想い人は高校生
二千年以上の昔から日本を守ってきた神と、ずっと立ち話をするのもはばかられ、杵築稲荷に隣接するすずめの自宅でちゃぶ台を囲んだ。イナリには来客用のふかふかした座布団、そして百グラム三万円もする高級玉露をふるまっている。
古い木造の家屋は夜気をほぼ素通しのため、反射式のヒーターまで押し入れから出してきた。ヒーターの上に置いたやかんから、湯気が立ちのぼっている。
が、これらの丁重なもてなしはすべてアカリの意図だ。すずめは、ほっときゃいいんじゃない、といつもの眠たそうな眼のまま、他人事だ。
「うむ、んまいどすなあ。いつも向こうの菓子ばかり食べとるから。新鮮な感じやわ」
昼間に買いたしておいた高村屋の最中をほおばって、イナリは幸せそうだ。タレ目気味でうるうるとした瞳が、湯飲みの茶柱を見つめている。
ふわふわ浮いている羽衣が、どうにもすずめとアカリの気を散らせてくる。
「で、願いごとってなに?」
すずめは壁掛け時計を気にしながら、いらだった様子で質問した。
「ちょっ、イナリさまにそんな口の利き方っ」
「アカリ、いい? 杵築稲荷で祀ってるのはあくまでイナリの分神だよ。この元祖イナリとは分けられた神だし。三百年以上前の分神だから、完全に別物。だからボクは世話になってないもん」
「ラーメン屋の元祖論争みたいだねそれっ」
「すずめはんは正直でよろしおすなあ。わかりやすーて結構なことやわあ」
イナリが声を上げて笑った。
「はいはい、それで本題は? ボク、やんなきゃいけないことがたくさんあるから、早くしてほしいんだけど」
イナリの瞳がぴかーんと光を弾く。
「縁結びをしてほしいんどす!」
「……誰の?」
「ウチの!」
かちっ、かちっ、かちっ、と壁掛け時計の秒針が動く音が居間に響く。アカリはこめかみのあたりに一粒の汗が浮かせている。
「あの、なにかりあくしょん? が欲しいんやけど」
イナリがおずおずと声をあげた。
「うちは縁結び専門じゃないから。むしろアカリのとこが専門だから、そっちに頼んで」
じゃあ、と言って、すずめが立ちあがる。
「待っとくれやす! すずめはんやないとダメなんや!」
がしり、とイナリがすずめの下半身にしがみついた。
「……なんで? ボクの専門は縁結びじゃないってば」
「すずめはんの『強制力』がないとあかんの!」
すずめの眉がぴくり、と動く。やがてため息をついた。
「嫌だと言ったら?」
「末代まで祟りますえ!」
「ああ、うん。キミ、本当に神さまなの?」
すずめは深いため息をついて、再び畳に腰を落ちつけた。
「運命を変えるってさ、神さまなら強引にやればいいじゃん。アホみたいな力持ってるみたいだし」
「知っとると思うけど、神は万能やおまへん。最善の運命までは導くことはできるんやけど、その幅を超えるとこまでは行けへんの」
「ああ、最善の運命でも結ばれないわけね。じゃあ諦めろ、だよ」
「すずめはーん! 末代まで祟りますえ!」
「やれるもんならやってみろ、だよ。さっきは油断したけど、即、覆してやるから。ボクとアカリの能力を舐めないでもらえる? 神だろうが仏だろうが、もう負けないもんね」
イナリが涙を噴出する。
「ふぐぅ……末代まで祟る言うたのはちょびっと語弊がありましてな、この神社、取りこわしの対象になってはりまんの」
「えっ……? 取りこわしって?」
反応したのはアカリだった。
「最近、神社への信仰が薄れてきてはりますやろ。ここもそうやと思うけど、神主が亡くなったとか、経済的に維持できんとか、管理されとらん神社が増えてきてますのん」
イナリがおよよ、と泣いたまま続ける。
「そうなると、信仰をもとに存在している神もそこに居られんくなって、はぐれ神になって、あまりいいことしまへん。不景気なにゅーすが多いと思うんやけど、それの大部分に関係しとります」
「まあ……神さまが悪さしてるってことだよね。そんなの今に始まったことじゃないけど。でも、根こそぎ退治したから、最近はボクに噛みついてくるのも減ったんだけどな」
すずめが悟ったように言うと、イナリは苦々しい表情でうなずいた。
「とにかく今の状況はまずいんどすぅ。それやから、神社が荒れる前に、取りこわしてより大きな神社に合祀してしまおうって流れになっとって。それでこの神社がやり玉に上がっとって」
