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ここ一番のイナリシリーズ

 試合前なのに、汗の匂いが染みつき、漂うロッカールーム。ベンチで瞳を閉じ、静謐に身をゆだねる。有象無象を過剰に知覚するほど、五感は研ぎすまされている。


 実は、静かなのは直兎の心中のみだった。現実は喧騒に包まれ、勝利を誓いあう先輩たちが互いに体を叩きあっている。




 三年前の雪辱。三年間の行動原理。


 無風の水面のように落ちついていた心に、波紋が浮かびはじめる。




『――ナオト。おまえ、背負えるか? チームメイトの覚悟を、だ』




 中一の自分。中三だった高島キャプテンの言葉が蘇る。


 三年前、引退試合を創った自分。ひとりよがりの烙印は、今日で完全に消去する。




(三年間背負い続けてきたチームメイトの悔しさを、利子つきで返してやる――!)




 拳を握りしめる。直兎の中一からの三年間は、この試合のためにあった。




 ふと、すずめとイナリの顔が浮かぶ。


(捻じまげる、だの、勝たせる、だの言ってたが……理由もなく道理から外れるような奴らじゃねえ)


 直兎は激情で糾弾したが、すずめとイナリに対する信頼は揺らいではいない。アカリが目を覚ましたという連絡もMINEで受けとった。




 応援が欲しい。


 でも、誰から?


 すずめから? アカリから? イナリから? 全員から?




 ――答えは実のところ、すでに出ている。




「――ナオト、緊張してるのか?」


 目を開くと、キャプテンの高島が立っていた。その後ろには一ノ瀬。


 二人とも、笑っている。


「ナオト、今日の目標は二つある。一つじゃない分、難しいが、いけるか?」


「……なんすか? なんでもやってやりますよ、俺は。今日は特に、ね」


 高島が、吹きだしそうになるのをこらえる。


「ひとつ。勝つこと」


 直兎がうなずく。


「ひとつ。楽しむこと」


 高島が、再び笑顔を見せた。直兎の口元が、疑問で複雑に歪む。直兎は立ちあがった。


「楽しむって……いやいや、決勝っすよ、キャプテン?」


「くくく……だからこそ、だぜ、ナオト。なあ、高島キャプテン?」


 一ノ瀬が言って、意地の悪い笑みを浮かべながら、高島に視線をやった。高島が笑顔のままうなずく。


「ナオトを疑うやつなんてもう誰一人いないよ。思う存分、やろう」


 高島が直兎の背中を、胃袋が飛びでるのではないかという勢いで叩いた。


「――そして、勝つぞ」


 直兎が咳きこみながらも、こらえきれずに笑いをこぼした。


『ナオトはさあ……サッカーに限らず、楽しもう、って考えが抜けてるんだよね』


 中一の負け試合後、すずめにかけられた言葉を思いだしたからだ。


「当たり前っすよ、キャプテン――!」


 三人は、掲げた手のひらを、お互いに勢いよく叩きつけた。




◇ ◇ ◇




「あのファッキンゴッド、どこで道草食ってやがる」


 朝イチの電車で競技場に移動してきたすずめが、観客席に腰を落ちつけている。ジト目で芝のフィールドを見つめ、舌打ちしながらつぶやいた。手には、映画館よろしく、自前で入手したポップコーンのカップが握られている。


 雲の多い、しかし、晴れ。暑くもなく寒くもなく、熱中症や低体温症とは無縁の気候。赤いユニフォームの祝部高校イレブンが、黄色い悪魔とフィールドを駆けずり回っている。


 昨夜から姿をくらませているイナリは、消息不明のままだ。


「ねえねえ、これって結局、どっちが優勢なのっ?」


 すずめの右隣りに座るアカリが声をあげる。


 スコアは一―一で拮抗しているが、ゲームの内容としては祝部高校が圧倒的に劣勢。後半に入って間もなく十分。


「サッカーはよくわからないからねー」


 すずめを挟んで、左に座っていた十子が、少年マンガらしき単行本に目を落としたまま、答えにならない答えを呑気につぶやいた。


『せめてカゴから出すんだニャ―ッ!』


 御札だらけのキャリーに突っこまれたグルヴェイグが、十子の足元で暴れていた。十子にとって崇拝しているはずの神なのに、崇拝している様子は微塵も感じられない。


「ボクもサッカーに詳しいわけじゃないけど、どうも相手の方が優勢みたいだね。相手がボールを持ってる時間が圧倒的に長いし、祝部の選手はもう動きが鈍くなってる。たぶん疲れが出てるんだと思う」


