幻獣と唐柿(とうし)
「和茅も一緒に逃げりゃよかったのに」
歩智が幻獣のいるあたりに視線を据えたまま、呟くように言う。
「命にかえても守ってくれるんでしょ?」
「それでも、大事な女には安全な場所にいてもらいてえって思うのは当然だろうが」
大事な女。
それってもしかしなくても自分のことだろうか、と考えると、和茅は耳まで真っ赤になるのがわかった。
それでもそんな心臓をなだめながら、和茅は口を開いた。
「わたし、歩智と離れてひとりで逃げるとき、ずっと不安だったの。自分だけ先に逃げたことを後悔しながら走ってた。もし、歩智になにかあったらどうしようって、すごく怖かった。もう、あんなのは嫌なの。わたしだって手伝えるよ。だから、一緒に戦おうよ」
歩智が嘆息するのがわかった。
「しょうがねえなぁ。でも、無理すんじゃねえぞ」
「わかってる」
和茅がうなずくのとほぼ同時に、くしゃみのおさまってきた幻獣が咆哮を上げた。
「チッ、来る!」
荒い息遣いから、幻獣がどのあたりにいるのかは見当がついた。
幻獣の地を蹴る音が、和茅たちのいるほうに迫ってくる。
歩智が投げた『胡椒玉』は紙一重で避けられた。
同じ手は食わないということか。
歩智は敵がいると思われる辺りに狙いをつけ、次々と『胡椒玉』を投げつけている。しかし幻獣は一向にひるむ様子がない。
「そこにいろっ!」
言うなり、歩智が駆け出した。
幻獣を自分にひきつけようというのだろう。
確かに歩智の足は速い。前回は上手くいった。
――けれど、もし追いつかれたら? 逃げ切れなかったら?
和茅はぞくりとして体を震わせた。
歩智の戦闘力に期待はできない。
幻獣の姿さえ見えれば、斬りかかることだってできるのに……。
はっとあることをひらめいて、和茅は腰に差してある『柄杓』を見た。念じたものをなんでも出してくれる、珍尾宝。
「唐柿をちょうだい!」
和茅は声に出して叫んでいた。脳裏に浮かんでいるのは、真っ赤で丸いトマトだ。ちなみに、唐柿をトウガキと読む場合はイチジクのことを指す。
『柄杓』から唐柿があふれ出す。
和茅は幻獣(がいると思われる辺り)のあとを追いながら、どんどん唐柿を投げつけた。
幻獣は目に見えないだけで、実体をもっている。
だからくしゃみだってするし、唸り声だってあげる。
和茅の投げた唐柿が幻獣に命中し、べちゃっと汁を飛び散らせて潰れる。
中身の飛び出した皮が幻獣の体に張りつく。
歩智を追っていた幻獣が一声吠えたかと思うと、唐柿を投げつける和茅のほうへと方向転換した。
「和茅っ! なにやってんだ莫迦野郎!」
歩智の怒声が聞こえるけれど、和茅はひるまず、更に唐柿を投げつける。
幻獣は低い唸り声を上げながら和茅へと突進する。
和茅は正面から対峙すると、手に持っていた『柄杓』を再び帯に差し、佩いていた太刀を抜いて構えた。
尾宝ハンターとして和茅が初めて見つけた尾宝『鋼鉄岩』を鍛えて作ってもらった特注の太刀で、普段あまり抜くことはないけれど手入れだけはしっかりとしてある。
その切れ味は、その辺の太刀とは比べ物にならないはずだった。
和茅は、つぶれた唐柿の汁と皮を体に張りつかせた幻獣の姿から、体長はおよそ八尺くらいだと目測する。大きい。
けれど幻獣の体表が硬い鱗などで覆われていなければ、太刀で傷を負わせることができるはずだ。
少なくとも、やってみる価値はある。
楼たちだけでなく、自分たちも逃げるだけの時間を稼がなければならないのだから。
タイミングを測りながら、和茅は柄を握り直した。
――今だ!
そう思った瞬間、和茅は太刀を上段に構え、幻獣に向かって駆け出した。
「和茅っ!!」
幻獣を追って引き返してくる歩智の声が聞こえたけれど、その姿を確認するだけの余裕はなかった。
幻獣の獣臭い強烈なにおいが、和茅の鼻に届く。
一声鳴いた幻獣が、和茅に向かって跳躍したのだ。
それを見て、和茅は更に足を速めた。
幻獣が着地する前に腹の下を駆け抜け、幻獣の後ろ肢と思われる箇所を斬りつける。
手ごたえがあった!
ぎゃおぉぉぉうっ!!
幻獣の絶叫が響き渡る。
幻獣の体の下を一気に駆け抜け、いくらか離れた場所でようやく和茅は足を止めると、背後を振り返った。
赤い血が、草の上に散っている。
幻獣の左後ろ肢が血に染まっているのが、和茅の目にもはっきりと見えた。
戻ってきた歩智が、険しい顔のまま和茅の横に並ぶ。
「無茶すんじゃねえよ。心臓が止まるかと思ったじゃねえか」
「ごめん。でも、歩智のことが心配で……」
「おれはおまえのことのほうが心配だったっつーの。多少剣が使えるとはいえ、相手は幻獣なんだから。ほんと、勘弁しろよ」
「ごめん……」
幻獣の雄叫びがやがて収まり、低い唸り声に変わった。
そして右後ろ肢を引きずったまま、無事な三本の肢だけで和茅たちに向かってこようとする。
それには和茅も青くなった。
これ以上幻獣を傷つけることもできるけれど、四本の肢のうち二本を傷つけてしまったら、さすがの幻獣といえども満足に動けなくなるだろうし、そうなると幻獣の天敵(そんな存在がいればの話だけれど……)に狙われてしまう。
和茅は、幻獣に恨みがあるわけではない。
紺の怪我は心配だけれど、もともと幻獣の縄張りである山に踏み込んだわたしたちのほうが悪いのだ。
和茅たちは、ただ、自分たちが逃げられるだけの時間が稼げればそれでいい。
「あいつ、まだやる気だぜ」
「わたしにはもうこれ以上やる気はないよ。逃げよう、歩智」
「言われるまでもねえ」
太刀を一振りして鞘に収めながら和茅が言うと、歩智が肩をすくめて同意した。
そして、ふたりは幻獣に背を向けると、一目散に逃げ出したのだった。




