私のいないバレンタイン
バレンタイン。
それは元気なあの娘や普段内気なあの娘が、ちょっぴり勇気を出して思い人へと愛を伝える素敵な日。
しかしそれは恋する乙女にとって、年に一度の戦いでもある。
あんな娘やこんな娘をちぎっては投げ、ちぎっては投げ。憧れの先輩へと群がる恋敵を押しのけ、先輩へ届け私のラブハート!
……と、少し痛い妄想をしながらも、私こと千代子は今日もせっせとチョコレートを作っている。
理由は単純。バレンタインデーが近いから。
けれど先輩への想いはそんな単純なものではない。この熱い想いを語るとするならば、それは山よりも高く海よりも深い。そして修学旅行で恋バナなんてしてみれば、徹夜なんて通り越し、修学旅行の全日程を費やしてでも足りないであろう程に、想いは降り積もっているのである。
そんな想いを伝えるために、私は今日もせっせとチョコを作る。
実のところ私はチョコレートはあまり好みではない。というか嫌いだ。
その原因は私の名前、「千代子」にある。パパに聞くところによればママが「誕生日がバレンタイン! まぁなんてことでしょう。それなら名前はチョコにちなんで『チョ子』にしましょう!」となんともアホなことを言い出したのがきっかけらしく、一悶着あった挙句に「千代子」に落ち着いたらしい。
まだこれだけなら良かったけれど、「千代子はバレンタイン生まれだからチョコが大好きよね」と毎日のようにチョコレートを食べさせられた上に、酷い日なんて朝食が板チョコ1枚。一時期は家出も考えたけど、どうにかこうにか今は落ち着いている。よくグレなかった、えらいぞ私!
バレンタインまで後5日。チョコレート嫌いをなんとか抑えて、憧れの先輩のために寝る間も惜しんでチョコを作る。手作りチョコなんて、言ってしまえば湯煎して固めて、はい完成。でもこれじゃあ味気ない。やっぱり作るからには美味しくて見た目も素敵なチョコを作りたい。
「なにこれ、苦っ!?」
しかし現実は甘くない。初めてのチョコ作りは失敗の連続。失敗は成功のもとだと言うけれど、これでは間に合うかどうかの瀬戸際だ。
どうせなら現実もチョコレートのように甘ければいいのに。私のチョコは苦かったけど。
そんなこんなで私の戦いは夜戦へと差し掛かる。明日起きられるかな?
翌日、あまりすっきりとした目覚めでは無かったけれど、なんとか遅刻せずに学校へとたどり着くことが出来た。うん、えらいぞ私!
教室に入って一息着くと、突如として睡魔さんが襲いかかってくる。頑張って抗戦を試みたものの、少しずつまぶたが重くなってきた。脳内に広がっていくお花畑。Good-bye現実世界。
数分後、お花畑は大きな鐘の音が鳴り響くのと同時に破壊され、私は現実世界へと帰還した。どうやらホームルームが始まるらしい。
担任が入って来たけど眠気はまだ覚めない。担任はゴリラみたいな顔をしていて見た目通り怒ると怖い。もちろん居眠りなんて見つかった日には地獄を見るのだけど、眠いものは眠い。Good-byeゴリラ、Helloお花畑。
しかしその直後、私はゴリラの一言により完全に目が覚めることとなった。
「今年のバレンタインだが、学校へのチョコの持ち込みを厳禁とする」
え? チョコの持ち込み厳禁!? マジで?
