はじまりは凶兆
一―C。
プラスチックのプレートが掲げられた廊下側から、数名の男子生徒が教室の窓にカエルのように張りついて、熱い視線をそそいでいる。ターゲットは教室中央、優雅に机に向かう少女だ。
色白の透きとおった肌。腰元まである黒髪は首の後ろでまとめられていて、一糸乱れず重力に身をまかせている。眠たそうな瞳は、神秘的な薄茶色。窓の向こう、グラウンドの風景を映していた。
周囲の女子生徒にくらべてひときわ小柄に見えるのは、椅子に座っているからではない。事実、その背丈は平均的な女子よりも頭一つ分は小さかった。カーディガンもダボダボで、袖を引きずっている。
玉依すずめは、男子生徒の熱烈な視線に気づいていないふりをしている。さらにいうと、実は、そのうちの一人が、すずめが所属するご当地アイドルユニット『いずもいずむ』のフォトアルバムを携えていることも把握していた。
「くっくっくっ……全国区も目の前か」
すずめの邪悪な笑みには、隣に座っておしゃべりしている女子生徒たちも気づかない。
かわいらしいことは確かだが、今日は一点だけ、たまに見せる残念さがあった。
「――うわっ、すごいクマ! 美少女っぷりが台なしじゃないっ」
いつの間に登校したのか、ショートボブの女の子――大汝アカリが、心配そうにのぞきこんでいた。毛質がやわらかいからか、栗色の髪の毛がふわりと空気を含んだ。気が強そうな、深い碧のツリ目に、すずめの瞳が映りこむ。
すずめの右眉がピクリ、と動く。最終的にはジト目が深まって、アカリを睨みかえした。
「聞きずてならないな……ボクに対するイヤミだよね、それ?」
すずめが反応したのは、ほかならぬ美少女という単語だ。
「えっ……そ、そんなことないってば。疲れてるね、すずめ。ちゃんと寝てるの? 忙しいのはわかるけど、マネジメントに影響するから、睡眠時間だけは確保してよっ?」
他意のなかったアカリはタジタジになって、半歩後退しながらも、制服のポケットからスマホを取りだす。しゅぱぱっ、とロックを外して、なにかのアプリを起動した。
「えっと、昨日のすずめは……神社関連の事務が二十時で終わって、夕食、お風呂、美容タイムで二十二時。そこから新譜のサインと、学校の宿題は少なめで一時間くらいだから、二十四時には眠れてるはずだよねっ? 今朝の起床が四時だから、少なくとも四時間の睡眠時間はあるでしょぉ?」
「気づいたら朝になってた」
すずめが机に突っぷして声をもらす。
「えー、なんでそんなことに……」
「激しすぎて、寝かせてくれなかったんだ」
「ふ、ふふふ……ねえそれ誤解していい? アタシ誤解するよっ?」
「このクソエロマネージャーめ」
アカリは顔をニヤつかせながらも、経緯を察した。
今日は旧暦でいうところの神無月――十一月七日、月曜日。あさって九日には、この出雲県生馬市に、日本中の神さまが集結する。故に、出雲県では神無月を神在月とも表現する。
「困ったなぁ……この時期多いね、やっぱり」
アカリが言うと、すずめがむくりと体を起こした。
「ただでさえ忙しいのに勘弁してほしいよ。フライングでくる神さま多すぎ。それは勝手だけど、ボクに降りてくるのはやめてよね。お金になんないし」
降りてくる、というのは、すずめに神や死者などの魂が憑依するということだ。
「アタシにはわからない感覚だもんなあっ」
アカリの口から乾いた笑いがもれる。
すずめもアカリも、社家の生まれだ。いわゆる巫女である。
ただし、正確にいうと、アカリは巫女だが、すずめは巫女ではない。
それを知っているのは、すずめとアカリの家族だけだ。
「今日はスケジュール軽めにして休もっか?」
アカリが言って、もう一度カレンダーアプリに目を通す。
「十六時半帰宅、ご祈願二件、授与所の番、清掃、夕拝で十九時か。ダンスの自主練、夕食などなどで……就寝二十五時。うーん、睡眠三時間はまずそうだなあっ……」
アカリの逡巡に、すずめはかぶりをふった。
「無理無理。というか昼寝しても無理矢理降りてこられるし、寝てられない」
「えーっと……掃除とかはおじさんに頼んだらっ?」
すずめの眉根が寄る。
