辰砂の輝き
都から見て西の彼方にそびえる山々を越えると、さらに峻厳な山々が広がっている。猫の額のような盆地には僅かばかりの草木があり、人が暮らしを営んでいるが、少し山を登ればあっという間に岩ばかりが広がり、人の気配どころか、獣の気配さえも失せてしまう。乾いた風ばかりが吹き抜ける侘しい山道。青年杜冬は気息奄々、粗末な枝を杖代わりに、何とか険しい山道を登っていた。
齢二十にして既に髪には白髪が目立ち、櫛も通さないからすっかり毛先がねじけている。髭もすっかり口元を分厚く覆っていた。
いかにも世捨て人のような出で立ちだが、真っ直ぐに霊峰の頂上を見つめるその瞳には聡い気色があった。何を隠そう、この杜冬という男はそもそも都で働く官吏だったのである。
そんな男がなぜ西方の山奥に分け入って、仙境の地に足を踏み入れたのか。そこには山より高く海より深いわけがあった。簡単に言えば、洛中を統べる皇帝には将来の頼みとなる子がおらず、それゆえに皇帝は永遠の命を求めていた。そこで、不死の霊薬を手に入れるように宰相へ命じたのだ。しかし不死の霊薬は霞にも夢にも似た儚い存在。宰相がいちいち手を下すというわけにもいかない。だからその大業は宰相の配下に回される。配下はまたその部下へと命を下す。そしてその部下は、一番下っ端の杜冬へと全部丸投げした。かくして杜冬は当てのない旅へと駆り出された。村や都市へ辿り着くたびに彼は不死の霊薬について尋ね、時に笑われ、時に眉を顰められながら、やっとの思いで西の彼方を目指してきたのである。
かくして辿り着いた翠龍山。山に迷い込んだ村人が、翡翠の鱗を持った龍を見たことからそう名付けられたという。限りない時を生きる龍ならばきっと不死の霊薬も知っているに違いないと、杜冬は今藁にも縋る思いで険しい岩場を登っていた。ふうふうと荒い息をしながら、人間の背丈ほどもある大岩をよじ登る。長旅に疲れた彼にとっては一つ一つの動作が大仕事であった。
大きな岩を登りきると、そこからはまたしてもいくつも岩が突き出た厄介な山肌が広がっていた。しかも岩は苔むして、気を抜けば足を滑らせてしまいそうである。背中を反らせて山の彼方を見上げるが、雲に覆われその頂はほとんど見えない。幾年も大陸を彷徨ってきた杜冬であったが、翠龍山の踏破は後にも先にも指折りの難事となるに違いなかった。彼は岩肌にぱっくりと口を開いた小さな洞窟を見つけると、乾いた岩を探しながら慎重に山道を登る。足が棒のようになった彼は、一刻も早く休みたかった。
岩壁によりかかるようにしながら、杜冬はようやく洞窟へと足を踏み入れる。ちょうど光が差し込み、小さな洞窟の奥まで照らされた。目を凝らすと、薄桃色に染められた絹に身を包んだ少女が横になっているのが見えた。杜冬は首を傾げる。なぜこんな辺境に女子がいるのか。訝しく思いながら近づくと、いきなり少女は跳ね起きた。
「何だお前は。女の寝床にいきなり入ってくるな」
丸い目を大きく見開くと、手近な石ころを拾い上げ、少女は杜冬へ向かっていきなり投げつける。杜冬は何とか身を捻って躱すと、慌てて叫ぶ。
「いきなり何をするのだ。お前こそ何者だ。こんなところで一体何をしている」
「我は桃だ。病に臥せった母のため、不死の霊薬を求めてここまで来たのだ」
桃はそう言って胸を張る。見てくれは年頃の娘のようだが、中身は幼い子供のようだ。居丈高な少女の振る舞いが、杜冬にそんな印象を抱かせた。杜冬はそんな桃をこれ以上怒らせないよう、その場にそっと腰を下ろす。
「不死の霊薬。なるほど、お前も不死の霊薬を求めているのか。まあ、わざわざこのようなところまでくるわけもそのほかにないな」
