アノマリーゴールド
師匠が死んだことによって、その作品達とアトリエは男のものとなった。
活気を失ったアトリエはどこか寂しげで、昼だというのに今にも夜が訪れてしまいそうな様相をしている。
師匠は生前から女っ気どころか身内がいる素振りも見せない枯れ木の様な人だったが、まさか遺す相手もなく、遺産の全てが唯一の弟子である自分にまわってくるとは、男は思ってもいなかった。
尤も、遺すつもりもなかったのだろう。絵が売れればすぐに酒を買って豪遊し、生活費以上の宵越しの金などこれっぽちも残さない。そんな師の財産は、アトリエと画材、いくつかの絵だけ。
アトリエを継いだ男は絵を描き続けた。師に追いつこうと、師を追い越そうと、たくさんの作品を作り続けた。しかし、売れない。幸いにも師匠のパトロンとの交友は続いていたが、男の作品が眼鏡にかなうことは一度たりともなかった。
男には才能が無かった。
弟子を取らないことで有名だった師匠に男が師事することが出来たのは、師匠が病を患って、身の回りの世話をする人が必要だったからだ。
男はそれを理解していた。
そうでもなければ、自分の様な人間が師に教えを乞う事など叶わないということを知っていた。師匠から見れば自分は、病気と併発したノイズの様なものであり、絵を教えることなど望んでいなかっただろうと、そう男は思っていた。
師匠が男の元に遺していったものは、冷え切ったアトリエと、売れ残った絵と、使いかけの画材。そして、絵を描く為の技術。
画家という肩書は、男の元には遺されなかった。
活気を失ったアトリエで、男は一人自身の命を込めながら絵を描いている。
壁にかかったマリーゴールドの絵が、太陽の様に男を照らしていた。
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街から馬車で半日ほどの山奥、見晴らしの良い大きな湖のほとりに、そのアトリエはあった。
「画材の場所を変えたのかい」
客は、がらんどうになった部屋の隅を目に据えながらそう言った。
「ええ。師が使っていたままでは少し不便を感じたので」
男は、眉ひとつ動かさずにそう答える。
この日、男は完成させた一つの絵を売ろうとしていた。いつも通り、客は師匠のパトロンであった今も付き合いの続いている貴族の男だ。
男はこの商談に命をかけていた。いや、今回の絵に命をかけていたという方が正しい。
画家というものは当然、絵が売れなければ生活ができない。画材も安くはない。男は、今回の作品に自分の画家人生をかけていたのである。
「相変わらずいい景色だな。ここは」
客は窓から景色を一瞥してそう言った。アトリエから見える湖は木漏れ日を写し、宝石の様に輝く。その水面を穏やかな風がなぞり、煌めかせる。
「そうですね。師も、絵を描いているとき以外はずっとこの景色を見ていた様に思います」
「そりゃそうだ。あいつはこの景色に惚れてここを買ったのだからね」
客は男に出された紅茶を口に含みながら、いつかの思い出を語った。普段飲んでいるものと比べてしまえばその紅茶は粗末なものであったが、客は満足そうに目を細める。
「師が床に伏しながらも、最期まで画家であり続けたのは、この景色があったからなのだと思います」
男は昔の師匠の話を聞きながらそう返す。
師匠は病に蝕まれて、棺桶への階段を日に日に下りてゆくなかでも、最期まで絵を描くことをやめなかった。それは、心が満たされていたからだと、男は思っていた。死の前日にまで自分への指導を続けていた師匠に、いまだに畏敬の念を抱き続けている。
「この花の絵は素晴らしいよ。君に遺すという遺言さえなければ、僕が買っていた」
客は師匠が亡くなる直前に手がけた、マリーゴールドの絵を見る。一本の花がただ描かれているだけだというのに、その絵はとても暖かで優しい雰囲気を纏っていた。男は硬直し、ぎこちない笑みを浮かべる。
男にとってその絵は、目の上の瘤の様な存在だった。いままでどんな客を招いても、男の絵より壁にかかったこの師匠の絵を評価した。それが師匠の当て付けのように思えた男は、畏敬とは似ても似つかない感情の干渉に悩み続けていた。
「もちろん君の絵にも期待しているよ」
客のその言葉は、男に真っ直ぐ届くことはない。
男たちは茶会を終える。その日の目的はもう眼前に迫っていた。