 すずめがポップコーンを頬張りながら、冷静に分析する。


「……ほうほう。まだ宍道大湘南(しんじだいしょうなん)は余力を残しているとっ?」


「本来、決勝で余力もクソもないよ。だからこそ、祝部のナメられた感は半端ないね。実際、プレーを観てても、技術で宍道大(しんじだい)と互角以上に渡りあってるのは、ナオト含めて三人くらい。他はもう、完全に格下。全然、ボールを保持できてないもん」


 ミッドフィルダーの要になっている高島が必死にゲームメイクしているが、ツートップの一ノ瀬と直兎のマークは厳しく、なかなかゴールに繋がるパスが通らない。個人技でプロのレベルに達している直兎でも、宍道大のディフェンダーの裏をかけずにいた。飛びだしても、不安定な体勢から撃たざるを得ないシュートは、ことごとくキーパーの守備に吸収されてしまう。


「馬鹿にされてるなあ、これ。もう後半だし、このまま一―一だったら延長戦だけど、さすがにそこまで引っぱる気はないだろうし……そろそろ、潰しにくると思うよ。最初、祝部が先制した一点も、ナメてかかってきた相手の虚をついただけだったし」


 淡々と解説するすずめだが、内心、(はらわた)は煮えくりかえっていた。


 直兎の努力を知っているだけに、相手の浮ついた試合運びに反吐が出る。


強制して(捻じまげて)やろうか――)


 何度も脳裡をよぎったが、直兎の泣き顔にも似た叫びがそのたびに浮かんできて、踏みとどまる。


 ピーッ、とホイッスルが鳴って、宍道大湘南のコーナーキックのタイミングになった。




 ――そのとき。


 ざわざわ、と。


 背後からどよめきが聴こえた。




「……?」


 すずめ、アカリ。そしてさすがに涼しい顔をしていた十子も、同時に振りかえる。


『――¶※◇★◆▲□◎#*¶‡◎□――!』


 三人とも、言葉にならない声を上げた。




『――ふぁいと~!』




 そこには、観客席を見渡さなければ確認できないほどの数の――


 イナリ、が立っていたからだ。




◇ ◇ ◇




 クリアボールが祝部高校サイドのゴールラインを割って、宍道大湘南附属高校のコーナーキックになった。


 自陣のペナルティエリア付近まで戻っていた直兎は、喉がえぐり取られるような痛みをこらえ、両膝に手をついて空気を取りこんだ。


(このタイミングでの失点はマズい……!)


 後半二十五分。スコアは一―一。同点ではあるが、相手は屈辱にも遊んでいる。


 今得点されてしまえば、ロスタイムを含めても残り二十分ほど。一点を返して延長戦に突入するシナリオもあるが、疲弊したメンバーが延長戦を凌ぎ、追加点を上げる余裕はない。対して、相手はスタミナをまだまだ残しているし、ダメ押しの一点を叩きこまれる可能性も高い。


(――王者だかなんだか知らねえが、どこまでも悪趣味な奴らだぜ)


 正念場。


 ここは、絶対に守りきらなければならない。延長では勝ち目がない。


 ゴールネットへの導線をふさぐべく、チームメイトとやりとりしながらポジションを取る。




『――ふぁいと~!』




 コーナーに立つキッカーの動きに集中しようとしたそのとき、間の抜けた大声が、サッカー場を揺らした。




「……イナリ?」


 直兎の口から、その名が漏れる。


 しかし、不自然なのは。


 夢か現か、判然としないのは。


『――ナオトふぁいと~!』


 イナリが、観客席の一部を埋めていたからだ。


 それらの顔は確かにイナリ。実にその数、九十九(にん)