「いかにも。だが困ったことになった。先ほど足を軽く捻ってしまってな、長旅の疲れも高じてにっちもさっちもいかなくなってしまったのだ。せっかくここまで来たというのに。ほれ、こっちに来て見てみよ」
傍若無人の振る舞い。杜冬は思わず溜め息を零しながら立ち上がる。どこかの役人の娘に違いない。そう杜冬は思った。細い眉、濡れ羽色の髪、瑞々しい唇を持つ彼女は佳人と呼ぶにふさわしかったが、こんな山奥で出会っても厄介なだけである。
「なるほど。これほど腫れてしまっては確かにただの道を歩くにも難儀しそうだ」
少女の細い足首は真っ赤に腫れ上がっていた。杜冬は布と添え木を取り出すと、桃を軽く手当てしてやる。その慣れた手つきを見て、桃はほうと息を洩らした。
「ふむ、お前は準備がよいな」
「むしろ、お前は何の用意もなくこんなところまで来たのか」
「居てもたっても居られず飛び出してしまったのだ。お前にはわからんか。この我の思いが。そうだ。お前、我と共にこの霊峰の頂を目指してくれ。旅は道連れと言うだろう」
「お前を連れて行っても難儀になるだけだと思うのだが」
杜冬が厭な顔をすると、桃ははっと息を呑んだ。口元を手で押さえ、よよとそばの岩にしなだれかかる。
「では我を置いていくというのか。食べ物も水も尽きて、足も痛め、ただここでじっと眠って時をやり過ごすことしか出来なくなったこの我を」
因果応報。杜冬はそんな言葉が脳裏によぎったが、ここで少女が死んで腐っていく景色に思いを巡らせると、それはそれでやりきれない気分になった。杜冬は肩を落とし、彼女の目の前へそっと腰を下ろす。
「わかったわかった。おれがお前を見捨てて死なれたとしたら寝覚めが悪い。どうせ目指す場所が同じなら、付き合ってやらんでもない」
「まことか! いやはや、天運は我を見捨てていなかったな!」
桃はからからと笑う。そして彼女は悪びれもせず、その手を杜冬へと差し出した。
「とりあえずお腹が空いている。何か持っているならくれないか。これでも頭がくらくらしていてな、このまま山登りを始めてもすぐに倒れてしまいそうだ」
早速厄介なことになった。この口を開けばわがままだらけのこの少女が、一体どうしてここまで辿り着けたのか、杜冬にはわからなかった。彼は旅嚢から熊の干し肉を一切れ取り出すと、桃に向かって放り投げる。
「ほら、これでも食べておけ」
「我にこんな固い肉をよこすとは。まあよいわ」
桃は一瞬口を尖らせたが、すぐに気を取り直して肉に噛り付く。小さな口を開き、小さな歯を突き立てて肉を噛みちぎる。細面に似合わぬ獣のような食べ方に、杜冬はますます不思議な気持ちになった。
「それで、お前はなぜ不死の霊薬を求めるのだ」
肉を咀嚼しながら、桃は杜冬に尋ねる。
「皇帝が欲しいと言ったからだ。政を為すには、人間の命というのはあまりにも短いと。未だに大陸の隅ではいまだに夷狄戎蛮がはびこっている。これを抑えるためにも、永遠の命が欲しいそうだ」
「そうかそうか。皇帝とやらは政の為に永遠の命が欲しいか。そしてお前はその手先と。つまらぬ」
桃は言い捨てる。杜冬は眉を寄せた。
「迫る死におびえて道を誤った者は多い。皇帝が道を誤らずに済むなら、そのほうがいいだろう。せっかく争いが収まったのだから、そのまま治めていてもらいたい」
語気を僅かに強めてそう言うと、桃は厭そうに軽く耳を塞いだ。
「わかったわかった。お前の言い分はわかった。ならばそろそろ行くか。山の頂へ」
言うと、桃は杜冬へと手を伸ばす。
「何だ、その手は」
「お前、我に歩かせるつもりだったのか。足を怪我しているのに、この先の岩を登れるわけなかろう」
桃の言葉に、杜冬は呆れ果てた。一人で登るのも大変だというのに、一人を背負って山を登るのは胃に石でも鉛でも詰められたような、暗澹たる気分になる。
