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日が沈んでしまって薄暗い部室の中、わたしはキャンバスに向かって無我夢中で筆を動かしていた。
わたし以外は誰もいない部屋に充満した油絵の具の臭いが、鼻腔を刺激する。袖を捲って露出させた腕にも、頬にも、下に穿いているジャージにも無数の色が付着している。
描いているのは、蝶の蛹だ。それは、傍から見ればとても生き物の絵には見えないだろう。鮮やかなピンク、紫、コバルトブルーといった極彩色を中心として描かれているのだから。
部室のドアが開く音がして、わたしは筆を動かすのを止めた。
「璃羽、帰るよー」
名前を呼ばれたわたしは振り返って、声の主の顔を拝む―とはいえ、この部室に入ってくる人間なんて限られているのだけれど。
「あ、円佳」
篠見円佳はこの大学におけるわたしの数少ない友人だ。入学前のレクリエーションで仲良くなって以来、下宿先が近いこともあってよく一緒にいる。
「もう授業終わったの?」
「とっくにね」
彼女はわたしと同じ学科なのだが教職課程を履修しているため、日によっては講義が終わる時間がわたしよりもずっと遅い。だからわたしは彼女を待つ間、こうして美術部の部室で絵を描いている。
「お昼からずっと絵描いてたの?」
「うん、もうすぐ完成だから」
わたしがそう言うと、円佳はキャンバスを覗き込んだ。
「これ、何の絵だっけ?」
「蛹だよ」
「蛹? 何の?」
「蝶」
「蝶の蛹って、こんなだったっけ……?」
頭上にクエスチョンマークを浮かべていそうなくらい首を傾げる円佳だが、彼女のその疑問は間違いではない。
「かなり抽象化して、色も弄ってるからね」
キャンバスの上に描かれている鮮やかな色の蝶の蛹は、構成色のほとんどを自然界の生物ではまず見られないであろう色が占めている。そのうえ形も、蝶の蛹というと一般的に思い浮かべるアゲハ蝶のものとは似ても似つかない。
「ふうん、不思議な感じだね」
奇妙なものを描いているわたしに対する精一杯のお世辞だろう。円佳はあまり感情の籠もっていないような感想を述べた。
「で、なんで璃羽はそんな絵を描いてるわけ?」
「原点回帰……みたいな?」
どう表現していいものか分からず、思いついた単語を口にする。
「よく分かんないけど、良い絵だと思うよ、あたしは」
「ん、ありがと。片付けるから外で待ってて」
「おっけー」
円佳が部室から出て行ってから、わたしは立ち上がって、描きかけの絵を俯瞰するように見つめた。
「やっぱり、なんか違うなぁ」
さっき円佳には咄嗟に原点回帰と言ったけれど、実際その通りかもしれない。わたしがいま描こうとしている絵は、わたしが絵を描き始めるきっかけになった絵画の模倣だ。
小学生の頃に、母親に連れられて行った美大の卒業制作展示会で見た、羽化する蝶の絵。
模倣といっても、元の絵をそのまま写すのではなく、あくまで画風を似せているだけに過ぎない。だから、わたしが描いているのは羽化ではなく、蛹の絵なのだ。
しかし、どうしてもうまくいかない。絵自体は、目を瞑れば瞼の裏に鮮明に思い描けるはずなのに、そのタッチを、色彩感を、うまく表現することが出来ない。
あの頃は不思議で綺麗な絵だとしか思わなかったけれど、いま振り返ってみると、あの絵を描いた人は頭のネジが飛んでいるのではないかと思ってしまう。あんな幻覚のような蝶がこの世に存在するはずがないのに、あの絵にはどこか説得力があった。まるで実物を見て描いたかのような、奇妙な迫力が。
わたしにはそれがどうしても再現できない。
あの絵の作者は、麻薬でもやってたんじゃないだろうかと考えて、わたしは自嘲気味に口元を歪めた。いくらあんな絵が描きたいといっても、違法薬物に手を染めるほどわたしの頭はイカれてない。
円佳を待たせても悪いので、さっさと片付けてしまうことにした。
片付けを終えて部室を出ると、円佳がスマホを弄りながら待っていた。
「ごめん、お待たせ」
「いいよ、いつものことだし」
「どっかでご飯食べて帰る?」
歩きながら、わたしは軽い気持ちで訊ねた。
晩ご飯には丁度良い時間だし、ずっと絵に集中していたせいかわたしのお腹は食料を求めていた。
いつもなら快く付き合ってくれる円佳だったが、今日は首を横に振った。
「うーん、今日はやめとく。ちょっと朝から食欲ないんだよね」
「風邪? 肌寒くなってきたし気をつけなよ」
九月も半ばになって、日が照っている昼間はまだ暑いけれど、夜にはすっかり冷えるようになった。ひとり暮らしが三年目にもなると、わたしも流石にそのあたりの加減が分かってきて、この頃の夜は少し厚めの布団を被るようにしている。
「風邪って感じでもないんだけどねぇ」
円佳が気怠げにぼやく。
「今日は暖かくして寝なよ」
「うん、そうする。じゃ、また明日」
「ばいばーい」
家の方向が違うので、大学を出ると何もなければすぐに別れることになる。わたしは、逆方向に歩いて行く円佳を手を振って見送った。
***
翌日の火曜日、珍しく二限の講義に円佳が遅刻してきた。
講師に頭を下げながらそそくさと隣に座った円佳に、わたしは小さな声で話し掛ける。
「どうしたの?」
「や、ちょっと、身体が怠くて……」
そう言う彼女の顔色は確かにあまり良くなさそうで、明らかに昨日よりも体調が優れていないらしかった。
「しんどいなら休めば良かったのに。言ってくれたら代返したよ。あ、これプリント」
わたしはそう言いながら、念のために余分に取っておいた講義資料を円佳に差し出した。
「ありがと。でも、まあ、熱とかはないからさ」
歯切れの悪い返事をして、円佳は講義資料を受け取って講師の話に集中し始めた。それ以上講義中に話を続けるわけにはいかないので、講義内容とは若干脱線し始めた話にわたしも耳を傾けることにした。
講義が終わり、わたしは机の上を片付けながら円佳に声を掛ける。
「お昼はどうする? わたしは食堂だけど」
「今日も食欲ないんだよね」
疲れ果てたような表情で言う円佳は、明らかに正常な状態ではない。
「……円佳、ほんとに大丈夫? 昨日もそう言ってたけど、夜は結局食べたの?」
「食べてない」
昨日は講義が昼からだったからどうか分からないが、この調子だと下手すると昨日の朝から何も食べていないのではないか。
「病院行った方が良いよ、流石に」
「そうだよね……うん、明日もこの調子なら行こうかな」
出来れば今日行って欲しかったが、無理強いは出来ない。ひとり暮らしをしていると、診察費が惜しくてあまり病院には行かなくなる気持ちは分かるけれども。
「あとの授業は代返しとくから、今日はもう帰って休んだら?」
「そうしようかな……」
そう呟いて、円佳はふらふらとした足取りで講義室を出て行く。そんな彼女の後ろ姿を見て、わたしは不安を抱かずにはいられなかった。