「ゴクツブシさんになんて任せられないよ。アイツ手抜くから」
「はぁ……授与所の番はアタシやろっか? そもそもご祈願と並行するのは無理だよね。今日は歯医者に行くから、部活休むし。終わったら寄るよ」
一瞬、目を潤ませたすずめだったが、はっとして、いやらしい笑みに切りかえた。
「くくく……なかなか殊勝な心がけだね。白衣も緋袴も、クリーニングから戻ってきたのがある。そのままの足で来てもらおうか」
言って、すずめが視線を下に移す。
「うん、サイズは変わってないみたいだね」
凝視するのは、アカリの胸だ。
「……ええ、残念ながらねっ。それよりちょっとは感謝しようよっ?」
意地の悪い笑みを前に、アカリのこめかみには青筋が浮いていた。
と、すずめの背後からぶぅうん、と低い音が聞こえた。
「……ん?」
椅子にかけたリュックをすずめが確認すると、キーホルダーとしてぶら下がっていた小さな万華鏡が発光している。
万華鏡の側面に刻まれているのは、発光する円。その中に二房の稲穂が対に描かれている。
紋章だ。呼吸をするかのように、光を強めたり弱めたりを繰りかえしている。
「朱……」
のぞき込んでいたアカリが色をつぶやいて、額に手を当てた。
「こんなときに凶兆とか」
すずめがため息をついて、チェーンから万華鏡を外す。そのまま筒の中をのぞいた。
「視える?」
「……いや」
すずめはかぶりを振り、万華鏡をアカリに手渡す。
「うーん、なんにも視えないねっ」
アカリものぞいてみたが、レンズに映るのは桜の花びらのような、ほんのり赤い幾何学模様だ。
「本格的に視ておく?」
アカリが提案し、すずめはうなずく。
すずめは深呼吸して、わずかに頭を垂れると、瞳を閉じ、両手を合わせた。
「――掛介麻久母畏伎 伊邪那岐大神 筑紫乃日向乃 橘小戸乃阿波岐原爾 御禊祓閉給比志時爾 |生里坐世留祓戸乃大神等 諸乃禍事罪穢 有良牟乎婆 祓閉給比清米給閉登 白須事乎聞食世登 恐美恐美母白須――」
小さく低い声で、すずめが唱える。アカリの体の内側からほのかな熱がわき出て、アカリは慌てて手のひらを差しだした。そこに、ホログラフィックな映像が浮かびあがる。
「……ナオト?」
アカリがつぶやく。映しだされたのは、男の子の横顔だった。
険しい表情で遠くを見ている。歯がみしているかのようだ。
「これって、外……グラウンドかな」
すずめが推察した。映像では、男子がひたすらフィールドを眺めているだけだ。
(これのどこが凶兆? ただグラウンドに立ってるだけじゃん)
理解できずにいると、映像のピントがボケ始めた。マーブル模様に色がごちゃまぜになって、やがてホワイトノイズに切りかわる。
「……? 視きれないなんて、珍しいな」
すずめが首をかしげた。
「――よう!」
鼓膜を強振させられた、すずめとアカリが顔をしかめる。浮かんでいた三次元的ホワイトノイズは霧散した。
二人の横には、今まで映っていた長身の男子生徒――因幡直兎が立っていた。
心持ち茶色がかった短髪はボサボサで、くっきりと寝癖がついている。面長で彫りの深い顔立ち。切れ長の眼はドライアイとは無縁だ。
サッカー部一の巨躯を支えて、いつもは重厚な音圧で地を踏みしめる左脚だが、今は松葉杖が相棒になっている。肩にバッグをぶら下げているのは、登校してここに直行してきたからだろう。
松葉杖の存在に気づいて、すずめとアカリが表情をなくした。
「それ、大丈夫なの……? 試合には勝ったって聞いてたけど……確か今度の日曜、決勝だよねっ?」
アカリがごくり、と喉を鳴らした。
「はははっ、やっちまったよ! せっかくの決勝出られなくなった! ちょっとひねっただけなんだけどな」
直兎の笑いが教室に響いた。
「お……おお、なんと無様な。本末転倒じゃないか」
すずめが思いだしたように苦笑を浮かべ、つぶやいた。
「それな! マジ勘弁!」
直兎は変わらず笑顔のままだ。
「さ、サッカー馬鹿のナオトからサッカーをとったら、その辺のモブキャラ」
「あはは、ひでー言いぐさだなオイ!」
「……モブって知ってる?」
「知ってるから、その辺にしとこうぜ!」
(万華鏡の朱は、ナオトの凶兆……?)
