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青年の正体

 翠月が西の空に浮いている。その輝きは弱く、今にも消えてしまいそうに見える。

 この季節、空には蒼月(そうげつ)黄月(おうげつ)翠月(すいげつ)と三つの月が順に姿を現す。一番に出るのが蒼月、続いて黄月、最後に翠月。


 翠月が沈むと、日が昇ってくる。


 ふたりは足を速めた。

 西湖の移動に便乗しそびれたら、『柄杓』が遠のく。遠のくどころか、無駄に時間を費やしているあいだに、誰かの手に渡ってしまうかもしれない。


「やばいな」


 歩智の呟きが、和茅の耳まで届いた。

 確かに、まずい。翠月が消えるまでもう時間がない。けれど西湖までは、まだ距離がある。


「走るか……」


 歩智がちらりと視線を和茅に向ける。その瞳には、なにやらあまり乗り気ではなさそうな雰囲気が漂っている。  


「いいよ。このままじゃ間に合わないもんね、走ろうよ」

「おまえが走って……間に合うか?」     


 歩智が気にしているのは、どうやら走っても間に合わない場合らしい。


「間に合うかどうかはわからないけど……でも、走らないと間に合わないのは確実だよね」

「まあな」


 歩智は少し考えてから、空を仰いだ。東の空は既に白み始めている。

 和茅はそんな歩智の横顔が、いつもの表情とはどこか違うことに気づく。


「歩智……?」

「仕方ねえな。おれが走る。ちょっと待ってろ」


 言うなり、歩智は背負っていた荷を地面に下ろした。

 湖から上がったとき、中身が濡れていないかどうか歩智が確認しているところをちらりと見たけれど、中にはなにか布のようなものが入っているようだった。


 歩智が包みと水避けの油紙を手早く開く。

 その中から出てきたのは衣だった。大人用の、狩衣に見える。

 一刻も早く西湖にたどり着かなければならない今、取り出さなければならない物とは到底思えない。


「それ、どうするの?」

「あっち向いてろ」

「えぇ? なんで?」

「いいから早くしろ!」


 急き立てられ、意味がわからないながらもとりあえず言われるまま、歩智に背を向ける。

 背後で衣擦れの音が聞こえる。


 いったいなにしてるわけ? 

 

 と和茅が脳内を疑問符だらけにしながら見るともなく白樺林を見ていると、突然、視界が翳った。

 月が雲に隠れたのかと思って顔を上げると、そこには上から和茅を覗き込む、見知らぬ青年の顔があった。


「えっ!? あ、えぇっ!?」


 和茅は驚いて背後を振り返った。けれどそこにはさっきまで歩智が着ていた水干と葛袴が抜け殻のように残されているだけだ。


「も、もしかして、歩智っ!?」

「なんだよ」


 ついさっきまで一緒にいた少年の名を呼ぶと、狩衣を着た長身の青年が返事をした。

 聞きなれた声よりも随分と低い。


「ほっ――歩智ぃ?」


 思わず青年を指差すと、青年がにやっと笑ってうなずく。


「歩智が、大きくなった……?」


 それ以外考えられなかった。


 和茅はまじまじとそこに立つ青年の顔を見上げた。

 見慣れた子どもらしい顔と比べ、鋭さの増したあごの線、すっと通った鼻筋、どこからどう見ても、そこにいるのは精悍な顔立ちをしたひとりの青年だった。


 けれど確かに、その顔には歩智の面影がしっかりと残されていた。別人とは思えないほどに。

 突然変貌を遂げた歩智の、予想外に整った顔に、和茅の心臓が大きく跳ねた。

 これでは、顔の良さは紺といい勝負だ。

 全体的に柔らかい印象の紺とは異なり、歩智からはどこか硬質な印象を受ける。


 小さなときはどちらかといえば女の子のような顔をしていた歩智が、まさかこんな風に変化するとは。

 尾垂界に住んでいるのなら、姿を変えるのなんて朝飯前という者も多い。

 和茅だって、姿を変えるのは得意だ。


 それがわかっているのに、和茅は目の前にいる青年に見惚れてしまう。


「これなら、おまえを抱いて走れるだろ。おまえの足じゃ、きっと間に合わねえからな」


 言いながら青年版歩智は脱ぎ捨ててあった衣をさっとまとめて包み、背に負うと、動揺する和茅の太刀を取ると、和茅の手に持たせる。


 渡されるまま太刀の鞘を握った和茅の体を、歩智がひょいと持ち上げた。

 きゃっ、と小さく悲鳴を上げ、和茅は鞘を握ったまま体を縮こまらせる。


「ちょ、ちょっと待って! いろいろちょっと待って!」

「待てねえって。時間がねえだろうが」

「でもっ、でもでも、気持ちの整理とかっ……」

「そんなのは湖に着くまでにいくらでもできるだろうが。走るのはおれなんだから」

「そっ、それに腕の怪我は!? 傷口が開いちゃうよ!」

「さっきから大丈夫だっつってんだろ。しっかりつかまってろよ」


 言うなり、和茅をお姫さま抱っこしたまま歩智が駆け出した。  


 周囲の景色が、驚くほど速く流れてゆく。

 あまりに速いので白樺の木のを一本一本認識するのが難しく、まるで白い壁のあいだを通っているように見えてしまう。


 風が重い塊のように和茅の頬にぶつかる。半端な速度じゃない。

 その風に吹き飛ばされそうになり、和茅は慌てて歩智の首にしがみついた。


 すぐそこに、歩智ののどぼとけが見える。ああ、本当に大人の男みたいだ。

 そんなことを考えているうちに、歩智の首に回した手の力が緩んでしまっていたらしく、歩智が跳躍した拍子にその手が放れてしまった。


「きゃっ!」 

「おい、気をつけろよ。じゃねえと本当に落ちるぜ」   


 和茅を抱く手に力を込めて着地して、歩智が忠告する。


「ご、ごめんなさいっ」


 ひやっとして、慌てて歩智の首に再び手をまわしたけれど、和茅の鼓動はいつになっても落ち着きそうにない。


 この状態で気持ちの整理なんて、絶対に無理だよ……。


 和茅は歩智に抱かれたまま、心の中でそう呟いた。

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