二千と縁
すずめが巫女をしている杵築稲荷神社は、県立祝部高等学校から北西、日本海の海岸へと進んだ位置にある。高校から神社へは、バスと徒歩で二十分程度の距離だ。神社から浜へは十分もかからない。
目と鼻の先には、アカリがいる吾郷大社があり、大社の観光客数は年間四百万人を超える。
一方で、すずめの杵築稲荷神社は閑古鳥が鳴いている。すずめの母親、玉依家の血筋が代々神主として守ってきた。人口一万五千人ほどの、田舎町の住宅街に溶けこんでいて、こぢんまりとした敷地の隅には子どもむけの遊具なども置いてある。神社の裏手には保育園があり、日中はにぎやかだ。
十一月の日の入り時刻は午後五時頃。無論、午後七時を回った今は、すっかり夜の帳が降りている。
「アカリ」
最後のご祈願を終えて、すずめは冷えた手を擦りあわせながら、授与所に駆けよった。授与所は神社の離れのようになっている。小屋のごとき佇まいで、お守りやお札を授与するための窓口がある。
すずめは白衣に緋袴というフォーマルな格好だ。
「ああ、すずめ。終わったの?」
帳簿をつけていたアカリが、授与所の外からのぞいているすずめを見た。アカリも巫女のフォーマルスタイル。すずめと同じく神社の娘だけあって、違和感のない着こなしだ。
「おかげさまでなんとか。夕拝も終わったから、今日は閉められるよ」
アカリが帳簿をつけ終わって、大きくのびをした。
すずめが授与所に入ってくる。
すずめを一メートル先にとらえたアカリが、恍惚とした笑みを浮かべた。
そのまますずめにがしっと抱きつくと、胸元に顔を埋め、すーはーすーはー、と匂いをかぎ始めた。
「…………」
すずめは表情一つ変えず、前を向いて眠たそうな眼のままだ。
「ああ……すずめたんっ。制服姿もいいけど、装束最高っ。うーふー」
アカリはぐりぐりと、すずめの盛乳に顔をこすりつけている。
「すーずーめーかーわーいーいー……って、やばいっ」
言いながら、アカリは離れた。蛍光灯が、アカリの顔を照らす。その鼻からは、一筋の赤。
アカリは慌てて備えつけのティッシュを引っぱり出すと、鼻に当てた。
「うん、いくらクンクンしてもいいけど、授与品は汚さないでね」
「オーケー!」
ドヤ顔で鼻を拭うアカリに、すずめが突っこむ。すずめが授与所内の片づけをしている間、アカリは鼻栓をして止血した。
「――あの~」
窓口の外側に、人影が二つ見えた。
「まだ開いてます?」
年の頃は二十歳そこそこ。授与所内の蛍光灯で浮かびあがる、太めと細めのコンビ。
その風貌に、すずめの眼がキラリと光を放つ。
「は~い、まだ大丈夫ですよぉ」
猫なで声で、すずめが返答した。
「あっ、神奈ちゃん! ほんとにこの神社にいたんだ!」
「そうだよぉ~。あ、もしかしてボクに会いにきてくれたのかなぁ?」
すずめのはちきれんばかりの笑みに、来客の二人が力強くうなずく。
神奈というのは、すずめの芸名だ。珠衣神奈名義を使っていて、ファンには『神奈ちゃん』と呼ばれている。
「いやー、イベント以外で神奈ちゃんに会えるなんて感激だなぁ!」
「トラさんに、ゆーきさんだぁ! いつも来てくれてありがとう! ブログのコメントもすごくうれしいよー」
「えっ、俺たち認知してくれてるぅっ! めっちゃ感激!」
「当たり前だよぉ! 二人ともずっと最前でコールしてくれるし! 握手会も必ず来てくれるし!」
「それは神奈ちゃんのためだからさ! 俺たち、神奈ちゃんがデビューする前からのファンだし! それくらい当然だよ!」
細めの男が興奮して、すずめの手を掴んでくる。
「お、おい、ゆーき。身内でもイベントでもねーのに、さすがに接触は御法度だぜ」
「あ……ご、ごめん、神奈ちゃん!」
太めのツッコミに、細めは慌てて手をほどき、二メートル以上光速で後ずさった。
「ううん、ゆーきさん、ありがとぉ! 私たちはゆーきさんやトラさんたちみたいなファンに支えられていられるんだから、感謝してもしきれないくらいなんだからね!」
