ある夏の日の幸福
ガラステーブルに素足が触れた。
カッと照りつける陽差しは、南向きの室内に暴れるように侵入してくる。
私は溜息をつきながら、真っ白なブラインドを下ろした。
昼間は本当は、陽差しを浴びていたいのだ。肌に染みの出ることは怖いけれど。
灼熱の太陽は、次々とまばゆい光線を矢のように放ってくる。仕方がない。
エアコンで冷やされたガラステーブルは、ひととき、感情を唇に思い出させた。
素足がガラステーブルに触れたからだ。
あの人は今日、職場の同僚とプールへ行った。
私達より10も年上のその男性と行くプールに、心底、嫌そうだった。
スマホのラインメッセージからは、夏のうだるような暑さが漏れるように、渋々とした熱が溢れ出てきそうだった。
私はもう一度、素足をテーブルの足につけ、プールのようなヒンヤリとした冷たさを味わった。
「行ってきます、しおん」
もう一度メッセージを受信した。
私は変わらず足をテーブルに押し当てている。
冷たさが、あの日を思い出させる。
私達は恋人としての終わりを告げる前日、軽く唇を重ねた。
1年前の夏のことだ。
夜のとばりを、真っ白なブラインドが遮っていた。エアコンで冷やされたあの人の腕は冷たかった。
人肌の温度に保たれた唇は、冷えることなく、私の心も何故か温めた。
終わりの見える恋に、温かい唇は、私達の付き合いが温かかったものだと思わせた。
翌日、あの人はこの部屋を出た。
食事もお茶も、雑談や冗談も、このガラスのテーブルの上でかわしていた。
あの人が部屋を出ると、私は涙を拭うようにテーブルをキレイに拭き上げた。
もうあの人の指紋も残らなくなった。
エアコンで冷やされたガラステーブルのように、私の心も冷えた。
真っ白なブラインドを上げて、夏の朝日を浴びる気にもなれなかった。
熱さなど不要なゴミのようなものだった。
夏期休暇中だったため、2~3日は部屋に籠っていたように思う。
引きこもりの危険を感じた。
思い切って外へ出ると、ほのかに熱を帯びた夕方だった。
最後の唇の温かみを思い出した。
そこで初めて瞳が濡れた。景色を見つめる眼差しは熱く、涙は冷えた水のようだった。
誰が悪いわけでもない。
恋にはいつか終わりがくる。そして過去に幸せはないのだと感じた。
流れ落ちる涙を拭いに、部屋へ戻った。
休みが明けると、私は今まで以上に仕事に打ち込んだ。習い事も増やしてみた。
夏はいつまでも終わらず、でも、私の心の中では呼吸困難のような喘ぎはいつしか終わっていた。
そんなある日、あの人から連絡が来た。
他愛のない話。恋は終わっているのに、電話を通じて入ってくるあの人の声には、温もりを感じた。
その夜も真っ白なブラインドを下ろして、エアコンで冷やされたガラステーブルに、何となく肘をのせて頬づえをつきながら話をした。
復活愛など無いが、過去に幸せは無いが、冷やされていく肘と、声の温もりが心地良かった。
左手でスマホを持ち、右腕をテーブルに押し当ててみた。やはり心地が良かった。
新たな交流の第一日目となった。
今、私は冷たいガラステーブルの上に、温かいコーヒーの入ったコーヒーカップを置いた。恋愛小説を読むことにした。
読んでる途中に「ただいま、しおん」のメッセージを受信するかもしれない。しないかもしれない。
どちらでも良いのだ。
今、私は幸せなのだ。
冷えた体に温かい声、それがあるだけで。
主役の名前は、思いつかなかったため、私のペンネームを使いました。