「――ダメっ!」
淡々としているすずめをよそに、眉根をつり上げたのはアカリだった。
「ダメダメっ! すずめが巫女やめるなんて有りえないからっ!」
「え、いいよね別に……神事の時間はバイトに当てればいいし、そっちの方が儲かりそうだし。それにアイドルにも集中できるようになるし」
「ダメっ、ダメなのっ!」
アカリはすずめに抱きつき、盛乳に顔を埋める。
「アタシは神社の仕事をして、巫女の服を着てるすずめが好きなのっ!」
すーはーすーはー、とアカリがすずめの香りを堪能する。
「それに、この神社に来てくれてる氏子のみんなはどうなるのっ?」
顔を胸に埋めたまま、アカリがふごふごと訊ねる。
「そんなの知らないよ。てめーのケツはてめーで拭きやがれ、だよ」
「ふご……すずめの馬鹿! クズ! 畜生! ……ハゲ! ……う○こ!」
「はい。百歩譲って、だよ。そんなにボクに巫女の仕事をしてて欲しいなら、アカリの家の手伝いとして雇われたらいいじゃん。巫女のバイト、年中募集してるでしょ」
アカリは存分にすずめ成分を補給したのか、ようやく顔を上げた。
「お父さんがいる限り、すずめは絶対に雇ってもらえないよっ!」
アカリの父は、すずめを毛嫌いしている。いや、正確には、すずめのいる玉依家を嫌っている、という方が正しい。だから、アカリが玉依家に関わること自体に反対している。
「とにかくダメっ! アタシのすずめを奪わないでっ!」
「疾走感半端ないなあ」
すずめはため息をついた。
「そこで、お願いどす。ウチの縁結びをしてくれたら、取りこわさないように口利きはしますえ、へっへっへっ」
「うわー煩悩の塊だ。お寺さん除夜の鐘ヘルプ」
イナリがお代官様にもみ手をするように迫り、すずめが舌打ちした。
「はぁ――それで、イナリとどの神さまをくっつければいいわけ?」
すずめが訊くと、最中をほおばっていたイナリがびしっと背筋を伸ばした。
「ウチの願いを聞いてくれるんどすか!」
「言っとくけど、不可抗力だからね。残念ながら脅迫に屈しただけだからね。ちなみにボクじゃなくてアカリがね」
イナリが最中の皮を口の端につけたまま、満面の笑みを浮かべる。その様子は、世間一般の女子高生と変わらない。タレ目にうるうると涙を浮かべて、首を小刻みに振っている。
「ウチの想いびとは、神さまやあらへん。すずめはんたちと同じ、人間どす」
「……は?」
「そないに不思議な顔せんでもええんちゃいますのん?」
「だって……神さまコミュニティ的にそれってありなの?」
「方々から許可はもらっとります。神等去出祭までに結ばれることができれば、その仲を認める言うてはります」
イナリがえっへん、と胸を張った。
対するすずめとアカリの顔色は、少しばかり青くなった。
「神等去出祭っていうと、今年は十六日だから……あと九日?」
「そやさかい、はよせんとなあ」
すずめが頭を抱える。
「つまり、神等去出祭の日にはイナリは古都に帰るから、それまでの間に縁結びを完了してなきゃいけないってことだよね……」
「そうなります」
イナリは呑気に玉露をすすっている。
「あのねえ……」
すずめはいらだちを覚えていた。
「ボクは運命を強制できるけど、よほどのことがない限り、そんなに急激に変えるべきじゃないと思うよ? 特に人の想いを捻じまげるのはリスクが大きいし。九日っていう時間制限は周りにどれだけ影響を与えるかわからないから、保証はしたくない」
「……ほほー、あのすずめはんにもできないことがあるんどすなー」
くくく、と笑うイナリの表情は、いやらしい。
すずめの顔が引きつった。
「……馬鹿にしたね? 今、馬鹿にしたよね? わかったよ、やればいいんでしょ。やってやるしそのくらい」
「本当どすか! さすがすずめはんやなあ!」
「すずめって結構チョロいよねっ」
イナリの感嘆は、まるで台本を読んでいるかのようだ。
「それで、イナリの想いびとって誰? まさかボクやアカリが知ってる人?」
「知ってるはずでっせ」
「……誰?」
イナリが急に頬を赤らめ、視線をそらした。
「い、因幡……因幡、直兎さま、どす」
すずめとアカリが宙を仰いだ。