「よくも恥ずかしげもなく、男に身を預けようと出来るものだ」
「我のような女を背に負えることを光栄には思わないのか?」
呆れて物を言う気も無くなった。杜冬は桃に旅嚢を持たせると、そのまま彼女を背負って立ち上がる。
「これで十分だろう。もう文句は洩らすなよ」
「わかったわかった。せいぜい気張るがよいぞ」
杜冬は押し黙ったまま、山へと向かう一歩を踏み出した。
少女を背負い、山を登り続ける青年。しぶとく生えていた短い草木も無くなり、いよいよ景色は荒涼としてきた。霧が立ち込めると共に目が霞み、今立っているのが夢か現かもわからなくなってきた。ただ足を一歩前へと踏み出すことしか考えられなくなった杜冬は、黙々と山を登り続けていた。その背で悠々と辺りを見渡していた少女は、彼方を指差してまたもいきなり叫んだ。
「見よ! あんなところに泉があるぞ!」
「うむ」
疲れ果てていた杜冬は頷くことしか出来ない。桃は溜め息をつくと、遊牧民が己の馬に対してそうするように、足を揺らして杜冬の腰を蹴りつけた。
「ぼうっとするな。見えないか、あの光が。あれは仙境の地に違いないぞ。早く行け」
桃の言う通り、顔を上げると水の滴る音が彼方から響いた気がした。急に喉の渇きを思い出した青年は、遮二無二手足を動かして岩肌を登る。
「水だ。早く水をくれ」
喘ぎ喘ぎ、よろめきながら、杜冬はついに霊峰の果てまで踏破する。頂上に幾つも突き立った大岩の風情と言ったら、まるで巨大な鑿で削られたようだ。その狭間には大きな窪みがあって、うっすらと燐光を放つ湖が出来ていた。
杜冬は思わず少女を脇に放り出し、夢中で湖に飛びついた。地に伏せて口をつけ、気が済むまで燐光の輝く水を啜る。その度に、胃の腑に石を押し込められたような息苦しさが解けていくような気がした。起き上がった杜冬は、濡れた髪を掻き上げながら快哉を叫ぶ。
「やれやれ、助かった。天命はおれを見捨てていなかったということか。桃、お前も飲むといい。お前が足につくった傷にも効きそうだぞ」
杜冬が振り返ると、桃は腰をさすりながら立ち上がるところだった。
「まったく、終わりの終わりになって邪険に扱ってくれたものだな」
「よく言う。お前はずっとおれの背に乗っていただけじゃないか」
「それもそうか。まあよいわ。文句を言いながらも、お前はきちんと我をここまで連れてきた。その廉直さに免じてやろうぞ」
言うと、桃はいきなり衣を脱ぎ捨てた。真珠のように輝く白い肌、その名と同じ果実のように艶々と丸みを帯びた肢体を見て、思わず杜冬はぼうっとなる。その隙に少女は軽やかに駆け、ざぶんと湖に飛び込んだ。その瞬間、桃の姿は濃い霧へと包まれて、杜冬からはその人影を僅かに窺えるのみだ。その人影も、見る間にぐらぐらと形を変えていく。
「桃よ、桃よ、やはりお前は只者ではないだろう。母の為に薬を取りに来たなど、嘘だろう」
「ああ、嘘だとも」
幾つもの鐘を打ち鳴らしたような、ひどく耳慣れない声色が辺りに響いた。霧が風によって吹き飛び、翡翠色の鱗を持つ巨大な龍が、するりと飛び出してきた。辺りに突き立った岩を鷲掴みにして霊峰の頂に鎮座した龍は、ぐいと首を伸ばして杜冬を覗き込む。
「我こそはこの山の主、翠龍であるぞ」
龍は首をもたげてがらがらと笑う。杜冬が呆気に取られている間に、いきなり龍は杜冬に向かって小さな石の欠片を吐き出した。それはまるで血のように赤く輝いている。目を丸くする杜冬に、龍はそっと囁きかけた。
「ありがたく受け取るがよい。お前たちが不死の霊薬と噂する結晶とはそれに相違ない」
あっと声を上げ、杜冬は慌てて拾い上げた。光の加減で幾つも輝き方を変えるその石は、杜冬の手の内でずっしりとした重さを伝える。龍の霊気が漲っていた。
