兄妹
「紺っ!!」
紺に駆け寄ろうとした和茅の腕を、歩智が掴んだ。
「待て。あいつだ、くそっ!」
歩智の顔が強張る。その視線は、忙しく周囲に向けられている。
「幻獣!?」
和茅の目に獣の姿は映らない。
ただ、ゆっくりと地面に倒れた紺の背から、夥しい量の血が流れ出ていることはわかった。
「紺! 紺っ!!」
「おれから離れるな。耳を澄ませろ。気配から相手の位置を把握するんだ」
興奮する和茅の耳もとで、歩智が冷静に指示を出す。
「でも、紺がっ!」
「鼻と口を隠して屈んでろっ」
言うなり、歩智が素早く『胡椒玉』をある場所に向かって投げつけた。
和茅は慌てて袂で鼻を覆った。
歩智も同じように顔の下半分を隠しながら、『胡椒玉』の行方を見ている。
『胡椒玉』がなにかに当たって弾けた。茶色い粉が空気中に飛散する。
ぶわっぐじゅえぇっ!
大きな音と共に、空気がびりびりと震えた。
幻獣のくしゃみのようだ。
「和茅、紺をかついで逃げられるか?」
「ちょっと待って」
紺に駆け寄り、傍に屈む。
ざっくりと破れた衣の下に、切り裂かれた肉がぱっかりと口を開けた背中が見えている。
傷はかなり深い。
「紺、大丈夫!?」
声をかけると、微かに呻き声のようなものが返ってきた。
けれどそれだけだ。
担ごうにも、今のままでは紺のその長身のせいで、和茅ひとりでは持ち上げることができない。
「紺、もとの姿に戻って……」
それなら、和茅ひとりでも運ぶことができる。
しかし紺の返事はない。気を失ってしまったのかもしれない。
人の姿を維持するだけの体力がなくなればもとの姿に戻るはずだけれど……。
幻獣はすごい音を立てながらくしゃみを繰り返していたが、少しずつ治まってきているようだ。
このままではまずい。
「紺、紺!」
和茅は『柄杓』を帯に差し、万が一に備えて麓で買ってきた包帯を巾着から取り出した。
そのあいだも紺の名を呼び続ける。
すると、しゅるしゅると微かな音が聞こえ、紺の長身が縮み始めた。手足も頭も、衣の中にすっぽりと隠れてしまう。
思ったよりも早い。それだけ体力の消耗が激しいということだ。
けれど、おかげでこの場から逃げることができる。
紺の胴があったあたりにぽこりと小さなふくらみができたところで、その変化が止まった。
「歩智、紺が戻った!」
和茅が衣の下から引っ張り出したのは、濃茶色の毛に丸みを帯びた尾を垂らした狸だった。
その狸の背にも、深い傷が刻まれている。
和茅は慌ててその狸の傷に布を当て、包帯を巻きつけて止血した。
和茅の体にまだ微かに電気が残っているのでぴりぴりしたかもしれないけれど、ぐったりとした狸は、微かに鼻を鳴らしただけだった。
もう、動く気力もないようだ。
「よし、じゃあそいつを抱えて逃げろ」
歩智がもうひとつ『胡椒玉』を構えながら言う。
「歩智も一緒に逃げようよ!」
「おれはもう少しあいつを足止めする。だから先に行け」
「でもっ……」
紺も心配だけれど、歩智のことも同じように心配だった。
歩智なら大丈夫。
そう思うけれど、不測の事態に陥る可能性だってある。
なかなか踏ん切りをつけることができない。けれど、長考している時間もない。
幻獣は確実に『胡椒玉』の影響から回復しつつある。
どうしよう。どうしたらいい?
「紺はおれが連れて行こう。おまえも来るのだ、和茅」
突然、にゅっと手が伸びてきたかと思うと、和茅の腕から紺をさっと奪い取った。
振り返ると、去ったはずの楼がそこに立っていた。
「お兄ちゃんっ!」
「そいつが足止めをしてくれるというのなら助かる。この機に逃げるべきだ」
「おまえの為じゃねえ、和茅のためだ」
「わかっている。さあ、行くぞ」
「待って! ダメだよ。わたしは行けない!」
片手で紺を抱き、もう片方の手で和茅の手首を掴んだ楼に対して、和茅は首を振った。
「和茅」
ぐい、と楼が和茅の手首を引っ張るが、和茅はその場から動くつもりはない。
「ごめん、お兄ちゃん。戻ってきてくれたのは嬉しいけど、わたしは一緒に行けない」
「和茅!!」
楼と歩智、ふたりの声が重なる。
「わたしたちは大丈夫。だから紺を連れて行ってあげて」
手首を掴む楼の手をそっと離しながら、和茅は言った。
「おい和茅――」
「和茅、おまえはこいつを信じられるのか?」
歩智の言葉を遮った楼が、和茅に確かめるように問う。
「――うん、信じられる」
「隠しごとをするような奴でもか?」
「わたしだって、隠してたことがたくさんあるもの。それに、歩智はわたしを何度も助けてくれたんだよ。一緒にいて、わたしを支えてくれたの」
楼はまっすぐに和茅の目を見つめていたけれど、やがて「そうか」とひとつうなずき、歩智へと視線を向けた。
「妹を頼んだぞ」
「頼まれるまでもねえよ」
和茅を逃がすことは諦めたのか、歩智が楼の顔を見返しながら答える。
「もし妹になにかあろうものなら承知しない。覚悟しておけ」
「なにもねえに決まってるだろうが。おれの命にかえても守ってやる」
「その言葉、違えるなよ」
楼はそう言い置くなり、ふたりに背を向けた。
「お兄ちゃん、ありがとう!」
「礼を言われる筋合いはない。絶対に無事でいろ。わかったな」
楼は振り向かず、あっという間に木々の中へと姿を消した。
兄を見送りながら、わたしは大丈夫だよ、と心の中で語りかける。
他人を信じることを諦めていた和茅にも、ようやく信じられる人ができたのだ。
こんなところで、死んだりなんかできるわけがない。
和茅は鯉口を切って、歩智の隣に並んだ。