すずめはため息をついて、続けた。
「……それで、なにか用があってきたわけ?」
直兎は、すずめとアカリと同じ普通科ではなく、体育科に所属しているから、クラスが違う。
「ああ、これ、返しにきたんだよ」
直兎が言って、アカリに書店のビニール袋を差しだす。
アカリが受けとって中身を取りだすと、ゲームソフトだった。
「サンキュー、めちゃくちゃ面白かった! ほかにも俺がハマりそうなのあったら、貸して」
「お、おっけー。適当に見つくろってくるよ」
「よろしく……って、すずめ、眼の下すげーことになってんぞ?」
直兎が眉をひそめ、すずめは邪悪な笑みを浮かべた。
「選ばれたニンゲンはつねに多忙なのさ」
「いやおまえ、それにしたってひでーぞ。メイクで隠すとかすりゃいいのに」
「断る。メイクはボクの肌に合わない……というかナオト顔近すぎ。離れろファック」
「あ、ああ、すまん」
「ボクは目先の可愛さよりも未来の可愛さを優先するんだよ!」
「まあ、そりゃおまえの自由だけどよ……とりあえず俺の用件は終わったから、クラス行くわ。じゃあな」
直兎はきびすを返した。松葉杖を窮屈そうに使って、廊下に向かう。
入り口をまたいだとき、教室に駆けこもうとする女子と、体側が衝突した。
ぶつかった女子生徒は驚いてつっ立っているだけで、床に身を放りだしたのは直兎だ。
「……くそっ」
矛先がはっきりしない、怒りを口にしながら、直兎が体を起こそうとする。開けっぱなしだったバッグから、ジャージや教科書、筆記用具がなだれのように廊下をすべった。
「ちょっ、大丈夫?」
アカリが言い、駆けよる。
すずめは眉根を寄せ、ゆっくりではあるが、直兎のもとに歩みよった。
直兎が体勢を立てなおそうとしている間、わたわたと平謝りする女子を尻目に、すずめとアカリで散らばった私物を拾いあげていく。
すずめは、その中に、見おぼえのある雑誌を見つけた。厚さは一センチほど。表紙には、五人の女の子が並んで写っている。おそろいで身につけているのは、白を基調としたジャケットとミニスカートで、装飾も華やかな衣装だ。左から二番目に、すずめの弾けるような営業スマイルがあった。
それは二ヶ月前に発売されたアイドル情報のエンタメ全国誌。ローカルアイドルとしては快挙の、『いずもいずむ』が表紙を飾った号だ。
「ん……?」
すずめの思考が発散する。
(どうして、ナオトがこれを持ってる? アイドルなんて興味ないって言ってたのに)
「あ……サンキュ」
小声で言って、直兎が雑誌を受けとる。その顔にはほのかな苦笑がたたえられていた。
直兎はバランスをとりながら立ちあがり、背中を向けたまま軽く手をあげて去っていった。
「やっぱ、元気ないね」
廊下の向こうに消える直兎の背中を見とどけてから、アカリがつぶやいた。
「……この大会に全情熱をそそいでたから、ショックが大きいんだろうな」
「アタシたちの能力で、なんとかならない?」
アカリがおずおずと訊く。
すずめはしばし押しだまり、うーん、と首をひねってから、言った。
「もちろんできるけど。でもそれって、違うと思うよ……でも、予知しきれないのは、ちょっと気になるな」