アトリエの一室に置かれたその絵は、ベールをかけられてまるで花嫁の様な容貌をしている。しかし、この場においてそれをその様に捉えるものはいなかった。
「ご覧ください。これが俺の画家生命をかけた作品です」
するりとベールは取り払われ、男の絵が姿を表した。
「ほう............これは......」
カンバスの中には、オレンジ色の花畑が広がっていた。地平線にまで続く庭園のなかに、老人が一人ぽつんと花の世話をしている、暖かなのに少し寂しげな光景だった。
客は黙り込んでまじまじと絵を見る。隅から隅へと目をやって、その景色を散策していた。穏やかで優しい雰囲気の庭園は、暖かな風をうけて静かに揺れていた。
客は顎を触りながら絵から目を離し、言った。
「確かに、今までで一番良い。だが」
その目は窓まで泳ぎ、そして、男の目に吸い込まれる。
「君がやっていることはどこまでいっても模写の延長線上でしかない」
男は自分の中を見透かされている様な気分になった。
「どれだけ表層が違っていたとしても、内側に張り付いたテーマは君にとってありきたりの景色で、君が見出した世界が生きていない」
客はもう一度絵に視線を落とし、そして目を離した。恐らくもう二度と、その目が向けられることはないのだろう。
「僕以外にだったらこの絵は売れたかもしれない。でも、その人が、さらに次の作品を買うことはないだろう」
男は何も言い返せなかった。
男が画家人生をかけて描いた作品は、こうして潰えたのだった。
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翌朝、男が目を覚ますと、血相を変えて仁王立ちした客が待っていた。
「どうしましたか......?」
状況が把握できない男は、目を擦りながらそう訪ねた。昨日の今日である為、男はどんな顔をして相手をすれば良いのかも分からずぼんやりと客を見つめる。
このアトリエは街から遠く、馬小屋もない。大概客は翌日に迎えの馬車が来る様に手配し、一日はここに泊まるものだった。
「画家生命をかけたと言っていたが、嘘だったのか......?」
「は......?」
寝起きで頭の回らない男は、なんのことだかも分からずに音を吐いたあと、答える。
「いいえ。俺は確かに画家生命をかけましたよ」
「だったら何故、このアトリエに画材がない? 筆も、カンバスも、この間までは潤沢にあったはずじゃあないか?」
「売りました。俺が持っていても仕方がなかったので」
「それでははなから画家として生きるつもりがないみたいじゃないか! どうしてそんな事を」
二人は画家生命を別々のものとして捉えていた。それに気付いて、男は観念した様にため息を吐いた。
「............俺、もう長くないそうなんです」
男はちっぽけな自分を見せびらかす様に、自虐的に笑った。
「それで医者にかかる金が必要だったのか......」
「いえ、死ぬ前に、たとえ師匠に届かなくとも画家になりたかったんです。だから、自分を追い込むために、全部捨てました。結果はご覧の通りでしたけど」
「君は............」
客は言葉につまって、悲しそうに男を見ていた。それを見た男は、なんだかアトリエ全体が悲しみに包まれる様な気がして話を変える。
「湿っぽい話は終わりにして、朝食にしましょう! 寝坊した俺が言うのはなんですが、これから作ります。待っていてください」
男は逃げる様に厨房へと向かおうとした。すれ違いざまに、客が閉じていた口を開いた。
「僕が聞かなければ、君は最期まで教えてくれなかったのか?」
「ええ。言ったら公平ではないんで」
客が振り向いた時には、男はもう厨房に潜り込んで、朝食の支度を始めていた。どうせバレてしまうのなら、良いものを買っておけば良かった、と戸棚の食糧を見ながら男は思った。
そこからの時間は二人にとって苦痛の様な時間だった。腫れ物が密閉されているにも等しい空間で、お互いが気を遣って黙っている状態。もうすぐ馬車が来るという時間になるまで、その静寂が破られることはなかった。
最初に口を開いたのは客の方だった。
「もし、今から僕が昨日の作品を買うと言ったら、君は売ってくれるかい?」
愚問だった。そして、それは客自身もよく分かって言っていたのだろう。それが半分冗談である事を分かっている男は、笑って返した。