「随分と簡単にくれるのだな」
「間抜けたことをいうものだ。ふもとの近くでお前に逢うてからこの方、ずっとお前を試していたというのに。ふむ。そもそも間抜けだからこそ、己が内に芽生えた疑りに惑う事無くここまで辿り着けたのか」
龍はふんと鼻で笑うと、ぐいと身を乗り出した。長く伸びた金色の髭をゆらゆらと揺らしながら、龍は鈴を鳴らしたような声で囁きかける。
「そのままでは飲みにくいだろう。結晶を削って飲め。一つまみでも飲めば、それで十分だ」
龍はその爪で霊薬を削ると、爪に張り付いた深紅の欠片を纏めて杜冬の口へ押し込んだ。咄嗟の出来事に彼は目を見張るしかなく、霊薬の欠片も飲み込んでしまった。
「何をするのだ」
杜冬は呻いたが、その間にも全身に気が満ち満ちるのを感じていた。いかなる病魔も、今や彼を打ち倒すことはない。彼はそう確信した。
手元の霊薬を握りしめる杜冬を見つめ、龍は嗤う。
「よく効くであろう。届けてやるがよいぞ。その皇帝とやらに」
「言われなくとも、そうする」
杜冬は身を翻すと、そのまま満ち満ちる体力のままに山を駆け下りていった。
一年後、不死の霊薬は宮廷へ帰還した杜冬により皇帝へ献上された。皇帝は霊薬を溶かし込んだ湯を毎日のように愛飲していたが、気力が充実するどころか、皇帝はあっという間に衰えた。足腰が萎え、舌先が痺れ、床に伏せたまま死んでいった。 それでも、最後まで薬の効能を疑うことはなかったという。大陸を遍く力で抑え込んできたたった一人の男が消え去った瞬間、再び大陸は荒れた。我こそはと信ずる者達が、覇を競って争いを始めたのである。
杜冬は、大平原を広く望む山の頂に立ち、眼下で繰り広げられる戦をぼんやりと眺めていた。そばには少女に身をやつした龍がいる。頂に突き立った岩の上に座り込み、くつくつと笑っていた。
「世は大荒れじゃな。次は誰が世の頂に立つかのう」
「あれは毒だったのか。不死の霊薬などではなかったと」
「いやいや。間違いなく不死の霊薬だったとも。だがあれだけでは毒となる。我の霊気に満ちた水をも飲んで初めて五行の均衡が完成し、仙境へと至れるのだ」
「それで俺は生き、皇帝は死んだと。なぜ、それを話さなかったのだ?」
「そうしたらお前は泉の水まで汲み出して皇帝とやらに渡してしまうだろう? そうすればそいつも永遠の命を手に入れてしまう。そうなれば世の中は変わらなくなる。退屈極まりないではないか」
戦場の有様は、百里も離れたこの山の頂でさえ、ふと血の臭いを感じるほどの凄烈さである。骸が積み重なる様を見て少女は目を輝かせていた。
「よい、よい。争え。争いの中でこそ世は拓かれていくのだ」
杜冬はそんな龍の隣で溜め息をつく。龍の道楽の為に一踊りさせられたのが癪でならなかったし、龍の目論見通りになった同胞達の姿を見ていると、胸が詰まった。
「何だ。お前ももっと楽しめ。お前の根気に免じて、せっかく仙境に至らしめてやったのに」
「恩着せがましいことを言うが、どうせ道連れが欲しくなっただけだろう。我は龍だと威張りくさっても、一人でいるのに倦んだというわけだ」
彼がひっそりと呟くと、龍は悪びれもせず、少女の顔をにんまりと歪めた。
「今更気付いたところでもう遅いぞ」
背後に回り込んだ少女は、白魚のような指に似合わぬ、鋭く伸びた爪を杜冬の肩に突き立てる。その重みを感じながら、杜冬は世に永久の命ほど煩わしいものはないと信ずるのであった。
世界が動乱に包まれるとき、必ず龍が姿を現すという。覇を競う者たちは、その龍を栄光の先触れであると喜んだ。
龍の傍らに立つ仙人は、そんなおめでたい人間達に呆れかえっていた。
おわり