周りからも女の子を中心に「嘘でしょ!?」とか「もうマジ最悪!!」なんて口々に言っている。私も合わせて「はあ!?」とか言ってみる。
「規則は規則だ。グチグチ言うなっ!」
ゴリラは教卓をバン!と叩くと「絶対持ってくるなよ。持ってきたら没収だからな。受け取った男も同罪だぞ」と強く念を押す。
これはとてもまずい。もしこっそり持ってきて渡したとしても、受け取った先輩も怒られてしまう。
「ええい騒ぐな」というゴリラに対しひたすらブーブー言う女の子たち。飛び火したモテ男たちも声を上げているようだ。
収集がつかなくなりつつある中、1人の女子生徒が手を挙げた。
「なんだ橘。意見があるのか?」
「はい」
橘さんは立ち上がると眼鏡を少しずり上げる。これは橘さんのクセなんだけど、委員長っぽくて私は気に入っている。なんとなく賢そうに見えるし。いや、実際成績はトップだったと思うけど。
橘さんが発言するとなるとクラスは一瞬で静まり返る。クラスのみんなも橘さんには一目置いているのだ。
「チョコレートの持ち込みですが、昨年まではOKだったと聞きました。なぜ今年はダメなのでしょうか?」
橘さんの質問に対し、周りからも「そーだそーだ、去年チョコ貰ったって先輩言ってたぞ」「友チョコ交換したって言ってました!」と援護の声が上がる。確かにバレンタインにチョコを持ち込んではいけないなんて,聞いたことがない。
みんなの声に対しゴリラは「わかった、わかったから落ち着け」と言い、クラスをなだめる。
「確かに去年までは良かったな。しかし、今年はダメだ。理由は話せんが規則なんて簡単に変わるもんだ。以上でHRは終わり」
そう言い切るとゴリラは教卓を離れ出入り口へと歩き出す。
あまりの対応に「はぁ!?」とクラスじゅうから声が上がるが、ゴリラはそのまま教室から出て行ってしまった。
まずい。このままでは先輩にチョコを渡せない。
そう思った瞬間、私の体は動いていた。教室から飛び出しゴリラの背後から「あ、あの!」と声をかける。
ゴリラはそのまま歩いて行くが構わずに叫ぶ。
「どうしてチョコ持ち込んじゃダメなんですか! 一年に一度の素敵な日じゃないですか! せめて理由を教えて下さい!」
普段の私なら決してこんなことはしない。しかし、今回だけは体が勝手に動いた。私は先輩にチョコを渡したい。その一心だった。
しかし。
ゴリラはまるで聞こえていないかのように歩き、そのまま角を曲がり教員室へと戻っていった。
私はしばらく立ちすくんでいたが、このままではどうしようもないので教室へと戻った。
最悪だ。このままではチョコを渡すことができない。私の想いを伝えることができない。
教室でうなだれていると,ふと「もしかしてアレのせいじゃない?」という声が聞こえてきた。クラスでも噂好きで知られる女の子が周りに話しているのだ。
私はそっと聞き耳を立ててみる。
「なんか去年事故あったじゃん?」
「事故? あったけ?」
「あったよ、交通事故。しかもバレンタインに」
「えー?」
どうやら事故の話をしているらしい。
バレンタインに交通事故? 私の家は比較的この高校に近いがそんな話を聞いた覚えはない。受験勉強で部屋に引きこもってたからかな?
「なんとなくその事故のせいな気がしたんだけど、よく考えてみると交通事故だしあんまり関係無いかも」
「私、このあたり来るようになったの今年だから去年のコトとかわからないんだよね」
「そっか。そうそう、最近あの店の新作出たの知ってる?」
「え? どんなやつ? 気になるー」
じっと聞いていると話題は既に新作ドーナツの話になっていた。女子高生の会話なんてこんなもの。話を聞く限り、今回の件と事故はあまり関係なさそうだ。
私は「はぁ」と溜息をつくと机に突っ伏す。なんて最悪なんだ。これからどうしよう? なんて考えているうちに再び睡魔さんに襲われ、私は敢え無く深い眠りへと誘われた。
なんだかんだでやってきたバレンタイン。
きっと既に日本中の女の子が、素敵なあの人への想いで胸をいっぱいにして、期待とか恐怖とかたくさんの感情でドキドキしながら、恋する乙女へと変身する日。男の子だって一年で一番そわそわする日だと思う。
でも私は違う。なぜなら――
「えっ!?もうこんな時間!?」
朝から分針と、いや秒単位で時間と戦っていた。つまり寝坊したのである。そのせいで私の心は「先輩への甘酸っぱい恋のドキドキ」ではなく、「朝からゴリラにウホウホ言われる恐怖のドキドキ」に囚われていた。解せない。なんで当日に限って寝坊しちゃうかな、私。
私は小さい頃からいつもそうだった。大事な日に寝坊してしまうのである。小学校の遠足や初めての水族館、中学校の卒業式、高校の入学式。挙げていけばいけばきりがない。一番最近はいつだっけ? 高校に入ってからつい最近あったような……
私はそんな体質を呪いながらも家を飛び出す。「遅刻遅刻ー!」と言いたくなるほどにはギリギリな時間。
結局チョコは隠して持ち込むことにした。みんながそうするって言ってたのもあるけれど、やっぱり私は先輩にチョコを渡したい。想いを伝えたい。
しかし現実は非情である。時間は刻一刻と過ぎていき、このままでは遅刻ルート確定。もし遅刻なんてしたら今日一日ゴリラに目をつけられてしまう。それだけは絶対に避けなければならない。
幸い、学校は比較的近く、徒歩で通える範囲だ。乗り物を使わない分、自分の気力と根性次第で通学時間を短縮できる。私は今まで培ってきた経験から一定のペースで走り続けた。いきなり猛ダッシュしたところで学校まで走りきれるわけもなく、必ず息切れを起こしてしまう。それならば一定のペースで走り、要所要所でダッシュしたほうが効率的なのだ。……我ながら嫌な経験を積んだものだ。
なにやら今日は体が少し軽く感じる。まるで背中から羽が生えて宙を飛んでいる気分。
誕生日のハッピーパワーなのか、それとも恋する乙女の底力なのか。
よくわからないけど調子がいい。
このペースなら間に合いそう。さすが私! やればできる子! えらいぞ私!