「売りませんよ。あんな素人の落書き。いまここで売れるものといったら、師匠のあの絵くらいのものです」
男は壁にかかったマリーゴールドの絵を指差す。それは男にとって最後の財産だった。
「分かった。その絵を買おう。いくらでなら売ってくれる?」
客の素直な反応に少し目を見開きながらも、男は答える。
「実は昨日の作品の結果がなんであれ、今回にこの絵はただでお譲りするつもりでした。ですから、お金は入りません」
「いや、金は払う」
そう言って男は懐から札束を一つ机の上に置く。丁度そこで、迎えが玄関を叩く音が響いた。
「これが今回僕が出せる最大限だ。不足があるならまた連絡をしてくれ」
「ちょ......そんな、こんなには......」
男がつっぱね返そうとするが、客は頑固にそれを拒絶した。
「あいつの作品を無下に扱うなんて、僕には出来ないよ」
男はなにも言い返せずに、マリーゴールドの絵を客に差し出した。
別れの挨拶を済ませ馬車に乗る直前に、客は思い出したように男に質問した。
「君は、あいつの後を追うのかい?」
客は別れを惜しむ様な、寂しそうな目をしていた。
「いいえ、俺は師と同じ場所には行けませんよ」
ただ、男は画家人生をかけた勝負に負けたのだ。
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一人きりのアトリエはどこか悲しげで、今にも泣き出してしまいそうな雰囲気をしていた。
客と別れた男は机にうつ伏せになりながら、虚空に視線をむけていた。泣き出してしまいそうな部屋とは打って変わって、その目は真っ暗で、なんの力も感じられない。
燃え尽きてしまった男は、まるでこのまま寿命を待っているかの様に微動だにしない。しかし、夜が明ける頃になってようやく動き出して、厨房で紅茶を沸かした。
客が来る時、男は少しだけ奮発して良い紅茶を買う。もっとも貴族である客が普段飲むものには劣るだろうが、無ければ白湯を出す様な羽目になるので、必要な出費だった。そして、普段飲まない紅茶を飲むことも、男の密かな楽しみの一つであった。
男は残り少ない薪がめらめらと燃え尽きる様をじっと眺めたあと、紅茶を机へ運ぼうとする。しかし、薄暗かったために何かにつまづき、沸かしたばかりの紅茶を落としてしまった。
砕けたティーポット、散乱する紅茶。幸いにも男の体にかかることはなかったが、楽しみにしていた紅茶は無価値な床の染みへと変わってしまった。
「ティーポット。もうないんだけどな......」
男は諦めて机に戻った。後始末は明るくなってからする。もし破片を踏んで被害が増える様なことがあっては馬鹿らしい。と、今片付けることがとても愚かな様に思ったからだ。
そして、それまでの醜態を振り返ってなお賢く生きようとしている自分の滑稽さに気付き、笑った。
「画家になるために全部捨てていいって思った奴が、足を怪我する事を恐れるのか」
或いは、画家になれなかったからこそそれは時効なのかもしれないが。そんなことは、男にとって問題ではなかった。
男は惨めだった。
師匠は死の直前まで画家であり続けた。その生き様に男は師の矜恃を感じていた。一方で、自分にはそんな貫き通せるプライドがない事を察していた。
男は病に命を奪われるよりも、自ら投げ出す命の方が良いと思った。男はだらだらと画家を目指すよりも、一回の勝負に全てをかけることの方が良いと思った。男はそれらを自分から選んだと信じていた。
しかし、それは逃避に着せた衣なのだ。
死に至る病を告げられたとき、真っ先に師の最期を自分と重ね、芯のない自分では腐り堕ちてゆくということに、無意識的に気付いてしまった。死の恐怖に抗えない自分を目の当たりにすることが怖かった男は、最後の挑戦という合理化の嘘で自分を騙し、師の様に立派でない自分を誤魔化した。
老いを恐れて若くして死を選ぶ。そんなもののどこが勇気と挑戦か。
最も不幸であったことは、こうしてこの事実に気付いてしまったことかもしれない。
全力を出した勝負にただ負ければ、少なくともそれは美談で終わった。全力でもなければただ負けたわけでもないという真実は、感情的な支柱を全て破綻させる。
男は最後まで価値を生み出すことのできない人間ではなかった。最初から価値を生み出すことのできない人間だったのである。