 服は、すずめとアカリがよく身にまとっているような巫女装束。


 容貌だけで言うならば、不自然なのは、髪の長さも色もてんでバラバラ、という点だった。その正体は、全国の稲荷神社に御霊分けされ、今、出雲にやってきていた稲荷神たちだ。




「……おいナオト、なんだありゃあ」


 近くでゴールを守ろうとしていた一ノ瀬が、呆然と訊いてきた。


 一ノ瀬もその顔は知っている。イナリだ。間違いない。しかし――


「俺もよくわかんねーっす……でも……」


 直兎は自分でも認識しなかったが――


「応援っすよ、イナリの」


 気づけば、笑っていた。


 審判が試合続行のホイッスルを吹く。


 蹴りあげられたボールが弧を描き、彼我の選手が密集するゴール前に迫る。


 直兎よりも身長が高く、直兎よりも跳躍力のある敵が、ヘディングでボールを押しこもうと、全力で跳びあがった。


 本来、ゴールネットは揺らされていた。


 しかし、さらにその跳躍の上を行った、直兎がシナリオを上書きする。


 限界はない。リミッターなど、もはや存在が消えていた。空中で寄りかかってくる巨躯を、それよりもわずかに小さな躰で押さえつけ、直兎はボールをヘッドでクリアする。


 ペナルティエリアを締めだされたボールが、芝の上をバウンドし、転がる。


 しかし、ボールへの嗅覚が鋭いのは、やはり相手だった。フォワードのひとりが狼のような俊敏さでスペースに駆けこみ、転がるボールをそのまま祝部高校のゴールに向かって弾きかえす。


