金髪イナリ
緊急事態とはいえ、日課は日課だ。すずめは、境内も拝殿もいつものように掃除しなければならない。
連日の疲れがピークに達しているのか、立っているのもつらい体調だが、体にムチを打って外に出た。隣の敷地、杵築稲荷の境内に足を踏みいれる。
すぐに違和感に気づいた。
常人には視えないが、境内を囲むように、光の膜がうっすらと張りめぐらされていたのだ。
結界。
ある程度以上の能力を持つ悪霊や術者の類にはまったく効果がないが、その辺のはぐれ神であれば十分に跳ねのけることができるレベルの結界だ。
(……イナリの仕業?)
アンポンタンのイナリではあるが、長い歴史を持ち、数え切れない人々の信仰を集めてきたその力は折り紙つきだ。
もちろん、それでもすずめは負けるつもりはないが。
授与所の鍵を開けて、入口付近に立てかけていた箒を持ち、また外に出る。
まずは鳥居に近い石畳から、と思って足元を見たら、落ち葉が一枚も見当たらなかった。砂利もない。
そのまま境内を練りあるく。やはり落ち葉はない。
拝殿の中に入ったが、埃は落ちておらず、三日に一回しか掃除しない屋内の四角まで、掃除が行きとどいていた。
そして、神前には、神の食事である神饌が備えられている。
――まさか。
すずめは授与所に箒を立てかけて、家に戻った。三和土に足を踏みいれる。
家の奥から、ドタバタ、と音が聴こえて、静かになった。
廊下に上がり、突きあたりにある高杯の部屋のふすまを開いた。
高杯の部屋に入ったのは、いつぶりだろう。記憶にないほどだ。
罰当たりなことに、装束が何着も脱ぎ捨てられていて、ビールの空き缶、日本酒のワンカップの空き瓶などが散乱している。グシャグシャに丸められた紙くずもころころと転がっている。壁際のテーブルには、何冊かの本が平積みされていて、原稿用紙もあった。
目線を再び下に落とす。
「ぐ、ぐが~、ぐご~」
空の一升瓶を体の横に転がして、高杯が畳の上に横になっていた。
「……こいつ」
なんとなく、背中に蹴りを入れてみる。
「ぅごっ……ぐ、ぐが~、ぐご~」
かたくなに高杯はいびきをかいた。
すずめはいつものジト目だったが、押し入れからタオルケットを取りだし、その体にかけてやった。
ふすまを閉じて、居間に向かう。
「――ぬしら、本当に難儀な家族じゃのう」
ふすまを開けると、ちゃぶ台についていたのは、金髪のイナリだった。
◇ ◇ ◇
授与所の鍵をかけ、今日は休業することにした。
「いやはや、なんとも緊急事態で」
金髪のイナリが、呑気にお茶をすすっている。
いつの間に、紫から金に変えたの?
