何かが蠢いているのを認めたとき、それが作り物ではなく、間違いなく生物なのだということを理解した。

 この感情は、恐怖と言えばいいのだろうか。現実離れした眼前の光景にわたしはもはや声を上げることすら出来ず、絶句するしかなかった。


「あら、お客さん?」


 背後から声がして、わたしはばっと振り返った。

 女性が立っていた。

 すらっとして背が高く、目鼻立ちの整った女性だった。緩くウェーブのかかった栗色の髪の毛を腰ほどまで伸ばしている。薄暗い中であっても、彼女が羽織っている濃い紅色のオータムコートがわたしに深い印象を与えてくる。

 わたしは、わたし以外の人物の登場に驚き、女性に対してすぐに何か反応をすることが出来なかった。

 玄関側にいる女性がこちらに歩いてこようと足を踏み出したのを見て、はっと我に返ったわたしは、手のひらを前に突き出した。


「来ないで」


 わたしの制止に、女性は素直に従って歩みを止めた。ただ、その顔には相変わらず妖しい笑みを湛えている。

 薄暗い中、わたしは彼女の様子を窺う。大学生ということはなさそうだ。若々しくは見えるが、纏う雰囲気からはわたしよりもひと回り以上歳上の印象を受ける。


「あなた、誰ですか」


 歳上の女性とどこで知り合ったのかはわたしの知るところではないが、単純に円佳の知人という可能性はある。しかし、この異常な状況にまるで動揺していない彼女は、まさか偶然訪れたわけではないだろう。


「あら、人に物を訊ねるなら、相応の礼儀があるんじゃないかしら?」


 礼儀がなっていないのはどっちだ、という言葉を奥歯で噛み殺す。彼女の言うことに素直に従った方が賢明だ。


「……この部屋に住んでる篠見円佳の友人です」

「へぇ、あの子、円佳ちゃんっていうの」


 まるで、その名前を初めて耳にしたとでも言わんばかりの反応。初めからそうだとは思っていなかったが、彼女が円佳の知人ではないというのは確定的だ。

 この奇妙な状況にあっても、意外にわたしの頭は回っているらしかった。


「それで、あなたの名前は?」

「名前を訊ねるなら、先に名乗ったらどうですか?」

「ふふ、確かにそうね」


 彼女は口元に手を当ててくすくすと笑った。


「わたしは饗庭(あいば)よ」


 饗庭……恐らく名字だろうが、それが本名かどうかも分からない。


「さ、次はあなたの番」

「……あなたが円佳の知り合いじゃないなら、答える義理ないですよね」

「ま、そうね。でもわたしは、円佳ちゃんがいまどこにいるのかを知ってるわ。そして、それが何なのかも」


 不敵に笑って、饗庭はわたしの背後に鎮座している蛹を指差した。


「――っ!」


 円佳の失踪について、饗庭が何かを知っているだけなのか、原因であるのかどちらかは分からない。だが間違いなく、彼女が重要な人物であることは間違いなかった。

 円佳が饗庭に誘拐されている可能性だってある。考えたくはないが、既に殺されてしまっているかもしれない。そうだとすれば、わたしはいま、そんな異常者と丸腰で対面していることになる。こんな状況になるのであれば、キッチンから包丁を持ってくれば良かった。

円佳がどうなったのか訊きたい思いはあるが、わたしは必死の思いで退路を模索する。

 饗庭が何か武器を持っているかもしれない以上、玄関側に逃げることは出来ない。逃げ道があるとすればベランダ側になるが、この部屋はマンションの三階で、飛び降りれば無傷では済まないし、鍵が開いていなければもたついている間に簡単に追いつかれてしまう。

 どうにか会話で饗庭を誘導して、玄関から逃げるしかない。


「……瀬芹(せせり)です。瀬芹璃羽」

「ふうん、璃羽ちゃんね」


 言ってから、偽名でも言えば良かったと後悔した。


「名乗ったんですから、円佳の居場所を教えてください」

「あら、教えるなんて一言も言っていないけれど?」


 その言葉にわたしが眉をひそめると、饗庭は悪戯っぽく笑った。


「冗談よ、教えてあげるわ。円佳ちゃんはここにいる」


 そう言って饗庭は、自分の足下を指差した。


「は?」


 わたしはその意味がすぐには理解できなかった。

 まさか床に埋まっているということはないだろう。だとすれば、床を指差した意味とは。


「……この部屋に、円佳がいるんですか?」

「ええ、そうよ」


 わたしは思わず振り返って、蛹がある部屋の中を見渡した。ベッドの上にも下にも、カーテンの裏にも、人が隠れているような様子はない。あとはクローゼットの中や、カーテンで見えないベランダにいるかもしれないけれど……。