 ボレーシュート。


 敵と味方の間隙をすり抜けて、ゴール右隅に、ボールが突きささろうと迫った。


「――死ねええええええぇぇぇええええッッっ!」


 一体になにに対する憎しみなのか。


 叫んだのは、一ノ瀬。


 そして、ゴールに襲いかかるボールに、身を投げだす。


 ずばん、と音がして、一ノ瀬の躰はのけぞり、ボールは宙空にはじけ飛んだ。


 顔面によるブロック。知る人ぞ知る奥義。


 こぼれたボールが収まったのは、キャプテンである高島の足元。


 なんの声出しもいらない。


 直兎は全力で走りだしていた。


 疾い。直兎は高島を追いぬき、ハーフラインを超え、そして、はるか遠く、ペナルティエリアに迫った。


 あえてスピードを落として、オフサイドを回避したところで、高島からのパスが直兎の足に収まる。


 ペナルティエリア内でシュートのモーションに入った瞬間だった。


 直兎の躰が――走ってきたスピードそのままに、前に放りだされる。


 最終ラインにいた相手ディフェンダーの、意地の守備だった。


 ホイッスルが響き、ペナルティキックが宣言される。




◇ ◇ ◇




 ミッドフィルダーとフォワードが、ペナルティエリアの前で意思統一を図る。


「ナオト。おまえが蹴るんだ」


 滝のように汗を滴らせ、肩で息をする高島が、直兎の瞳を視線で貫き、告げた。


「……えっ? いや、俺は――」


 三年前の記憶がよみがえる。


 勝利をもぎとれるかどうかのラストチャンスで。でしゃばって。失敗して。


 先輩たちの、引退試合を創ってしまったこと。


「今日の運動量はやばいっす。脚にもメチャクチャきてます。マトモに蹴れないっす」


 直兎は冷静だった。誰が適任かは未整理だ。しかし、自分ではない確信がある。


 喉も肺も痛い。酸欠なのか、めまいもする。今すぐにでも、芝に倒れこみたい。


「――はっはっはっ! ナオトよー、変わったな?」


 体力の限界を超えている一ノ瀬は苦しげに、しかし笑い声を上げた。


「もういいぜ、ナオト? そろそろ本性出せよ、なあ?」


 一ノ瀬は疲労と笑いで、呼吸困難に陥っている。


 それまで真面目な顔をしていた高島が、なぜか吹きだした。


「ぶはっ、はははっ――!」


「なっ、なんなんすか、一ノ瀬先輩もキャプテンも?」


「いや……は、はははっ……ナオト、頑張ったよなあ」


 高島が腹を抱えている。


 見回せば、そこに集まっていたメンバー全員が笑いだしていた。


「なあみんな。ナオトがいいよな?」


 みんながうなずく。


「ちょっ、ちょっと待ってくださいよっ? 俺、もう体力残ってないんすよ? それにPKの巧さでいったら一ノ瀬先輩の方が――」


「蹴りたいんだろ、ナオト」


 一ノ瀬が声を絞りだした。


「……え?」


「ナオトはな、点取り屋なんだ。生粋の。チーム全体のことを考えるのと、遠慮するのとは違うぞ?」


 高島が言いきかせるように言葉を紡いだ。


「いや、俺は遠慮なんかしてっ――」


「じゃあ理屈で言うぞ。PK成功率、ナオトは九十三パーセント。一ノ瀬は八十九パーセント。で、俺は公式戦でのPK経験はほぼゼロ。データ集計もやってるからな?」


「キャプテン、確率の問題じゃ……」


「確かにこの際、確率は些細な要素でしかないな。で、確率を無視しても、だな」


 高島がメンバーを見回す。あらためて、メンバーは視線に対してうなずきを返した。


「PKを蹴ることができるメンバーの総意は、ナオト、おまえに蹴らせたいってことなんだよ」


 直兎は、胸を締めつけられるような思いをこらえた。


「でも、外すかもしんないっすよ……? 俺のせいで、先輩の、この先を、止めちまうかもしんないんすよ……? 残り時間とスタミナ的に、これが……」


「はははっ! ナオト、キャラ変わりすぎ! おまえが気にしてる三年前とは状況が違うって。チームメイトのナオトに対する信頼は厚いし」


 一ノ瀬がまた笑う。


「それによー、俺の脚はもうこの通りなんだよ――!」


 一ノ瀬が言って、そのまま芝生に転がる。脚を押さえて、苦悶の表情を浮かべた。


「さっきから、攣ってるんだよ! 言わせんな恥ずかしい!」


「と、いうわけだよナオト。チームの全員が思う、ベストな選択は、おまえが蹴ること。それに――」


 高島が一呼吸置いて、続けた。


「もうナオトは、背負う覚悟はできてるんだろう? 堂々と背負えよ、一年坊」


 高島や一ノ瀬たちの思いは理解した。


(みんなにとってのベストな選択は、俺が蹴ること。俺は決めなきゃいけねえ。で、もし外したとしても、みんなの悔しさを背負っていかなきゃいけねえ、ってことだ。キャプテンも一ノ瀬先輩も、少なくとも俺が背負えるって、信じてくれてる)


 そして何より。


 ――ゴールを決めたい。自分の力で勝利をもぎ取りたい。


 ストライカーの本能だ。


「オッケーっす。全力でいくっす」


 直兎の決意を見届けて、メンバーがペナルティエリア周辺に散っていく。去り際、背中を叩かれまくって、ジンジンとした痛みが残った。


 気合が入る。


「……ぅしっ」


 所定の位置に固定されたボール。距離を取る。


 相手のキーパーは、県内最強と言われる選手。狙うのは、ゴールの右上隅だ。


 視線は動かさずに、インパクトの瞬間の足の角度、重心をイメージする。




『――ナオトふぁいと~!』




「……あの、馬鹿」


 イナリたちの絶叫にイメージを狂わされて、直兎がため息をついた。


 深呼吸して、イメージを再度練りあげる。


 右上隅は、枠を外す確率が高い。しかし、鋭く決まれば、絶対に捕れない。


 何度も練習した。体に刻みこんだ。


 短く息を吐いて、地面を蹴った。


 軸をぶらさないように、体を前に運ぶ。


 重心。振りぬく左脚。インパクトの角度。


 理想的だ。


 ネットに突きささったボールは、下馬評をくつがえす決勝点になった。

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