部屋のなか
「ああ、けど。そろそろ嵐の季節がくるな」
崩れた入道雲に視線を流してつぶやくと、あたりまえのように向かいの視線も追いかけてくる。
俺は、瞬のうでにぶら下がるマリアを見たその夜、一本の電話をかけた。
新婚のローカル仲間に、地元の波の様子をたずねて。
たまには顔を出せと叱られながら、いまは南のポイントにハマってることを、それとなく話した。
最後に、このあいだマリアを見かけたこと、しばらく見ない間に、見違えるほどおとなっぽくなっていて驚いたと、つけ加えた。
話は、夫から妻へ。
妻から、その友達へときれいに伝ったらしい。
下着のようなキャミソールすがたで海岸にあらわれたマリアは、親しげに俺のなまえを呼んだ。
むかしなら、絶対に返事なんかしないし、差し入れのドリンクも受け取らなかった。
それが分かっているからだろう。
マリアは、おもしろいくらいに大胆だった。
ほそいヒールで背伸びをすると、洋らんのようなあまい花の香りがまとわりつく。
丁寧にメイクした挑発的な目元に、あの健全そうな仮面のあとは見当たらなくて。
そこにいるのは、紛れもない遊び女だった。
ひとを騙すことも、裏切ることも平気な、欲望のかたまり。
俺と湿ったシーツのあいだで、くすぐったそうに笑いながら俺を褒めちぎったおんなは、さらりと禁句を吐いた。
カレシなんかいないよー。
そんなのは、当然のマナーかもしれない。
それでも。
それでも俺には、勝手なつごうでなんの躊躇いもなく瞬の存在を否定したマリアが、許せなかった。
オスの価値と、にんげんの価値はイコールなんかじゃない。
あんなことがうまく出来たって、俺は下衆だし、あのおんなだってそうだ。
もう一本、煙草をとりだすのを、瞬が不満そうにみている。
窓枠に置いた箱が、床とぶつかってコン、とおとを立てた。
「……そういや。イーグルスのベスト、おまえに貸してたっけ」
「えっ」
眉間にあった縦じわが、パッとはじける。
「あった気がする。うわ、ごめん。ちょっと待って!」
瞬を窓ぎわから追い払うことばに、悩むことなんかない。
部屋のなかに視線をうつすと、感じた気配の正体と目があった。
「電話?」
うすい肩で布団を持ちあげた女に、煙草とライターを持った両手をみせる。
マリアは、ふしぎそうな顔をしてから。
壁にかけてある俺のシャツを羽織って、ベッドを降りてきた。
「なにしてるの」
袷のあいだに、ふかい谷間とちいさなくぼみが覗く。
こたえる代わりに、煙を吐きだした。
それを見て、マリアが窓の下からしろい紙箱を拾いあげる。
ライターを渡してやろうとすると、悪戯っぽくわらって、マリアはくわえた煙草を俺の火に押しつけてきた。
「借りっぱなしでごめんなァ、竜哉」
声を追いかけるように、瞬が戻ってくる。
振りかえると、こちらに向かっていた空色のCDケースが、突然きえた。
ひどく遠くで、なにかが砕けたおとがする。
「シュ、ン」
マリアの手が、俺のひざから逃げた。
口紅のはげたくちびるから落ちた煙草を、ジーンズのすそ越しに踏みつぶす。
用意しておいたセリフは、なにも出てこなかった。
だから、無言のふたりの間で、俺はしばらく、きらめく海を眺めていただけだ。
明日はひさしぶりにあそこで波に乗ろうと、そんなことをおもいながら。