「……イナバ? イナバって……あー、ナオト?」
すずめが確認すると、イナリは視線をそらしたまま、うなずく。
「ナオトって、あの、サッカー小僧の?」
アカリが再確認しても、イナリは首を縦に振った。
『なんで!』
すずめとアカリがハモる。
「……出会いは二年前。あんさんたちが中学校の修学旅行で古都に来てたときや」
イナリの眼が遠くなる。ひとりの世界にログイン。
「ひどい雨の日どした……めっぽうしんどいことがあって、傘も差さずに濡れ鼠になっとったら、ナオトさまが声掛けてくれて、傘とタオルとうまし棒コーンポタージュ味をくれたんどす。ナオト様はずぶ濡れになるのも構わずに、走りさってしもた……ウチ、一目惚れどした。握られた手の温かさは、今でも忘れまへん」
ぽーっとした表情で思い出を整理すると、イナリは上衣の胸元に手を突っこんだ。
どういう仕組みでしまい込んでいたのか、黒い傘と紺色のタオル、そしてうまし棒の空の包みを取りだす。
「それ以来、ウチにとっての三種の神器はこれどす」
すずめとアカリが呆けている間に、居間に異臭が立ちこめる。
「な、なんか臭くない?」
気づいたアカリが声をあげる。
「うぐ……」
すずめがあまりの臭いに鼻をつまんだ。
「もしかして、そのタオル……洗ってない?」
アカリが目をショボつかせながら、イナリが持つ、直兎から託されたらしきタオルを指さす。
「臭い? このタオルどすか? なに言わはりまんの……ナオトさまの匂いやおまへんか。なんと、かぐわしいことか。洗ったらナオトさまの残り香がなくなってまうやないの」
イナリがタオルを鼻に当てて、めいっぱい深呼吸している。悦びを感じている表情だ。
「なにか……床にぶちまけた牛乳を拭いてそのまま三週間放置したぞうきんみたいな匂いがする……たっ、助けてファ○リーズっ!
アカリが吐きそうになるのをこらえた。
「ぅぷっ、わかったから、さっさとしまえこのドグサレがっ」
イナリが名残惜しそうに三種の神器とやらを胸元にしまった。
すずめは鼻をつまんだまま、窓を開けて換気する。
「……とりあえず、イナリとナオトが結ばれればいいんだね?」
「そやそや! すずめはん! それからアカリはんも! なんとか頼みますえ!」
二人はしぶしぶうなずいた。
「でも、急激に変えるつもりはないからね。風が吹けば桶屋が儲かる、だよ」
すずめが言うと、イナリは首を傾げた。
「……? どういう意味どすか」
「はぁ……ナオトの思いを捻じまげると、ナオトの行動が本来の運命から外れる。ナオトの行動が変わると、ナオトの周りにいる人たちへの当たりが変わる。当たりが変わると、ナオトの周りにいる人たちへのインパクトが変わって、思いも変わる。さらに、周りにいる人たちの行動が変わる……っていう、ドミノ倒しみたいなことが起こる。極端な話、宇宙の運命が変わる。そのくらい考えてからこいよ、だよ」
「すずめはんは大げさどすなあ」
「影響があるかもしれないし、ないかもしれない。でも、リスクがある限り慎重にいかなきゃダメなんだよファック」
「ぐふぅ……」
「――おーい、すずめちゃん」
ふすまの向こうから男の声が響いてきた。ずずい、とふすまが開く。顔をのぞかせたのはボサボサの長髪、無精髭、赤ら顔の優男。一升瓶を片手に、スルメをくわえている。
「うわ、寒っ……! パパお腹空いたよー? 晩ご飯まだー?」
「たまには自分で作れよゴクツブシさん。取りこみ中だしあっち行け」
父親というにはずいぶんと若く見える――珠衣高杯の闖入に、すずめが舌打ちした。
高杯とイナリの視線が合う。
「……おお、お客さんか」
つぶやいて、視線をわずかに下ろす。
高杯が見つめているのは、イナリの胸だ。鼻の下が古風に伸びる。
「こ、これは豊乳っ! Fか? Gか?」
「ほーにゅー? ほーにゅーってなんやの?」
イナリが首をかしげた。
「はいはいおやすみゴクツブシさん」
察知したすずめが高杯にタックルし、敷居の向こうに押しやった。
「おじさんの安定感好きだなぁ」
アカリがうなずく。
『平均サイズのアカリちゃんもどうぞ、ごゆっくり』
高杯がふすまの向こうから声をあげた。
「あは……あは、はははっ」
アカリのこめかみに青筋が浮かんだのを、すずめはしかと見届けた。