そんな疑問は、すずめの中にはなかった。
「分神が、なんの用事?」
「不遜な態度じゃのう。ぬしの母君のちどりとは大きな違いじゃ。背格好は瓜二つなのにの」
「こっちは疲れてるの。杵築イナリがなんの用で急に現れたのか訊きたいだけだよ」
「杵築イナリ、か。居候しているイナリと呼び分けたいのはわかるが、なんとも癪にさわる呼び方じゃ。色恋沙汰にうつつを抜かしとる阿呆と同じ呼び方をされるよりは万倍マシじゃが」
すずめの眼の前にいるのは、杵築稲荷神社が建てられた三百年ほど前に、高矢稲荷神社にいたイナリから御霊分けされた、いわゆるイナリのコピーだ。容姿や口調が異なるのは、三百年という歴史の中で、杵築稲荷神社にいるコピーのイナリが、オリジナリティを出してきたからだろう。
「ワシはここの祭神じゃぞ。マズい飯に文句一つ言わず、ここに通う氏子の願い事を粉骨砕身で聞きいれている身。もう少し丁重に扱うべきじゃと思うが」
「あ、はい、そっすね。で、なんの用事?」
「……一貫しとるのう、ぬしは」
杵築イナリがため息をついた。
「特に用などないわ」
「はいはいじゃあさっさと本殿の依代に戻ってください」
「つれないのう」
「ボクは疲れてるの。おばあちゃんの井戸端会議に付きあう余裕なんてないんだから。もう寝るっ」
「まあまあ話を聞けすずめよ。用がないというのは嘘じゃ。どうしてこうも最近の若いもんは自分ひとりでなんでもかんでも背負おうとするかね。それで潰れても誰も得はせんのじゃぞ」
「余計なお世話だよ。そんなの今も昔も変わんないでしょ」
すずめが舌打ちする。
「そんなことはないぞ。少なくともワシがここの祭神として祀られた頃は、ひとりの苦労はみんなで背負って解決したもんじゃ。説教臭くなるつもりはないが、言いたいことは、もっと周りを頼れということ」
「嫌だね。アカリが倒れた今、ボクに頼れる人なんていないもん」
「まったく、頭の固い子じゃの」
杵築イナリが湯呑みを置いて、額に手を当てた。
「すずめが相手にしようとしている者は、一筋縄ではいかんぞ」
「……相手が何者か知ってるの?」
「ああ。知らん」
「相変わらず使えないなこの系統の神は」
「そういう文句はせめて相手に聴こえないように言うもんじゃ……とにかく、アカリの体に残された匂いをかぐ限り、油断はこれっぽっちもできん相手じゃろうて」
「そんなの知ってるよ。わざわざそんなことを伝えに出てきたの?」
すずめはため息をついた。
「どう思われても瑣末なことよ。さて、すずめ、ちょっとこっちに来い」
「え、なんで? やだよ」
「いいから、はようこい」
すずめがしぶしぶ、ちゃぶ台の反対側に座っていた杵築イナリの横に立つ。
「手を出すんじゃ」
「え、嫌だっ、降りる気でしょ?」
「そんな高矢のイナリのような間抜けな真似はせんわい。いいからはよう手え出せ」
「……本当に降りない?」
「本当じゃ」
すずめがおそるおそる手を出すと、杵築イナリがそれをつかむ。
ふわり、と、握られた手に光がにじみ、すずめの手に温かさが伝わった。すずめの体の中を、その温度がすっと巡っていく。
「終わりじゃ」
言って、杵築イナリが手を放す。
「……なにをしたの?」
「ワシの神力を分けた。一昨日の、木佐とやらとの闘いで、ずいぶん疲弊しておったじゃろう。これで少しはマシになったはずじゃ」
言われてみれば、立っているのがやっとだった体に、活力が戻っている気もする。ふわふわ浮いているような感じがした足元も、畳の感触がしっかりと感じられた。
「オラの気を分けた、的な感じ?」
「なにを言ってるのかわからんが、とりあえずある程度は闘えるじゃろ。それで、すずめはここに籠城するつもりか?」
「もちろん。アカリがここに寝てるんだから、ほったらかしにして離れるなんてできるはずないもの。これまでの敵の出方を考えれば、ボクから出向かなくても、能力的に弱ってる今のボクを向こうから襲ってくるに決まってるし。アカリが目を覚ます前にね」
杵築イナリはうなずいた。
「まあ、そうなるじゃろうなあ。本来ワシがその黒幕とやらを撃退できればいいんじゃが、どうにも太刀打ちできない予感がしての。すずめの手で相手をするのがいいじゃろう。神を超える、玉依の血筋が必要じゃな」
「言われるまでもないね」
「まずは、眠って力を整えるんじゃ。ちょっとした結界は張ってあるようじゃし、仮に突破するような小虫の一匹や二匹がいたとしても、ワシが適当にいなしておくわ」
「わかったよ」
すずめが頬をかいて、二部屋隣の寝室に移動した。
『――この神社がなくなって、ほかに合祀されるなんて御免じゃからな。頼むぞ、玉依の小倅』
アカリが寝ている横に布団を敷いていると、ふすまの向こうで杵築イナリが声を上げた。
すずめは苦笑した。