「女神やぁ……女神がここにおるでぇ……」
トラとゆーきはガチで涙を流した。
「神奈ちゃん! 俺たちずっと単推しだから! 新曲も枯らす勢いで行くから!」
「ありがとぉ! また会おうね!」
お守りと破魔矢を授与し、記念撮影まで済ませたところで、二人のファンは暗がりに消えていった。
「契約更新完了……」
さっきまでの笑みに邪悪さを追加して、すずめがつぶやいた。
「いやー、一年前とは比べものにならない人気だねっ。すずめのマネージャーとしてはうれしい限りだよ。かなり住所バレは怖いけど」
カウンターの下に隠れていたアカリがぬっと顔を出す。鼻血がようやく止まったのか、鼻線をすぽっと引きぬく。
「後でいくらでも対策できるさ……まずはセンター、そして全国区に……」
「そうだね! 目指せ全国!」
授与所の片づけを終えた二人は、鍵をかけて外に出た。
「次のイベントは九日後かぁ。レッスンははかどってる?」
石畳に立ったアカリが、すずめに声をかけた。
「最近忙しいから、あんまり状況よくないかも」
「え、それってマズいんじゃ……アタシ、スケジュールのマネジメント強化しよっか?」
「大丈夫、ボクに不可能はないから。いくらでも巻きかえせる」
「それならいいんだけど」
すずめの眼の下にあるクマといい、どうもこのところ不安要素が多い。
と、そのとき。
淡い光が石畳を照らした。まるで、たくさんの蛍が舞っているようだ。風とともにらせん状に天に伸びて、光の柱になる。細かな葉や砂埃が舞いあがった。すずめとアカリの衣も吸いこまれそうになる。
「……?」
二人が風から身を守っていると、発光が減衰した。
光がほのかに残っている場所に、人影があった。
高校生くらいの女の子だった。透きとおった紫色の髪と、うるうるとした紫の瞳を持っている。すずめとアカリのような上衣と袴を身にまとってはいるが、上衣の肩の部分からは真っ白の肌が露出していて、袴には、濃い紫と淡い紫を緩やかにすべるグラデーションがかかっている。
「……誰?」
すずめが思わずつぶやいた。アカリは言葉を失っている。
少女はやさしい笑みを浮かべると、口を開いた。
『¶※◇★◆▲□◎#*¶‡◎□▽□▲▼〓♪※§◇★◆◯●▲□〒』
「……は? なんぞ?」
まったく聞きとれなかったすずめが訊きかえす。
(どこかで見たことがあるような……どこだったかな?)
すずめの記憶の片隅に、その風貌が残っている。特にふわふわと舞っている羽衣は忘れようにも忘れられない。はずだが。
『¶※◇★◆▲□◎#*¶‡◎□▽□▲▼〓♪※§◇★◆◯●▲□〒』
「何語……?」
アカリもポカンとする。
『¶※◇★◆▲□◎#*¶‡◎□▽□▲▼〓♪※§◇★◆◯●▲□〒』
一方、少女は身振り手振りを交えて必死になにかを訴えている――と、合点がいったように、手をたたいた。
次の瞬間、少女が人差し指を立て――
自分の口の中に突っこんだ。
にわかに前屈みになる。
『――ぅぼえええええ!』
万国共通、えずきサウンドを轟かせて、ゲル状の物質が石畳にぶちまけられる。
少女はひとしきり放出すると、すっきりした様子で顔を上げる。液だまりに転がった、ぐにゃぐにゃした薄っぺらい直方体を取りあげると、真っ二つにちぎった。
やさしい笑みを浮かべたまま、すずめとアカリにそれを差しだしてくる。
こんにゃくだ。未消化らしい。
『ひいぃいいいいい! 変態さんだっ!』
すずめとアカリが同時に悲鳴を上げ、神社の外へとダッシュした。
『¶※◇★◆▲□◎#*¶‡◎□▽☆□▲▼〓♪※§◇★◆◯●▲□〒――!』
背後からは相変わらず謎の言語が聞こえてくる。そいつは走りだしたかと思うと、あっという間に距離を詰めてきた。
「くそ、走りづらい……っていうかアイツも草履なのに速っ! アカリ、こうなったらやるよ!」
「えっ! 慣れてるナオトならまだしも、人に向かって……!」
