尾宝調査官
「紺、よくやったな」
ひらりひらりと舞うように『虎の岩』の上から飛び降りた楼が、ゆっくりと和茅たちのほうへと近づいてくる。
楼の両脇には、どこから現れたのか、楼の仲間と思しき男がひとりずつ従っている。
仲間の男たちは地味で目立たない、直垂に指貫という格好をしている。
懐古政策の一環で、住民の服装は人間界でいう平安もしくはそれに近しい時代の服装に倣うようにというお達しがあったにも関わらず、楼だけはそれよりもあとの時代の、まるで歌舞伎者のような格好をしている。
そしてそれがすごく似合っている。
「お兄ちゃん……」
突然現れた楼の傾いた姿から目を逸らさないまま、和茅はかすれた声で呟く。
ある日、ふらりと姿を消した兄。
楼は、和茅と血の繋がった兄であり、紺の幼なじみでもある。
楼が尾垂界で和茅と住む家を出て行って以来、ただの一度も連絡はなかった。
和茅は兄のことを心配しながら日々を過ごしていたのだ。
だから『桶』の発見者として『尾の一』の楼の名前を聞いたとき、まさかと思った。
和茅の知っている兄は、他人の物を盗んだり横取りするような卑怯者ではなかった。
仲間に裏切られ、両親を亡くした和茅と楼。
たったふたりだけの肉親なのだ。
その兄に裏切られてしまったら、和茅には本当に信じられる人がいなくなってしまう。
それが怖くて、ずっと紺から楼に関する詳しい話を訊けずにいた。
楼が兄と同名の別人であれば、と思ったこともある。
けれど、心のどこかではわかっていたのだと思う。
わかっていたからこそ、楼に会いたいと思いながらも、自ら会いに行くことはなかったのだ。
和茅は唇を噛んだ。
「そいつを渡してもらおうか。紺、持って来るんだ」
楼が和茅の手に握られている『柄杓』を確認し、紺に命令を下す。
「え、えーっと……おれは……」
紺が泳がせた視線の先が、和茅にたどり着く。
たぶん、紺の中では「やばい見つかった。誤魔化せるかな」という思いと、「やっぱり楼に従うことにしとこうかな」というふたつの思いがせめぎあっているに違いない。
「『柄杓』はわたしたちが見つけたんだよ。お兄ちゃんには渡せない」
「こちらも、尾を出しっ放しにしているような間抜けな奴に言われて、はいそうですかと諦めるわけにはいかないのだよ」
言われて和茅は尾を出しっぱなしだったことに今更ながら気づいた。
慌てて尾を隠したものの、恥ずかしさに顔が火照るのがわかった。
「こ、これには事情があるのよ!」
「わかっているさ。おまえのその尾の能力のおかげで、『柄杓』を見つけることができたのだろう? 感謝しているよ。兄であるおれにもその能力があればよかったのだがな」
楼が口を歪める。
これまでに見たことのないような、冷たい瞳で和茅を見下ろしている。
以前は当たり前のように向けてくれた優しいまなざしがすっかり影をひそめてしまっているのが哀しかった。
兄は変わってしまったのだろうか。
『柄杓』を握りしめたまま立ち尽くす和茅と楼のあいだに、歩智が割って入る。
「おまえが『尾の一』の楼か?」
「いかにも。おれが楼だ」
「和茅の兄貴――だな?」
「この状況で今更違うと言ったところで、信じないだろう?」
「二年前、和茅が見つけた『桶』を奪って自らの手柄にしたっつー噂を耳にしたけど、真偽の程は?」
「さて、それは知らないな。おれは手にした『桶』を尾頭宮に持参した。それだけだ。それより、おまえは何者だ? 何故うちの妹と一緒にいる?」
「歩智はわたしの仲間だよ」
歩智に胡散臭そうな目を向ける楼に向かって、和茅ははっきりとした口調で告げた。
「歩智? どこかで聞いたことのある名前だが……」
楼の隣に立っていた男が、眉間にしわを寄せる楼の耳に顔を近づけてなにかを呟いた。
はっと楼の表情が変わる。
「――そういうことなのか」
「そういうこと、ってどういうこと?」
楼がなにを言っているのかわからず、和茅は首を捻る。
「おまえは知らないのか?」
楼が戸惑うような、呆れたような視線を和茅に向ける。
「知らないのかって――」
「歩智という名には聞き覚えがある。二年前、おれが『桶』を尾頭宮に持参したとき、『桶』を渡したのが歩智という尾宝調査官だった。――そんなチビではなかったはずだが、その嫌な目、間違いない」
「尾宝調査官――?」
和茅は驚いて、自分の前に立つ少年に目を向けた。