と、自分を鼓舞しながらひたすら走る。後もう少し。交差点を渡り、真っすぐ行って角を曲がればもう学校が見える。
私は足に、より一層の力を込めて地面を蹴りつける。あとちょっと頑張るだけ。その瞬間――
「え?」
交差点を走り抜けている途中。左折しようとする車がそのまま横断歩道に突っ込んできた。私が横断しているにもかかわらずに。
――轢かれる。
そう感じた時、世界のすべてがスローモーションに見えた。点滅を始める青信号。迫り来る赤い車。ブレーキの踏む気配のない運転手。視界に映る全てのモノがゆっくり動く。走馬灯は無かった。ただなんとなく、頭が真っ白にしながら身体を強張らせる自分の姿が脳裏をよぎった。
しかし私は至って冷静に、全力で走りだす。そう、いつも以上に全力で。必死に駆け出す。
気がつけば車の前をスレスレで走りぬけ、横断歩道を走りきっていた。危機一髪とはまさにこのようなことを言うのだろう。
私は振り向いて、「ちょっと危ないじゃない!」と叫ぼうとしたが、既に車は走り去っていた。
結論から言うと、私は遅刻せずに済んだ。正確に言うともっと早く校門をくぐったと思う。というのも、門が閉まる5分前になると、それ以降にくぐった人に対しゴリラが「もっと早く来い!」と怒鳴る。それが無かったということは思ったより早く着いたということだ。えらいぞ私! なぜか教室についたのはギリギリだったけど。
それにしても今朝は本当に酷い目にあった。あんな危ない人には免許を渡さないで欲しい。あの事件のせいなのか、どっと疲れが押し寄せる。おかげで今日も睡魔さんが迎えに来てしまった。
放課後に先輩へチョコを渡すためにも体力を充電しよう! なんて理由をつけつつ、私は深い眠りへと落ていった。
辺りは徐々に薄暗くなってきている。ざっと見渡してみると電気の付いている建物が多い。それでも先月と比べればかなり明るい。季節の巡りとは早いものである。
軽く息を吐いてみると、世界の一部が白く濁る。少し寒いけれど雨や風が無いだけマシだろう。雪だったらもっとロマンチックかもしれないけど。
私は自分の胸に手を当ててみる。まだ先輩は来ていないというのに、私の心臓は早鐘を打っていた。身体はじわりと発汗し、顔も火照って仕方がない。
もし先輩が来たらどうなってしまうのだろう? 爆発でもしてしまうんじゃないだろうか? と思えるほどの極度の緊張と興奮の中で、私はじっとその時を待った。
放課後の屋上。シチュエーションとしてはまずまずだろう。やっぱり雪が欲しかったけど、こればかりはしようがない。
待ち合わせの時刻まであと少し。私はチョコを手渡すシーンを何度も何度も脳内に描く。どんなに慌てても、どんなに焦っても、ちゃんと想いを伝えられるように。繰り返し繰り返しリハーサルを行う。
そして、脳内で何十回目かの告白を告げたその時、がちゃりと小さな音をたて、ドアが開いた。先輩が少し赤い顔で入ってくる。これから何が起こるか大体の想像は付いているのだろう。
「ごめん。随分待ったみたいだね」
約束の時間ぴったりなのに先輩はそう謝る。私は「いえ、別に待ってません! あれ、いや、来て欲しくなかったとかじゃ無くて、あれ?」とか言っちゃて既に大慌て。
先輩はそんな私を見て、少し笑いながらコホンと咳払いをする。
「それで、僕に用って何かな?」
先輩は真剣な顔つきになると私のことをじっと見つめる。
ついにこの瞬間がきた。何回も思い描いてきたこの瞬間が。それだというのに、私の身体は強張り、チョコを鞄から出そうにも手が震えて上手く取ることができない。聴覚は大きくうねりを上げる自分の心臓の音に奪われる。緊張で膝は震え、まるで私自身が大きく揺れているかのような錯覚に囚われる。
「大丈夫、リハーサル通りにやればきっと大丈夫」と自分に言い聞かせ、ゆっくりと深呼吸をする。心の中で、大丈夫、大丈夫と何度も何度もつぶやき、しっかりチョコをこの手でつかむ。頑張れ私! 今日この瞬間のために準備してきたんだ。先輩に想いを伝えるんだ!
