海
「おまえ、近ごろ、バイクにも乗ってないんじゃねーのか」
「あ、母さんから聞いた。竜哉が、ときどきエンジンかけてくれてるって」
「機械モノは構ってやらねーと、すぐ機嫌損ねるからな。いざ乗ろうってときに、エンジンかからないと困るだろ」
「うん。サンキュー、竜哉」
瞬にしては、気のない笑顔だな、とおもう。
「どうかしたのか」
困ったように笑いながら、瞬はサッシの埃をふぅ、と吹いた。
「もしかしたら、あのバイク、売るかも」
「はァ?」
「彼女がさ。バイクは危ないし、心配だから車にしてって」
すわりかけた視線を、とっさに逸らす。
握りこんだ吸殻は、手のひらにほのかな熱を刺した。
二年前、ほんとうに心配していたひとを、瞬は無茶なんかしないと説得したのは俺だ。
マリアが、その十分の一もこころを動かしてそんなセリフを吐いたとは、俺には到底おもえなかった。
バイクじゃ、じぶんの足に使えないから。
あいつの本音なんか、見え見えだ。
「おまえ、二輪免許しか持ってねーだろ」
「うん。でも、大学出るまでには自動車免許も取るつもりだったし。学科とか、いくつか免除になるから……」
「で。車買うために、バイクを売るのか」
「今なら、キズもないし、けっこう高く売れたりすんのかなァって」
夏休みに入ってから、フルタイムで稼いだバイト代は、交際費に消えていくんだろう。
そして、これまで呆れるほどの手間と部品代と愛情とを費やしたバイクまでも、取り上げようとする。
そんな権利が、あんな女のどこにあるのか。
彼女の価値を決めるのは、もちろん俺じゃない。
あのほそい腰と揺れる胸のためなら、愛車を手放すくらい瑣末なことだと瞬がおもうなら、それでも良かった。
ただ、外装だけを新品同然にととのえて、素人あいてにボロ車をたかく売りつけるなら、それは詐欺だ。
「俺ならさしずめ、サーフィンは危ないからヨットにしてってとこか……」
「ヨットは、無茶だって」
ぷ、と吹きだした瞬は、無茶じゃないお願いのほうがよっぽど質がわるいってことには、気づかないらしい。
たぶん、こいつのことだから、バイクを売ったあとに手放せないものだったと気づいたとして。
それでも、決めたのはじぶんだと、だれを恨むこともなく諦めてしまうんだろう。
あげく、バイクを買うときに協力した俺にまで、責任をかんじて謝りかねない。
そのとき、俺は、心底マリアを憎むはずだ。
きっと、そんなおんなに瞬が食いものにされるのを黙って見ていたのかと、じぶんでじぶんが許せなくなるだろう。
「竜哉は、あいかわらず海に通ってんの」
「ああ。今年は、南にいいポイント見つけて、車で通ってる。そこのホレた波用に、あたらしいボードも作ったんだ」
「いいなァ。おれも久しぶりに、竜哉と海に行きてぇ」
重ねた腕にひだり頬を埋めて、瞬がどこか甘えた声をだした。
俺も、いつもよりずっとあまい声で応える。
「行こうぜ。おまえ、バイトの休みいつ?」
「え。あー、だめだ。ゴメン! つぎの休みは彼女につき合う約束だった」
必死に両手を合わせる男を、おんなたちは知らないのか。
知らないふりをしてるのか。
知っていて、じぶんたちの所為じゃないとでも主張するんだろうか。
「泳ぎ納めか?」
「ううん。秋物のショッピングだってさ。たしか、ブーツと、黒い上着かなにかが欲しいとか言ってたけど」
どうせおまえの財布までアテにしてるんだ、なんて口にはしない。
かわりに笑いかけた。
「べつに、俺も波も逃げねーよ。だろ?」
「うん」
にっこりと、うなずきが返る。
花織さんが、流行アイテムと化したロザリオが不満なように、俺も、この笑顔がひと夏きりのアクセサリーのように扱われるのは、我慢できなかった。
瞬を傷つけるなとは言わない。
マリアを懐に招き入れたのは、ほかでもない瞬だから。
ただ、何もかもあのおんなの思い通りにはさせないと、そうおもう。