「あんな登場の仕方するやつがフツーの人なわけないよっ! いつものアレに決まってる。気絶させる程度でやる!」
「わ、わかった!」
「――掛介麻久母畏伎 伊邪那岐大神――!」
二人で呼吸を合わせて振りかえる。すずめが急ピッチで祓詞を奏上する。
「〈天叢雲剣〉――!」
すずめが叫ぶと、アカリの体が光に包まれ、手に剣が生じた。あちこちにくびれのある、長さは半身ほどの、幅広の刀剣。
「え、これって……まさかの近接戦闘っ?」
「選択間違った! あーうー……うがぁああああっ! いいからもうぶん投げろ、だよ! 絶対アイツ、いつものアレだしっ」
「お、おーけーっ!」
ためらっていた割には、サイドスローの剣が奔る。槍のような光は地をなめるように少女に迫ると、ギリギリのところで顔に向かってホップした。
『¶※◇★◆▲□◎#*¶‡◎□▽□▲▼〓♪※§◇★◆◯●▲□〒』
少女は剣を眼前にして肩をすくめると、右手を薙いだ。
紙くずのように弾きとばされた剣は、轟音とともに銀杏の大木を消し炭にする。
「……な、なんだコイツ……!」
「すずめ……今の、消滅レベルだったよね……当たり前のように弾かれたけど……?」
わなわなと拳を震わせるアカリ。
パキポキ、と首と指を鳴らす少女に唖然とするすずめ。
「よし、後方に全速前進!」
すずめはアカリの首根っこを引っつかんで逃げだした。
「ぴぎゃっ」
アカリがシメられた鶏のような声を出した。
しかし、十メートルも走らないうちに、二人の足がもつれ、石畳に転がった。
「い、痛たたた……」
ただ転んだのではない。二人とも網に包まれていた。漁師が魚を捕らえるのに使いそうな網だ。
「え、ちょっ、な、なにこれっ?」
アカリが体を起こしてジタバタ暴れた。網が伸びるだけで、脱出の糸口はつかめない。
「痛、痛いよアカリっ! 無理に動くとこっちも引っぱられる!」
「しょーがないじゃんっ! 早く逃げないと! 何日もお風呂に入ってないような青ヒゲに慰み者にされた挙げ句、コンクリ詰めにして日本海に捨てられるとか、どっかの国につれてかれて鏡に自分の素性を問いつづけて精神崩壊実験させられるとか、そんな最期が浮かぶよっ」
「えっ……そんな可愛くない最期はいやだ」
ぺた、ぺた。
二人の恐怖をよそに、草履がゆっくりと近づいてくる。
「あぁっ……」
窮屈ながらも振りむいた二人の目には、ニタリ、と口の端をゆがめた少女が映った。手には未消化こんにゃくを携えている。少女の上衣がかすかに発光しているからか、顔面を下からライトアップしたように、ホラーな効果が演出されていた。
「くそっ――観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 舍利子 色不異空 空不異色 色即是空 空即是色――」
「すずめ、それ祓詞じゃなくてどっちかっていうとお経!」
懇願むなしく、細い指がすずめの頭をがしり、と掴んだ。少女の力は恐ろしく強い。手足をばたつかせて抵抗してみたが、体を突きとばそうとしても、途方もない樹齢の木が根を張っているかのように、微動だにしない。
「ぐぬぬ……走馬燈きたー」
「すずめ!」
観念したすずめの様子に、アカリも加勢したが、やはり少女の体は一ミリたりとも動かなかった。
『¶※◇★◆▲□◎#*¶‡◎□▽□▲▼〓♪※§◇★◆◯●▲□〒』
謎の言葉を紡ぎ、少女は――すずめの口に、未消化こんにゃくをねじこんで、無理矢理咀嚼させた。
「もぎゃーあああああぁぁぁあ!」
すずめの断末魔が半月の夜を切りさき、カラスの群れがバサバサと飛びさった。
「いぎゃあぁああああぁあ!」
アカリも後を追った。
敗北感と恥辱心、絶望を抱えて、すずめとアカリは石畳から起きあがれなかった。それを尻目に、少女は鼻歌交じりに二人を拘束していた網を回収する。
「――これで話、通じますやろ?」
今度は謎の言語ではない。
古都の言葉。出雲県の方言ではないにせよ、すずめとアカリは理解した。