「いるじゃない、目の前に」


 饗庭の言葉は核心を直接突いてはいない。目の前にある特別変わったものといえば謎の蛹くらいのもので、他はいつもの円佳の部屋だ。


「まさか」


 思い至ったその可能性。


「ええ、その蛹が、円佳ちゃんよ」


 とてもではないが、饗庭の発した言葉を信じられなかった。

 だってそこにあるのは、大きさが異常であるとはいえ蝶の蛹に他ならない。言葉上の意味は理解できても、それが現実であることを受け入れられない。


「つまり、円佳ちゃんという人間がその蛹になってしまったの。受け入れられないかもしれないけれど、それが事実」


 わたしは再び振り返り、それを見た。

 人というのは怖いもので、この奇妙な生物が部屋の中にいるという異常性には、不本意なことにある程度の慣れを覚えていた。慣れたからといって、それが円佳が成り変わったものであるとはやはり思えなかった。


「それ、仮に本当だとして、あなたがやったんですか」


 まだそれを事実だと認めてはいないものの、わたしは怒気を(にじ)ませて饗庭を睨みつける。


「いいえ、わたしは何もしていない。円佳ちゃんは、なるべくしてその蛹になったのよ」

「言ってる意味が……」


 饗庭の言っていることは要領を得ない。わたしと彼女では前提としている知識が根本的に違うような、そんな感覚。


「とにかく、わたしの手でその蛹は生まれたんじゃないのよ。あくまで自然の中に存在している生物で、円佳ちゃんはその生態に巻き込まれたに過ぎない。だから、あなたがわたしに怒りを向けるのはお門違いなの」

「だったら、なんであなたはこの部屋に来たんですか!」


 もはやどこに向ければ良いのかも分からない怒りをぶつけるように、わたしは声を荒らげる。しかし饗庭は冷めた表情で、再びわたしの背後を指差した。


「それを回収するためよ。わたしの目的は、その蛹」


 わたしはもう、何がなんだか分からなかった。こちらに歩いてくる饗庭を制止することも出来ず、肩を軽く掴まれて道を空けるように促されると、それに素直に従ってしまう。

 饗庭は蛹のある部屋の中に入ると、懐から何かを取り出して、蛹の周囲に五角形を描くように置いた。どうやらそれは釘のようだった。


「何を……してるんですか?」


 饗庭の行動に意味を見出せないわたしは、呆然と訊ねた。


「回収作業。驚くと思うけど、声を出さないようにね」


 饗庭はわたしにそう忠告して、何かを唱え始めた。日本語ではないことは確かだが、それが異国の言葉なのか、それとも意味をなさない音の羅列に過ぎないのか、わたしには分からなかった。

 直後、わたしは目の前で起こる現象に息を呑んだ。

 蛹の下の床が、星の形を模したように輝き始めたのだ。しかし輝いたのはほんの僅かな間で、すぐに、むしろ直前の輝きとは正反対の黒い影が、五芒星の形を描いて床に出現した。そして、驚くべきことに、蛹がその星形の影に沈み込み始めた。

 やがて蛹はすっかり影の中に沈んでなくなった。それを確認した饗庭が詠唱を止めると、五芒星の影と蛹は、そこに存在していたのが嘘であったかのように跡形もなく消えてしまった。あとに残るのは、もともとこの部屋に敷いてあったカーペットと、饗庭が置いた釘だけ。


「……っ」


 巨大な蛹の存在ですら、わたしからしてみれば超常的なものであったのに、いま目の前で起こった現象はもはや漫画や映画の世界、ファンタジーの領域だった。脚に力が入らなくなって、わたしはずるずると壁にもたれかかるようにしながら床にへたり込んだ。