「先輩のことが大好きです! 付き合って下さい!!」
そう言い切ると、私は両手を伸ばし、頭を下げながらチョコを差し出す。
告白の言葉はこれ以上に無いくらいの直球だった。変に着飾らせるよりもそのままの気持ちを伝えるべきだと思った。
頭を下げている私には先輩がどんな表情をしてるのかわからない。驚いているのか、笑顔なのか、それとも嘲笑っているのか。
私はただ、先輩の返事をじっと待つ。
「えっと、あの、まずは顔を上げてくれないかな?」
そう言われ、顔を上げた私の前には微笑んだ先輩の姿があった。
「まず、チョコレート。凄く嬉しいよ、ありがとう。あと、その、付き合って欲しいっていうのは恋人ってことでいいんだよね」
先輩の確認に私は大きく、何度の頷く。返事もしたつもりだったけど、声が思うように出ない。
「こんな僕で良かったら、ぜひ付き合って下さい」
大きく頭を下げる先輩。
その言葉を聞いた瞬間、私は呆けてしまった。あまりに緊張していたせいなのか、脳の処理が追いつかない。やがて、その言葉はしっかりと私の胸の中で溶け、目頭が熱くなる。ふいに出た涙が頬をじっとりと濡らす。「ありがとうございます」と言いたくても、言葉にならない声だけが発せられた。
先輩は頭を上げると少し照れながら私の方へ近づく。そして、想いの詰まったチョコレートへとその手を伸ばす。
しかし――
「えっ?」
その瞬間、奇妙なことが起こった。先輩の指は私のチョコをすり抜け、それどころか私の身体すらもすり抜けたのである。まるでそこには何もなかったかのように。私はわけがわからないまま、すり抜けた先輩の指先を追って振り返る。するとそこには涙を浮かべた1人の女子学生が立っていた。
先輩は女子学生のチョコを受け取るとその娘と熱い抱擁を交わす。
「え? どういうこと? なにこれ? なんで? なんで?」
私は訳がわからず、とりあえず2人を引き離そうと掴みかかるが、私の腕は2人の身体を通り抜ける。何度やっても変わらない。その手は2人の身体を掴むことすらできない。
私の頭は「なんで?」という疑問に埋め尽くされ、何も考えられなくなる。すると突然、徐々に重くなっていく身体。まるで全身にくまなく鉛を吊るされ、そのまま溶けたロウの中に放り込まれたみたいに、じわじわと身体は動かなくなっていく。やがて視界も暗転し、少しずつ意識が薄れていく。
なにこれ? 身体が……動か……な……い……助けて……先……輩…………
意識が途切れる寸前、私は全てを思い出した。
去年のバレンタイン。頑張って創ったチョコレート。大事な日にした寝坊。焦って飛び出した交差点。渡せなかったチョコレート。
私は見えない波に飲み込まれ、ここがどこかもわからない。もう指の一本でさえ動かすことができない。
それでも私は言葉を紡ぐ。誰にも聞こえないであろうことも理解しながら。動かない喉を必死に動かして。先輩へのありったけの想いを込めて。
「ま た 渡 せ な か っ た……」