直兎の覚悟
高円宮杯U―15の準決勝は、別段、中一の直兎にとっては思いいれのない大会だった。中学校に進学し、春から所属しているジュニアユースで、年に何度も行われる大会のひとつでしかない。
中三の先輩たちは、今日が最後の試合になるかもしれない。
(だから、それがなんだっつーの)
負ければ終わる。逆に言えば、勝てばいいだけの話だ。
諸先輩にとって、今日の試合が中学最後になるのならば、それはアスリートとしての才覚が足りなかったのであり、努力が足りなかったから。それだけにすぎない。
しかし、ベンチに座る直兎はいらついていた。
後半が始まって十分が過ぎている。スコアは三―〇。自分のチームが大差で負けている。それが気に食わない。
ベストではないメンバーで、格上の敵と戦っている。至極当然の試合運びだ。フィジカルもメンタルも相手が上。そして監督の采配も間違っている。勝てる要素などない。
(なんで、俺を試合に出さねえんだ?)
監督は、メンバーチェンジでは、ベンチにいる直兎の名をかたくなに呼ばない。
理由は直兎にもわかっていた。個人技でいえば、少なくともこのチームに自分に敵う者はいない。はっきりしていることは、保護者にもてはやされるチームプレーに、直兎は一切の関心がないということ。
いや、関心がないというより、わずらわしさしか感じていない。
他のメンバーの存在は、直兎にとっては邪魔でしかない。センターラインの前後でボールさえもらえれば、それをゴール前まで運ぶことは朝飯前だし、ゴール前のディフェンダーやキーパーの思惑を覆してゴールネットを揺らすことは造作もない。
チームプレーとは、才能や努力が足りないチームメイトに対して、くだらない花を持たせるための仕掛けだ、としか直兎は思わない。才能などそこかしこに転がっているものではないし、努力と認められる努力をしている者など、それこそ直兎の周囲では見聞きしたことがない。
ただの茶番だ。
諦め。退屈。寂寥。
直兎の心に横たわるのは、冷たい感情ばかりだ。
しかし。
心の底から熱くなれる勝負。
立ちふさがる大きな壁を崩すこと。
それに対する渇望は、打ちけすことができないのだ。
「――おい、因幡」
監督が口を開いた。
「おまえ、次、交代な。はやくアップしろよ」
「……うす」
後半二十分過ぎ。三―〇のまま。分が悪すぎる。しかし敗戦処理をするつもりはない。
今更かよ、という言葉を、今日は出番なしと踏んでいた直兎は飲みこんだ。
フィールド側に出て、軽くアップをする。
監督が主審に歩みより、なにかを告げた。
直後、スローインのタイミングで、直兎はフィールドに足を踏みいれる。入ったポジションは、ツートップの一方だ。相方は、坊主頭の三年生、一ノ瀬。
ナオトにとっても、一年間の集大成となる大会で、かつ、中学に進学し、ジュニアユースに参加してから、初の公式戦だ。
「っしゃ! いくぞ、ナオト!」
一ノ瀬が振りしぼった声に、直兎は軽いうなずきだけを返した。
背後、トップ下には、キャプテンの高島が立っている。
一ノ瀬と高島は、汗を滴らせて、フィールドに張りついていた。
ぞくり、とした。
一ノ瀬と高島の二人から感じるのは、疲労感ではない。
おそらくは、勝利への執念だった。勝ち負け、ではない。勝つ、という結果に一心不乱に向かう気迫だった。
ベンチから眺めるフィールドとの、光景の違い。
それは、生の人間の魂の近さだった。
「ぼーっとしてんじゃないぞナオト! 時間は止まっちゃくれないからな!」
高島が声を張りあげる。
(なんだ……この、感覚……)
直兎が雰囲気に呑まれている間に試合は進み、自チームのゴール前から、順調にパスが繋がれてくる。直兎が忌みきらっていたチームワークによって、得点のためのボールが近づいてくる。
直兎は走る。
なぜか、足がうまく地面を噛まない。自分の足が、自分のものではないような感じがする。
しかし、それでも直兎は速い。
「行けナオトっ!」
オフサイドギリギリのラインで、高島から放たれるパス。直兎はつんのめりながらも、体を前に向けたままボールを足元で捕らえ、キーパーと一対一になった。
蹴りだす方向、タイミングのフェイントは、もはや習性として体が動いた。
完全に虚を突かれたキーパーの反対側、ゴールネットの左隅に、直兎のシュートが突きささる。
初得点に、チームが過熱する。
一ノ瀬と高島が駆けより、抱擁というよりは体当たりを、中一にしてはいやに大きな体に叩きこんだ。
「よっしゃ、まだまだ行くぞナオト!」
「…………」
直兎の背中を叩く一ノ瀬の言葉は、直兎には届かなかった。
どくん、と鼓動が直兎の体を揺さぶる。
歓声も、メンバーの声も、耳に膜が張ったように遠く感じる。
体は浮遊感に包まれていて、足を踏みしめる感覚がない。
(得点した? 誰が? どうやって?)