 ぺたんと座り込んで呆然としているわたしの方を振り返った饗庭が、何かを思い出したようにあっと声を出して口元に手を当てた。


「言い忘れてたわね。わたし、魔女なのよ」


 饗庭のその言葉を、わたしは信じるしかなかった。たったいま彼女が起こした現象は、魔法とでも言わなければ説明のつかないものだ。

 わたしが呆然としている間に饗庭は釘を回収して、懐に仕舞いなおした。


「それじゃ、わたしはこれで」

「警察に言いますよ、わたし」


 脅すつもりで言ったのだが、饗庭は余裕のある表情を崩しはしない。


「別にいいわよ。けれど、誰がここで起きた出来事を信じるのかしらね」


 饗庭の言うことはもっともだ。部屋の中に巨大な蛹があって、それを魔法を使って持ち去った女性がいるなど、実際に目の当たりにしなくては誰も信じないだろう。


「じゃあね、あなたもあんまり長居しない方が良いわよ」


 そう言って、饗庭はへたり込んだわたしの横を通り過ぎる。

 わたしは、視界の端から消えかける彼女のコートの裾を思わず掴んだ。振り返った饗庭の、毒蛇のような視線がわたしを捉える。


「待って、ください」


 ここで彼女を行かせてしまえば、二度と円佳に巡り会えないような気がした。


「……どうして?」


 冷ややかな視線がわたしに向けられるが、それに怯むことなくわたしは言葉を続けた。


「その蛹、羽化するんですよね」

「ええ、もちろん」


 饗庭が頷く。


「だったら、それまで、わたしを蛹の側においてください」

「わたしにメリットがないけれど?」

「……分かってます。でも、その蛹が円佳なんだったら、わたしには羽化を見届ける権利くらいあってもいいはずです」


 自分でも、めちゃくちゃな理屈を言っているのは分かっている。

 饗庭の言っていることが、彼女が使った不思議な術の存在を踏まえても真実だと思い切れてはいない。まだ、どこかで円佳が生きているのだと信じている。けれど、彼女が円佳について何か知っていることは間違いなくて、だとすればわたしは、どういう形でも良いから彼女との繋がりを作っておかなくてはならないと思ったのだ。

 饗庭は、わたしの顔を見て少しの間、思索を巡らせたようだった。

 わたしは、いま自分がどんな表情をしているのか分かるほど平常心を保ててはいなかった。多分、必死な顔をしているのだろうけど。

 饗庭は、僅かに口角を持ち上げてから、口を開いた。


「別に構わないわよ」

「え……」


 断られると思っていたものだから、随分あっさりと返ってきたその言葉を聞いて、拍子抜けしてしまった。


「立たないの? ついてくる気がないなら置いていくけれど」


 そう言って饗庭は外に向かって歩き始めてしまった。


「あ……行きます」


 わたしはまだ充分に力の入らない脚で立ち上がって彼女の後を追う。

 円佳の部屋を出てマンションの廊下を歩く饗庭は、まるでいままで不法侵入をしていたとは思えないくらい悠然とした態度だった。


「あの、饗庭さん」

「なに?」


 わたしが声を掛けても、饗庭は足を止めることなく素っ気ない返事をする。


「どこに行くんですか、いまから」


 訊きたいことはたくさんあるけれど、先ずはこれだ。行き先も分からないまま彼女について行くわけにはいかない。


「どこって……わたしのアトリエよ」

「アトリエ?」


 思ってもみなかった単語が耳に入ってきて、わたしは反芻して聞き返す。


「そう、アトリエ」

「饗庭さん、画家とかなんですか?」


 アトリエといえば、芸術家が作品を作るための工房のことだ。少なくとも、わたしが知ってる範囲ではそういう意味しか持たない。


「あー、そういう意味じゃなくてね。芸術家じゃないけど、魔法使いっていうのは大抵自分のアトリエを持ってるものなのよ」


 まるでフィクションの設定のようなことを、饗庭はまるで常識とばかりに語った。

もちろん、魔女を自称する饗庭が言うからには、それは彼女たちの世界では事実なのだろうけれど、なんだか急に俗世的な話になったので、少し驚いた。

 マンションを出たが、饗庭はバスなどを使う様子もなくつかつかと歩いて行く。


「アトリエ、近いんですか?」

「まあね。すぐ着くわよ」


 何となくそんな気はしていたけれど、どうやら本当に徒歩で来ていたらしい。わたしは覚束ない足取りで饗庭について行く。


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