落下
「――わかった」
これ以上問答している時間はない。和茅はうなずいた。
歩智の言葉を信じられないままに。けれど信じたいと思いながら。
そして自分が持っていた尾宝巾着を、歩智の懐に押し込んだ。
「和茅?」
「もし『銀杏』と『大蒜』が効かなかったら、どれでもいいからこの巾着の中の尾宝を投げつけて! 幻獣用じゃないけど、麻酔効果やしびれ効果のある物が入ってるから。あまり期待はできないけど」
「――わかった。助かる」
これが、少しでも歩智の助けになればいいけれど――。
和茅には、無事逃げ切れるよう祈ることしかできない。
ぐるぐると唸る幻獣の声が大きくなる。
「行け!」
歩智が短く声を発した。
和茅はその合図とともに地を蹴ると、幻獣とは反対の方向へ向けて全力で駆け出した。
背後から獣の雄叫びが聞こえたけれど、振り返る余裕はなかった。
和茅は、夜目は利くものの、山中の地理には疎い。
とにかく走るしかない。こういうとき、二足歩行は走りにくくていけない。
緊急時なのだから本来の姿に戻ってもよいような気もするけれど、尾垂界で一度本来の姿に戻ってしまうと、人間の姿になるのにひどく時間がかかってしまうのだ。
人間界では簡単に人に化けられる動物たちでも、尾垂界で人に化けるのは難しい。
この世界は能力のある者だけが踏み込める世界。
それ故に、この世界に存在しているだけで、人間界にいるときの何倍もの体力を消耗する。
それは重力に例えるとわかりやすいかもしれない。人間界は月、尾垂界は地球。
姿を変えるのも保つのも、力を消費する。
尾垂界で本来の姿に戻ると、人間の姿に変化するための体力の補充に時間がかかるのだ。
今この状況で無駄な力を使うのは得策じゃない。
たとえ幻獣から逃れることができたとしても、この幻北山には他にも多くの猛獣がいる。
和茅は転ぶように斜面を駆け下りていた。
追ってくる獣の気配はない。けれど、歩智らしき気配もまた感じられない。何度足を止めようと思ったかわからない。
歩智と一緒に行動するようになってまだほんの少しなのに、ひとりには慣れていたはずなのに、心細さと不安に胸が締めつけられる。
もし、歩智になにかあったら――。
そう考えると怖くて、引き返したくなる。
他人の言うことなんて、信じられない。和茅はそのことを骨身に沁みて知っている。けれど歩智は―― 彼は「信じろ」と言った。「絶対」に追いつくと。
歩智は口は悪いし態度も悪いけれど、和茅に大して嘘をついたことは一度もない。
だから、信じたい――。
一瞬、名前を呼ばれたような気がして、和茅ははっと背後に視線を向けた。足下から注意が逸れたその拍子に、和茅はなにかに蹴躓き体の均衡を崩した。
「きゃっ!」
慌てて地面に手をついて体を支えようとした。が、その手はどこまでいっても、なににも触れることがなかった。
ぎょっとして手元を見ると、その下には真っ暗な闇が続いているだけだった。
地面がない。地割れの跡のようだった。深い亀裂が、どこまでも続いている。
落ちる――。
「歩智――っ!!」
「和茅っ!」
すぐ傍で名を呼ぶ声が聞こえ、和茅は目を見開いた。
視界に飛び込んできたのは、月光に輝く青灰色の髪だった。必死に手を伸ばす。歩智が地面の淵から腕を差し出している。
ふたりの指先が、僅かにかすった。ダメだ、届かない――。
和茅が絶望に顔を歪ませたそのとき、歩智が宙に身を躍らせた。
落下しながら、歩智は和茅の腕をぐいと掴み、自分のほうへと抱き寄せる。
「歩智っ……」
「追いついたぜ」
歩智がどうだと言わんばかりににやりと笑みを浮かべる。
「莫迦っ! 一緒に落ちてどうするのよ!」
「約束は守らねえとな」
「でも――」
このままじゃあ、ふたりとも助からない。
「大丈夫だ。おれがついてる」
和茅を抱く歩智の手に力がこめられる。落下はどこまでも止まらない。
けれど、歩智の言葉には、和茅を信じさせるだけの力があった。
そう、歩智はあの幻獣をどうにかして、約束どおり和茅に追いついてくれた。今回も、歩智が大丈夫だと言うのなら、本当にそうなのかもしれない。
歩智なら、信じてもいいかもしれない。そう思った。
もし、たとえそれが嘘だったとしても、それでもいい――。
「うん――。ありがとう、歩智」
歩智と一緒なら、怖くない。
和茅は目を閉じ、ぎゅっと歩智を抱き返した。