すべての感覚がまとまらなくて、体も頭も、方向感覚を失っていた。
敵のボールでゲームが再開する。
味方が執念でボールを奪いとる。
前線に運ぶ。
一ノ瀬にボールが渡るが、二人のマークに阻まれ、一ノ瀬は高島にボールを戻す。
高島から直兎にボールが蹴りだされる。
直兎がかろうじてトラップし、前を向くが、そこには最終ラインのディフェンダーがいた。
何度も練習した。イメージトレーニングした。
コントロールを失っている直兎の体は、しかし、個人で磨きあげたベストな動きを見せる。
それでも、優勝候補チームは、多少、想定の上を行く。シミュレーションではあり得ない食らいつきをして、直兎が抜きさることを簡単には許さない。
「ナオト!」
ディフェンダーを振りきって飛びだした一ノ瀬の声は、直兎には届かなかった。
(俺は負けねえ……! プレッシャーなんか、逆に食いつぶしてやる)
直兎にとって、試合の目的はチームの勝利ではなく、自分の存在の肯定にあった。
足のインサイド、アウトサイド。動きの緩急。視線。
イメージトレーニングで鍛えた、考えうるすべてのバリエーションを試す。敵の動きの癖を一瞬で読みとり、それを動作に反映する。
(どんな強敵であろうと、俺は負けねえ……!)
強引な突破のための加速を装って、そこから、一気にスピードをゼロにする。
直兎に詰めよっていたディフェンダー二人は、その動きに翻弄された。
重心を右にわずかにずらし、一気に直兎が抜きさる。もはや無意識の動作。通常は判断を必要とする時間を飛ばして、本能的に動くため、ディフェンダーのブロックは追いつかない。
ディフェンダーを抜きさった後、ゴールを見据えると、キーパーの前に、もう一人、最後の砦となるディフェンダーが控えていた。十数メートル先。ペナルティエリアも近い。
ミドルシュートの得点圏内だ。
「ナオト!」
最終ラインの左で、一ノ瀬がフリーになっている。眼には映っていたが、自らの得点に偏執する直兎にとって、パスをする選択肢はなかった。そのまま、強靭な左脚を振りぬく。
回転するボールは、ディフェンダーの体側を振りきり、ゴールへ、横倒しの弓なりになって牙をむく。中学生としてはありえない変化。ファンタジスタと呼ぶべき弾道。
しかし、ボールはゴールネットを揺らすことなく、真っ白のポストを轟音をもって強振させ、左サイドへとはじけ飛んだ。
「――ぅぉおらああああ!」
飛びこんでいた一ノ瀬。
坊主頭がこぼれ球を捕らえ、直兎のシュートを捕る動作で体勢を崩していたキーパーの頭上を超える。
ゴールネットが揺れる。
怒涛の追いあげ。二点目だ。後半、残り十分のタイミングで、一点差まで追いついた。
「ナオト、ナイス! 一ノ瀬もナイスフォロー!」
キャプテンの高島が声を上げ、チームメイトが、直兎と一ノ瀬に殺到する。
(……っ?)
