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西湖の移動

 ふたりが西湖に着いたとき、翠月は白み始めた空に溶け込みつつあり、薄っすらとその形が認識できる程度だった。

 そして先刻まではなんの変哲もないただの湖だったはずなのに、今、湖面は発光し、周囲には靄がかかっている。


 和茅を抱いた歩智は、躊躇なく湖に踏み込んだ。    


「なんとか間に合ったな」


 歩智は膝まで湖につかり、空を見上げる。

 移動している間は必死でしがみついていた和茅だけれど、今となってはこの体勢は恥ずかしい。


「あっ、ありがとう、歩智」


 慌てて下りようとするが、歩智は和茅を抱く手を緩めてはくれなかった。


「歩智?」

「今、下ろしたらおまえまで濡れるだろうが。おれはもう濡れちまったから今更だけど、濡れずに済むんならそっちのほうがいいだろ。もうしばらくこのままじっとしとけよ」

「で、でもっ、怪我が……」

「平気だって何度言ったらわかるんだよ」


 見慣れない青年の顔に至近距離から見下ろされて、動揺した和茅は目を合わせることができず、視線を泳がせた。

 風にさらされて冷えた頬が一気に熱くなるのがわかる。


「なんだよ? おれに惚れたのか?」


 にやり、と歩智が口の端を上げて笑う。


「そっ、そんなっ、それはっ……」

「なに動揺してんだよ。やっぱおまえ、おもしれえなぁ」


 しどろもどろになる和茅を見て、歩智はけらけらと声に出して笑う。


「も、もうっ。そんなに大きくなれるなら、なんで子どもの姿なんてしてたのよ」

「おれの売りは足の速さだからだよ。小柄なほうが空気抵抗を受けねえから速く走れるじゃねえか」


 筋の通った理由に、和茅はそれ以上言い返すことができなくなってしまう。


「……別の姿にもなれるの?」

「残念ながらなれねえんだなこれが。化けるのは専門じゃねえから、せいぜい縮む程度だ」


 縮む、ということは、普段は大きいということだ。つまり、こちらの姿のほうが本来の姿ということなのだろう。


 ぱっと見、和茅よりも年上であることは間違いなさそうだった。

 これまで歩智をすっかり子ども扱いしていた和茅は、少々複雑な気持ちになる。


「――それにしても、靄が濃くなってきたな。こりゃあ霧だな。そろそろかもな」


 歩智の声を聞き、周囲へ目を向けると、いつの間にか一面真っ白に染まっている。

 靄と霧の違いは、視程の違いだと聞いたことがある。九町程度の距離を境に、それ以上見通せない場合は霧なのだとか。

 今、ここはあまりの霧の濃さに、伸ばした自分の指先さえも見難いほどだ。


「西湖が移動するときって、どんな感じなんだろう?」

「おれが知るわけねえだろ」


 相変わらず、歩智には動じる様子が微塵もない。和茅も、腹を据えることにした。


 そのまま待つこと四半時。


 なんの前触れもなく、霧が薄れ始めた。その間、特に湖面が大きく波打つようなことも、立っていられないほどの突風や衝撃を感じることもなかった。


 それなのに――。


「どういうこと……?」


 歩智に抱かれたままの状態で、和茅は驚きに目をみはり、擦れた声を漏らした。

 靄が薄くなり開けた視界のはるか前方に、幻北山の姿があったからだ。


「西湖都の北部か……」


 歩智も幻北山の姿を確認したようだった。

 ざぶざぶと湖の中から岸へと上がってから、ようやく和茅を下ろす。


「ありがとう」


 和茅は下りるなり歩智の傷に巻いてある布の様子を確認した。

 布に血が滲みている、というようなことはないから、歩智の言うとおり、派手に傷口が開いたりはしていないようだけれど……。


「ほらな、平気だろ? 和茅の尾宝感知能力みたいなもんで、おれ、怪我の治りが(はえ)ぇんだよ。

もう、ほとんど塞がってるぜ」

「よかった……」


 和茅は安堵の息を漏らした。


「それにしても、どうやらおれたち、ツイてるようだな」


 歩智が遠くにそびえる山を見上げて言った。


「いつの間に移動したんだろう。全然気づかなかった……」


 濃い霧が出たこと以外に、それらしい変化がなにもなかったものだから、周囲の景色が変わっていなければ、西湖が移動したとはとても思えなかっただろう。


「ああ、こりゃあすげえな」


 朝日を浴びる幻北山の美しさに、和茅は息をのむ。明仄の空を背に、解けない雪が残る白い一帯が光を反射してきらきらと輝いて見える。

 幻獣の跋扈する危険な山だけれど、遠くから見るとこんなに美しかったんだ……。


 『柄杓』を探すのに一生懸命で、幻北山の美しさに気をとめることなどここ最近なかったことに今更ながら和茅は気づいた。 


 この場所から幻北山まではまだ距離がある。

 けれど、最西から向かうことを考えると遥かに近い。考えうる中で、最も幻北山に近い場所へ移動したといえる。


 ここから徒歩でおよそ半月。けれど走れば一週間足らずでつけるはずだ。

 そのとき、『柄杓』はまだ誰にも見つけられずにあるのだろうか。そもそも、『柄杓』は本当に幻北山にあるのだろうか。


 わからなかった。


 それでも、行くしかないのだ。

 ふたりは一路、幻北山を目指すのだった。

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