ゆるやかに
夕暮に向かうその時、呼び鈴の音に玄関に向かったのが私で良かった、と思った。
聖でも楓でもなく。
なぜなら訪問者は音ノ瀬隼太だったからだ。
しかも手ぶらではない。
にやりと笑い、泡盛の古酒の瓶をこれ見よがしに持ち上げてみせる。
「話がある。夕飯前に手早く客の相手を済ませたほうが、そちらも都合が良いだろう」
「害意が無いと判る訪問者を〝客〟と言います」
「俺に害意は無い」
率直なコトノハに嘘は聴き出せない。
「……お上がりください」
「邪魔するぞ、鬼兎」
隼太は私の後ろに立っていた聖にも声を掛けた。
挑発の響きで。
聖もまた、牽制の意を籠めて赤い瞳で隼太を見返した。
「私はそれ程、酒を好まないのですがね」
と、と、と、と、と琉球硝子に泡盛を注ぎながら申告すると、隼太からも聖からも物言いたげな目をされた。
失敬だな。
〝それ程〟の程度が個性的なだけだ。
釣忍が鳴り響く。
隼太の持って来たのはどんな話か。それは今から判ることであり、風に聴く必要もあるまい。
私はもう風呂上りの浴衣姿で、客間の上座に座る。
それについて隼太にとやかく言う積りは無いらしい。
楓は寝室にいるよう、言い聞かせてある。
今頃、寝室に置いた勉強机で宿題をしているだろう。
「話とは?」
問うてから、古酒のコップを傾ける。
熱くスパークするような味わい。
喉に古の火竜が宿るようだ。
微細な気泡も美しい青い硝子の海に眠るドラゴンが、私の喉を通ることで意識の奥深くを覚醒させる。
隼太はお尋ね者にも関わらず、本家でそんな私を睥睨すると、本題を切り出した。
元よりこの男に私への敬意など望むべくもないし、不要である。
「隠れ山に人を住まわせ……、いや、匿って欲しい」
「その件であるならば既にお断りした筈です。戦火を嘲笑いながら利を得て暮らす悪趣味は持ちません」
今日も隼太は紫陽花色のコートだ。
暑い顔一つ見せない。――――本当に大事なコートなのだ。
幼き日に受けた父からの守護が、心の根まで沁みついているのだろう。
人は人らしさに心を動かされる。
隼太の人らしさを見た私の心が、やや柔軟になった。
「どういうことなのか、詳しく話してください」
隼太もまた泡盛を呷り、硝子コップを卓にことりと置いた。
「俺を恃みに生活してきた奴らが、各国の軍事機関、諜報機関から狙われている。些少なりとコトノハが使えるからな。捕捉された末路は研究所行きか――――あの世だ。隠れ山はふるさと同様、いざと言う時の避難所でもあるだろう。そいつらを匿うのは、音ノ瀬当主の理にも適っている筈だ」
チリーン
鳴る釣忍。
今、空を仰げば茜の空だろう。
そして茜色を徐々に暗色が後退させ、ついには闇を招くのだ。
音ノ瀬当主として、人として、健全な空を零落させそうな事態は、容認出来ない。空に闇はあって良い。自然の理だ。
けれど人の世に闇はなくて良い。それが私の理だ。
全ての闇を消失させることなど有り得ないのであれば、出来得ることをするのだ。
「人数は」
「ひとまずは十名程。徐々に増えるが」
「では当面は花屋敷を使ってください。それからあの隠れ山にはもう一つ、使われていないロッジがあるようです。規模は花屋敷と同じくらい。誰かが手入れしていたのか(この場合の誰かは音ノ瀬大海かもしくは音ノ瀬の別の関係者だろう)状態は良く、今からでも住めそうです」
このあたりの調査は年末に終えている。
「電気や水道は使えるようにしておきます。他、生活物資も手配しておきましょう。それで良いですか?」
「上々」
「軍事・犯罪に関わる行為を行っていると知れたらすぐに退去してもらいますよ」
釘を刺すと隼太が肩を竦める。
「――――それから、一族から監視の人間を派遣する」
これを言ったのは聖だった。
ずっと私の横で口を挟まずに話を聴いていたのだ。
「構わんさ」
カラン、と隼太の持つ琉球硝子の中、氷が鳴った。
隼太がこぼした笑みの音のようにも聴こえた。
この笑みは私たちをどこへ導くのだろう。
ずっと鳴りを潜めて過ごしてきた音ノ瀬一族に、緩やかな変革が訪れようとしている。