価値というものは、正しい場所にあって初めて成立するものだと男は思っていた。カップの中に入っているから紅茶には価値があった。床に染み込んだそれは、価値がないどころかそれ以下だ。そして、飲みたがる人がいるから飲み物には価値がある。
男は最初から画家というもの以外、何も求めてはいないのだ。故に、全てのものは無価値に帰しており、男以外の人が持っている方が有益である。
だから、師匠の遺したマリーゴールドの絵も欲するもののもとにやった方がいい。自分はもう金を使えないので、金もいらない。そう思ったはずだった。
それですらも、師へのコンプレックスの元を何処かへ捨てたい、師の傑作を無価値にしたいという、ただの師への当て付けだった。そう気付かされた。
あのマリーゴールドの絵があったからこそ、師匠亡き後もこのアトリエには客が来ていたのだ。それを放棄したということは、このアトリエに客が来ることはもうない。
もう既に、男には存在価値など残されてはいなかった。
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あれから一週間。男は冷え切ったアトリエで何もせずに暮らしていた。食料は数日前には尽きており、喉が乾いたら湖の水を汲んで飲むことだけが男の習慣になっていた。
最初は酷く自分を否定していたものだったが、日が経つに連れてだんだんとどうでもよくなっていた。体力は衰え、意識は朦朧とし、既に生きているか死んでいるかも、男ははっきりと自覚していなかった。
既に男の体力は街まで赴けるほど残っておらず、まさにあとは死を待つだけという状態だった。
ただ、男の心は凍えていた。何故自分がこんな状況になっているのか、何故アトリエがこんなにも寒々しいのか、男はそれだけを考え続けていた。
ある朝に、男は気付いた。師の描いたマリーゴールドの絵が、アトリエを見守っていた温かな花が、なくなってしまった事を。
男は辺りを探したが、それは見つからない。もちろん見つかる筈はない。
そして、ゴミ捨て場をひっくり返したところで、男はたくさんの絵を見つけた。それは男が今まで描いてきた絵だった。最後の作品が売れなかったあの日、男は自分の全ての作品をまとめてゴミ捨て場に出したのだ。
あのマリーゴールドの絵は見つからなかったが、自分が描いた絵を見た男は自分が絵を描けるという事を思い出した。
男は、あのマリーゴールドの絵を自分で描こうと思った。そうすれば、このアトリエはまた温かくなる。そう信じていた。
男は画材を探したが、筆と最後に使っていたオレンジの絵具が少し以外見つかることはなかった。カンバスも何もかも、男は売り払っていたのだ。
カンバスがなければ絵は描けない。しかし、男には既にそんなことは関係がなかった。男は自分が衰弱していることに気付いていた。
最期までに、この大好きだったアトリエを変えなければならなかった。
わずかに残るオレンジ色の絵具を筆に、アトリエの壁にマリーゴールドを描き始める。
もう既に男の視野は灰色になりチカチカと点滅していた。栄養失調や持病の悪化が重なり限界が訪れていたのだ。
それでも男の手は止まらなかった。筆を介して壁に伝わる生命の脈動が、モノクロアウトした男の景色を何よりも鮮やかなものへと変えた。
たとえそれが価値の見出されないものだったとしても、今この価値体系から断絶されたアトリエにおいては例外的な価値を帯びているのだ。
いつの間にか、そこは美しいマリーゴールドが咲き乱れる庭園へと移り変わっていた。
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街から馬車で半日ほどの山奥、見晴らしの良い大きな湖のほとりに、もとはアトリエであった家がある。
男の死後、アトリエは民家として買い取られ、唯一売れた男の作品となった。
壁に描かれた一輪のマリーゴールドは孤独の花と呼ばれ、特別芸術的な価値を見出されたわけではないが、男の絵として認知されていた。
そして、その風評すらも忘れ去られた頃、住んでいた子供の落書きによって、一輪の花は花畑へと変わった。
いつのまにかそこには、世界中のどこよりも温かな花畑が生まれていた。
あのマリーゴールドは、根付き、広がり、アトリエを再び見守っている。
初の客観視点に挑戦。味気ないのは、徹夜のせいだろうか。
またいつか挑戦する。