「な……な、にを食べさせた……」
虫の息のすずめが訊く。
「なに、って、言葉通じんかったから、万物創成技で『ほんやくこんにゃ』――」
「あ、それ以上はマズい気がする」
「おかしいなあ、ナオトさまにはなにもせんでも通じたんやけどなあ……やっぱりウチの運命の相手ってことやろかあ」
少女は勝手に頬を赤らめている。
「ふふふ……手荒な真似してえろうすんまへん。でもあんさんら、急に逃げるんやもん。しょぉがないでっしゃろ」
「……え、なに? ボクたちをごにょごにょしに来たんじゃないの……?」
少しだけ正気を取りもどしたすずめが体を起こし、訊いた。
少女は慌てて首と手を振る。
「そんなんありえへん! ウチはお願いごとがあって来たんどす!」
「願いごと……? っていうか、人間じゃないのはお察しだけど、キミ、何者?」
すずめが訊く。登場シーンに、謎の防御力。久々に遭遇した条件ではある。
「ウチは宇迦之御魂神――イナリ呼ばれることが多いどす。二人ともウチのことはイナリ呼んでおくれやす。それはさておき、杵築稲荷神社のすずめはんに……こちらはんは?」
「吾郷大社のアカリ……すずめのクラスメイト、です」
アカリが小声で答える。すずめは、そのくらい調べておけよ、と怪訝な表情だ。
「ほほー、アカリはん。そらええとこの娘はんやなあ。大国主命さまは息災かえ?」
「は、はい。お出ましにならないんで、おそらくですけど。宇迦之御魂神って……あの? もしかして古都にある高矢稲荷大社の?」
アカリが訊くと、それがなにか? といった様子でイナリがうなずく。
「こ、高矢稲荷っていったら、稲荷神社の総本社……その辺のはぐれ神とは桁違いじゃないっ」
アカリが後ずさった。
「というわけで、すずめはんにアカリはん、よろしゅう」
イナリがすずめに握手を求める。
「……えー?」
すずめの汚物を見るまなざし。クリティカルヒット、のはずが、イナリは腰をくねくねと動かし、頬を赤らめている。
「ふぐぅ……その目、ぞくぞくするわぁ」
「すずめ、握手くらいしなさいよっ……! いつも握手会でやってるでしょ!」
「だってコイツ、体内で異物創成するような人型兵器だよ? しかも放置に悦んでるし」
「すずめはん……その視線、最高やわぁ」
「神は死んだ」
すずめはそっぽを向いて舌打ちした。
一瞬の油断を見せたすずめの手を、イナリが強引に握る。
「こらっ! ちょっ……こ、この感じ……まずい……! 降りる!」
すずめは握手から逃れようと体をばたつかせたが、やがて髪の毛が逆立った。
「ぉおおお?」
イナリがうなった。
イナリの色が、光とともにすずめに向かって抜けていく。イナリの体が透明度を増し、向こうの遊具が透けてみえた。一方で、すずめの体が光を帯び、イナリのシルエットが重なりはじめた。
「――せいっ!」
「ぅほぁっ!」
ひらめいたアカリに肩を強打され、すずめがよろめいた。すずめからイナリに光が移り、イナリの色が元に戻る。
「いやー、危ない危ない。すずめたん大丈夫かな?」
すずめを後ろから抱きとめたまま、アカリがくんかくんかと匂っている。
「そのベテランフォークシンガーの掛け声みたいな抜き方やめてって言ってるよね!」
「即効性あるからいいじゃないっ?」
「痛いから自重しろ、だよ!」
「まあまあ……うーん、すずめ~」
アカリはすずめを堪能し続けている。
「あんさんら……そういう仲どすか? 今風にいうと百合とかいう……あ、すずめはんは男の子やから、ちゃうか、のーまるどすな。なんや、腑に落ちへんなあ」
イナリが頬に手を当てて、首をかしげた。
「どうでもいいけど、二度とボクの手を握らないでね。キミ、胡散臭いけど大物なのは確からしいから、ボクの体質と掛けあわされると夢のコラボレーションすぎる」
「ウチはかませんよ?」
「ボクが構うんだよファッキンゴッド」
(凶兆って、イナリと直兎に関するコレだったんだな……)
すずめはイナリに聴こえるように舌打ちした。