お母さんはよく、美術の展示会に連れて行ってくれた。
美大を出たお母さんは、絵とか、彫刻とか、そういった芸術作品が好きだったらしい。わたしはそんなに興味はなかったけれど、お母さんと一緒に出掛けられるのが嬉しくて、必ずついて行った。
その日は、お母さんの母校の卒業制作展示会だった。
有名な画家の絵画展と違って、お客さんは疎らだった。わたしやお母さんみたいな関係者じゃない人は、ほとんど来ていないのかもしれない。
お母さんは自分の先生だった人と昔話を始めて、その間にわたしは展示されている作品をふらふらと見て回っていた。
展示されているのは絵画が多かったけれど、中には模型みたいなものも展示されていた。とはいえ幼いわたしには美術作品の良し悪しなんて分からなくて、「どれも凄いな」くらいの感想を抱くだけだった。
わたしは、思わずその絵の前で足を止めた。
その絵は、奇妙な絵だった。
気持ちの向くままに、思いつく限りの色を乱雑にぶちまけたような絵。
見るからに意味のないように散りばめられた絵の具が何を表現したかったのか。作者の描きたかったものを読み取ろうとするには、あまりにめちゃくちゃな絵だった。
けれど、わたしにはひと目見ただけでそれが何の絵か理解できた。
蝶の絵だ。
幼稚園の頃、アゲハ蝶の蛹が羽化するのを見たことがある。蛹の背中を割って出てきた蝶が必死に翅を広げ、数時間掛けて宙へと羽ばたいていくまでを観察したのだ。わたしはそれを、目を離すことなくじっと見つめていた。生命の神秘とか、力強さとかを感じられた気がしたのだ。
この絵に描かれているのは、とてもそういう風には見えないけれど、そんな、蛹から孵る瞬間の蝶に違いなかった。
絵の題名は書かれておらず、『夏原望』と、作者の名前だけが絵の下に掲示されていた。
「ねえ」
わたしが奇妙な蝶の絵に魅入られていると、後ろから声を掛けられた。男の人の声だった。振り返るとそこには、やつれた、三十歳くらいに見える男の人が立っていた。ふわりと、煙草の臭いがした。
目の下のクマが酷く、頬も痩けている。とてもまともな健康状態とは思えないのに、その瞳にだけは爛々(らん)と強い光が宿っている。直感的に、この人がこの蝶の絵を描いたのだろうと分かった。
「この絵、そんなに気に入った?」
お兄さんはにこりと微笑んで、わたしにそう問い掛ける。わたしは小さく頷いて返した。
「お兄さんが、夏原さん?」
わたしが訊くと、お兄さんは一瞬驚いたように目を僅かに開いた。それから再び微笑を浮かべた。
「うん、そうだよ」
「そうなんだ」
だとすれば、わたしの心には訊いてみたい疑問がひとつ浮かんでいた。
「この絵、なんていう名前なの?」
こんなところに展示されている絵に、タイトルがないはずがない。作者である彼ならそれを知っているだろうと、幼いわたしは考えたのだ。
お兄さんはわたしの質問に答えず、妖しく微笑んだ。
「お嬢ちゃんは、この絵に何が描かれていると思う?」
わたしは、お兄さんがどうしてそんな質問をするのか不思議でしょうがなかった。だってこの絵に描かれているのは、どう見たって蝶だからだ。
「え、蝶じゃないの?」
わたしが首を傾げながらそう言うと、お兄さんの顔から、いままで湛えられていた薄ら笑みが途端に消えた。
「……本当に、そう見えるの?」
「うん。……違うの?」
「いいや、その通り。そこに描かれているのは蝶だよ」
お兄さんの顔には、いつの間にか笑みが戻っていた。気のせいか、少し嬉しそうに見えた。
「そっか」
わたしはお兄さんのその答えで満足して、再び絵の方を見た。やっぱり、ここに描かれているのは蝶なのだ。こんな蝶が現実にいたのなら、きっと、とても綺麗なのだろうなぁと思った。
気がつくと、お兄さんはいなくなっていた。まるで初めからそこにいなかったかのように、気配もなく姿を消してしまっていた。
わたしは、それからお母さんが呼びに来るまでの間、蝶の絵をずっと見つめていた。
他の人の目にはろくに留まることのない、立ち止まったとしても首を傾げてすぐに立ち去ってしまうようなその絵を。
ずっと、ずっと。