やめちまえば
結局、幻獣にはどんな尾宝も絶対的な効果を発揮しなかったらしい。
ただし巾着の中に入っていた尾宝『胡椒玉』が命中したときばかりは、幻獣のくしゃみが止まらなくなった。
その隙に歩智は逃げてきたのだという。
「歩智、怪我は!? 幻獣にやられた怪我は大丈夫?」
先に陸に着いていた和茅は、上がってきたばかりの歩智に駆け寄った。
「たいしたことねえよ」
「でも……」
びしょびしょになった袖に、赤い染みが滲んでいる。
それを見た歩智が、その袖を引きちぎった。
もう片方は既に幻獣に食いちぎられているので、これで両袖がなくなって手無しのようになってしまった。
けれど歩智はどうやら頓着していないようで、ちぎれた袖を絞ると、その端を噛みびりっと裂いた。
「これで縛っとけば、血なんてすぐに止まる。気にすんな。そんなことより、おまえの顔の傷はどうなんだよ?」
歩智の顔がぐいっと和茅の顔へ迫ってくる。
「へっ、平気だよ、わたしも。そんなに深くないしっ!」
ちょっと水がしみたけれど、それだけだ。
「痕が残らねえといいけどな」
じっと和茅の頬を見ていた歩智が、顔を離し、眉をしかめて呟く。
人の姿のときに負った怪我は、本来の姿に戻ったときにも残る。別の人の姿に化けるときにも、その怪我は受け継がれてしまう。
けれど和茅の怪我は本当に大したことはなくて、血も既に止まっている。
「大丈夫だってば。あ、手伝うよ」
裂かれた布切れを受け取り、傷口に巻く。幸い、傷はさほど深くはないようで、和茅はほっとした。
「悪ぃな」
「痛くない?」
「平気だっつーの」
「歩智が無事で、本当によかった」
和茅が安堵の息を吐きながら呟く。
「ちっともよくねえよ。止まれっつったのに、おまえが止まらねえからこんなことになったじゃねえか」
「だって、よく聞こえなかったんだもの」
どうやら、落ちる寸前に聞こえたのは歩智が和茅に向かって投げかけた声だったようだ。
まあ、内容が聞き取れていたところで、勢いがついていた和茅に急停止できたかどうかは、はなはだ怪しいけれど。
和茅がびしょぬれになった自分の衣の袖を絞ると、地面にぼたぼたと大量の水が滴り、乾いていた土の色が濃くなった。
「で、どうする? 『柄杓』がどうこうって言ってる場合じゃないぜ、こりゃあ」
「とりあえず、幻北山へ戻るための路を探さないと……」
「ここから一番近い路がどこにあるか、わかるか?」
歩智に訊かれ、和茅はふるふると首を振った。
髪の先から水が飛び散る。
和茅はその髪をつかむと、衣と同じようにぎゅっと絞った。
「仕方ねえな。とりあえず火をおこして着てるモンを乾かそうぜ。ついでに飯も食いてえし」
「そうだね」
このままでは風邪をひいてしまいそうだ。
和茅が乾燥した枝を集めているあいだに、歩智が湖で魚を獲ってきた。
怪我をしているので、どうやら片手だけで獲ってきたらしい。
器用なんだな、と和茅は少し驚く。
歩智は、和茅が思っている以上に色々なことができるようだ。
火をおこし、ふたり向かい合って座った。
和茅は太刀を鞘から抜いて、錆びないように手入れをする。
やがて日が沈み、周囲を闇が包んだ。
ついさっき日没を見たばかりなのにすぐまた同じ経験をするとは思わなかった。
焼いた魚を食べながら、ふたりは相変わらず言葉少なだった。
火の爆ぜる音だけが聞こえる。
「なあ、なんでおまえは『柄杓』を探してるんだ?」
唐突に問いかけられ、今まさに口の中のものを飲み込もうとしていた和茅は、げほげほとむせ返った。
「ど、どうしたの、突然」
「特に名前を売りたいって欲がありそうじゃねえからさ。『柄杓』を使ってなにかやりたいことがあるのか?」
ぱちぱちと火の爆ぜる音が大きく聞こえる。
「尾宝ハンターなら『柄杓』と『杓文字』を求めるのは普通のことだと思うけど?」
「もし見つけたらどうするんだよ?」
「……まあ、ちょっとね」
「きっと、おまえが所持していることがわかった途端、狙われることになるぜ?」
「そうだね。本当なら、さっさと売っちゃうのがいいよね。それか尾頭宮に持っていくか」
「でも、そうはしないんだな」
「うん」
和茅は炎を見つめながら、こくりとうなずいた。
歩智はそれ以上続けず、沈黙が落ちる。
「――尾宝ハンターなんてやめちまえば?」
しばらく経ってから、歩智がぽつりと言った。