ミドルシュートを決めそこねた落胆と同時に、直兎の両脚に違和感が生じる。
重いのだ。脚が。筋肉が張っている感覚もある。
たかが二十分、フィールドを駆けただけで、体が悲鳴を上げている。
(ありえねえ……小学んときはずっとフル出場だったし、トレーニングだって、誰よりも量をこなしてる)
なにかの間違いだ。直兎は思った。
たかが二十分で、なにが自分を疲弊させたのか。
敵チームのボールで、再度キックオフ。強豪とはいえ、さすがに相手チームの疲労の色がうかがえる。この時間帯になると、テクニックよりも勝ちへの執念のほうがウェイトを上げてくる。
一進一退の攻防。もはや、それは泥仕合。
ハーフラインを挟んだ、パス回しをしながらの突破口探り。互いのチームでインターセプトを繰りかえしながら、残り時間が無慈悲に削られていく。
均衡を破ったのは、高島だった。ハーフライン上でのインターセプト。攻撃の起点を勝ちとり、完全に力を失った脚を気力だけで回転させ、前線へと運ぶ。機能を失いかけたディフェンダーを二人抜きさり、ペナルティエリアに迫る、フリーの一ノ瀬にパスを蹴りだす。
一ノ瀬は攣りそうな脚をかなぐり捨てて、トップスピードのまま高島のパスをドリブルに巻きこむ。飛びこんだペナルティエリア内、かすむ視界でキーパーをとらえ、右脚を振りぬこうとした。
――そのとき。
相手ディフェンダーのスライディングが一ノ瀬をとらえる。一ノ瀬は転倒し、ボールは無残に転がった。
響くホイッスル。
ロスタイム直前で、提示されるイエローカード。
千載一遇。ペナルティキックのチャンスだ。スコアは現状三―二。決めれば三―三。延長線への突入が狙える。
しかし、チームメイトの誰もが体力の限界。攣りそうな脚を押さえつけるメンバーが多数。未だ気力、体力が充実している相手キーパーを前に、決めきれる自信を持った者がいない。
「――俺、やりますよ」
肩で息をする直兎が淡々と提案した。
「ナオト。途中出場からの活躍は認めるが、おまえはまだ経験不足だ」
高島が首を振る。
「こんなに疲れきってて、他の誰がまともに蹴れるんすか?」
「とにかく、おまえには任せられない」
「なんでっすか。単に決めればいいだけっしょ? 俺は決めますよ。みんながさっさと帰ってるとき、俺はまだPKの練習してたんで。練習量では誰にも負けないっすよ」
(たとえ後半のわずかな時間とはいえ、俺が関わった試合で負けは絶対ねえ……!)
直兎は引きさがらない。
「練習と本番では違うんだ……一ノ瀬、どうだ、おまえは行けそうにないか?」
「くくく……強がりを言わなくていいんであれば、厳しいな。脚に力が入らない。蹴っても、キーパーにコースを読まれてたら、パンチングどころかキャッチされるレベルだぜ。それに、読みを外すようなフェイントもちょっと自信ないな」
「……そうか」
高島は他のメンバーにも同様に確認する。しかし、自信を持って首を縦に振るメンバーは皆無だった。
なぜなら、このPKは、チームが勝利をもぎとるためのラストチャンスだからだ。
三年生にとっては、勝利しなければ、引退を意味する背水の陣。
その重さを知っているからこそ、疲弊している自分を、自信を持ってアピールできる人間はいない。
「……ナオト。おまえ、背負えるか?」
「……? プレッシャーっすか?」
「それ以上のものだ」
高島は一瞬下に眼を落とし、すぐに顔を上げる。
「チームメイトの覚悟を、だ」
高島の視線が、直兎を射抜く。
「覚悟? だから、そういうんじゃなくて、決めればいいだけでしょ?」
ため息をついたのは、高島ではなく一ノ瀬だった。
「高島キャプテン。ナオトに蹴らせよう」
「……一ノ瀬」
高島が見ると、そこには苦笑を浮かべる一ノ瀬がいた。
「……みんなも、それでいいのか?」
高島がチームメイトに確認する。動揺した素振りはあったが、皆、最終的には首を縦に振った。
「……わかった。ナオト、頼んだぞ」
直兎がうなずき、チームメイトがペナルティエリア周辺に散る。直兎は静寂の中、ボールを所定のポジションに置いた。
ボールと距離を取る。
腰を低くして両腕を広げるキーパーをにらみつけ、深呼吸すると、右脚で大地を蹴る。
フェイントをかけるつもりはなかった。たとえコースを読まれても、キーパーの手が伸びる前にネットを揺らしてしまえばいいだけのことだからだ。
狙うは、ゴール右隅ギリギリ。
左脚がボールを蹴る直前、重心を傾けた右脚に、ずん、と重みがあった。
『チームメイトの覚悟を、だ』
ボールへのインパクトが弱まり、コースも甘くなったのは、疲労なのか、プレッシャーなのか。それとも両方なのか。
キーパーの両手に収まるボールを見て、放心した直兎には判断がつかなかった。
ゲームはすぐに再開された。
ロスタイムは、直兎の記憶にはない。




