旧知
和茅は尾垂界でひとり暮らしをしている。
尾垂界に来たばかりのころ一緒に住んでいた兄は、ある日家を出て行ってそれきり戻って来なかった。
親はいない。尾垂界だけでなく、人間界にも、いない。
和茅がまだ小さいころに死んでしまったのだ。
仲間に騙されたことが原因だった。
いい餌場があるから行ってみようと誘われた両親は、ある日、仲間と一緒に出かけて行った。
和茅たち一家が棲んでいる山一帯には動物が増えすぎ、食料の供給が追いつかなくなっていたのだ。
新しい餌場は確かにあった。しかしそこは危険な場所だった。
誰かが危険を冒してでも新しい餌場を見つける必要があった。そしてその『誰か』にたまたま和茅の両親が抜擢されたのだ。
人の良い両親は絶対に安全だと騙され、真っ先にその場に踏み込んだ。そして狩人に撃たれて死んだ。
仲間たちは「やっぱりダメだったか。仕方ない、他の場所を当たろう」と言いながら戻ってきたのだという。
両親を同時に失ったショックは大きかった。そのとき、悲嘆にくれる和茅を慰めてくれたのは、和茅の兄と、紺だったのだ。
紺は困ったやつだけれど、いいやつだということを和茅は知っている。あの美男子っぷりは、化けるのが得意な紺のその能力で作り出したものであるということも。
もとはもっと愛嬌のある顔をしているのだ。
そんな紺の姿が、今、すぐそこに迫っていた。
「おい!」
和茅よりも先に歩智が鋭い声で呼びかけたかと思うと、歩智は素早く紺の前へと回りこみ、進路をふさいだ。
「和茅!? 歩智!! ええーっと……悪いっ!」
言うなり、紺は歩智を避け、わき道へと飛び込んだ。けれど、それをまんまと逃がす歩智ではない。
ふっと歩智が動いたかと思ったら、次の瞬間、紺の前に立ちはだかっていた。
「紺」
じりっと後ずさる紺の背中に呼びかけると、高い位置にあるその肩がぴくりと震えた。
「和茅~……ご、ごめんな?」
和茅と歩智に挟まれ、身動きのとれなくなった紺がそっと肩越しに和茅を振り返って謝る。
美男子は謝る姿すら様になる。
けれどわたしの脳裏には、化けていない素の状態の紺が半べそをかいている姿が浮かんでしまう。
「別に怒ってるわけじゃないから。ただ、紺の言ってた話のどこまでが本当で、どこからが嘘なのか、確かめたかっただけ」
「怒ってない? 本当に?」
「本当に。今更、この程度のことで怒らないよ。紺に関しては、わたし、いろいろと諦めてるもの。ただひとつのことを除いては、ね」
「ひとつのこと?」
紺があごに手をやり、首を傾げる。
本人が自覚していないだろうことを、長いつきあいの和茅は知っていた。紺はそういうやつだということも。
「おれたち、あのあと幻北山で幻獣と遭遇したんだぜ。あやうく、命を落としてもおかしくない状況だった」
歩智が冷めた口調で淡々と話すと、紺の目が驚きに見開かれた。
「えっ!? まさか! 『大蒜』を身につけてただろ?」
「あんなもん、意味ねえよ。少なくともおれたちが遭遇した幻獣にはな効かなかったぜ」
紺の顔がさあっと青ざめる。この表情から察するに、和茅たちがそんな危険な状況に追い込まれるなん
て露とも思っていなかったのだろう。
「でも、ここにこうしているってことは、無事だったんだよな? まさか霊魂だけ――なんてことは……」
紺がおそるおそる和茅に手を伸ばす。その手が震えているのがわかる。和茅はやれやれ、と嘆息してから、そっと紺の手をとった。
筋張ったその手をぎゅっと両手で包み込む。和茅の手の熱が伝わったのだろう。紺の手の震えが、次第におさまってゆく。
「柔らかい。――でも硬い。和茅の手だ」
柔らかいのは女の手だからで、硬いのは剣の稽古のせいだ。
そんなわたしの手を確認した紺の両肩から力が抜けるのが、傍から見ていてわかった。紺は心底和茅のことを心配してくれたんだろう。
「そう。ちょっと西湖都まで飛ばされたりしたけど、なんとか無事に戻って来られたよ。歩智ががんばってくれたし。だから、安心して」
「西湖都?」
幻北山から西湖へと続く穴に落ちた際に数刻ほど時を遡ったとはいえ、幻北山に踏み込んだ日からまだ四日ほどしか経っていないのだから、西湖都まで行って戻ってくることは、人間界の常識で考えれば不可能だ。
けれど、尾垂界には多種多様な尾宝がある。
その中には、瞬間移動できるものだってあるかもしれない。幻北山と西湖をつなぐ不可思議なトンネルや、一瞬で移動してしまう湖が存在するくらいなのだから。
紺もそう考えたのか、それ以上は訊いてこなかった。
「そういうわけで、結局、まだ『柄杓』は手に入れてないの。だから全部、きちんと説明してちょうだい」
「……わかったよ」
紺は反省しているらしく、殊勝にうなずいた。
「それで? おまえが諦めていない、たったひとつのことってなんなんだよ?」
相変わらずの仏頂面に少々の好奇心を浮かべた歩智が、紺の脇から顔を覗かせて訊く。
「ああ、おれもそれ気になる」
そんなことはすっかり忘れていたんだろうに、紺も便乗する。
「さっきの紺を見て確信できたから、まだ大丈夫」
「まだって……なに? なんなの? もしかして和茅、おれのことを見捨てるつもりだったのか!?」
幾分顔色の戻った紺だったが、再度顔を青ざめさせながら言う。
「その反対だよ。紺はわたしにとって家族みたいなものだから、紺にもそう思っていてもらいたい――。紺は約束なんてすぐ忘れるし、目先の損得にとらわれて大局を見ることができないし、すぐに厄介ごとに巻き込まれたりするけれど……」
「随分な言われようだな、おい」
歩智がぼそりと呟き、紺も小さくうなずく。そんなふたりの前で、和茅は続けた。
「それでも、一番心細いときには一緒にいてくれたし、たくさん励ましてくれた。それに、さっきみたいに、わたしになにかあったら本気で心配してくれる。紺がわたしのことを少しでも気にかけてくれているうちは、わたしたち、まだ大丈夫。まだ他人になっていない。そう思えるから――」
「あっ、当ったり前だろうが! おれたち、山の落ち葉で化け比べをしてたころからのつきあいなんだぞ? おれにとっても、和茅たちは身内みたいなもんなんだから、そりゃあ心配するっての!」
いつもへらへらしている紺が、珍しく拳を握り締めて主張する。
「ありがとう。――でも、もし本当にわたしたちのことを心配してくれるのなら、もう少し厄介ごとを持ち込まないようにしてくれると助かるんだけど」
和茅の言葉に、紺はそれまでの勢いを失くし「ど、努力します……」と消え入りそうな声で答えたのだった。




