ワルツを
由宇と奈苗の父・九倉重蔵は若くして九倉家を継いだ実力者だ。謹厳実直な人柄でも知られる。彼が子供たちにかける期待は大きく、その期待に比例した愛情を注いでいたと記憶している。その子供たちの禁忌を知れば、重蔵はどう出るだろうか。梅酒をロックで飲みながら、私は夜の縁側に座っていた。今日は夏日で暑かったので、冷房を入れて硝子戸を閉めている。その為、虫の音がやや遠い。隣には聖が座り、同じように梅酒を飲んでいる。
「聖さんは、いつから気づいていたんですか」
「だいぶ、前から。こと様には申し上げませんでしたが、僕は昔、奈苗さんに告白されたことがあります」
初耳だ。確かに言いにくいだろうと言う思いと、微かな嫉妬が湧く。
「断りました。僕にも奈苗さんにも、心には違う人が住んでいたので」
「……」
小さな仄かな想いが徐々に育ち、消せぬ熾火となるまでに、どのくらいの時間が要るだろうか。由宇と奈苗にも、私と聖にも、十分な時間があった。そもそも、幼い頃にはもう互いを好いていた。長じて本当の愛を得るに、何の不思議があるだろう。
「重蔵さんの出方次第では、私は二人を匿います」
「こと様ならそう仰ると思っていました」
「反対ですか」
「いいえ」
「私は聖さんが兄でも、きっと想いを止められなかっただろうから」
聖の横顔が笑った。
大海は磨理を捜し歩いていた。深夜だ。目覚めると磨理の姿がなかったので、心配になり、捜しに出たのだ。彼女はこの近辺の地理に詳しいのだろうか。それすら解らない。いや、〝なぜ自分が花屋敷にいないのか〟すら解らない。大海は混乱していた。家人が寝静まったらしい家からそっと抜け出した。ちくり、と胸が痛んだ理由が判然としない。自分は相当、あの家に馴染んでいたらしい。星明りの少ない夜だ。花屋敷であれば、もっと星が見えたのに。
「不用心だね。お兄さん」
大海に声を掛けたのは、セミロングの黒髪の、まだ若い女性だった。ファッション雑誌にありそうな、今時の服装をして、履いたヒールは高い。ヒールの底、アスファルトからは昼間に吸収された熱が放出されていた。熱帯夜だった。余り好ましい夜ではないと大海は感じる。目の前の女性に対しても、良い感情は抱けなかった。
「君は誰だ」
「耀。椎名の仲間と言えば解るかな?」
椎名。聴いた名前のような気がする。誰だったか。
大海は心許ない気持ちで記憶を探る。そんなことよりも。
「磨理を知らないか」
「……知らない」
「じゃあ用は無い。さよなら」
耀はカツン、と脇を通り過ぎようとした大海の前に足を出した。行く手を防ぐ格好になる。静かな住宅街だ。街灯はまばらで、景色の詳細を隠す。
「邪魔をするの?」
「するよ。私はお兄さんを迎えに来たんだ。長老たちが焦れてね。白がまだなら、あんただけでもって。ほら、こんな風に無防備で、狙われてる自覚にも乏しいからさ」
この人間は壊して良い、と大海は判断した。
「外道祭文キチガイ地獄」
「返し奉る」
発された声はほぼ同時。結果、コトノハの処方が競り負けた。大海は自らの処方を服用させられる作用に抗しなければならなかった。そこに隙が生じる。
「オン・アロリキヤ・ソワカ」
耀は賢明だった。隙につけ込むより先に自身の防御を固めた。それは大海の能力を高く見積もってのことだ。こうした手合いは勢いだけで来る相手よりやりにくい。大海は無表情の裏でそう断じる。相手が呪術で来るなら合わせないでもない。
「インダラヤ・ソワカ」
勝負事必勝の真言である。
耀は、これだ、と思った。これだから大海が欲しい。捕らえて虜にして、呪術で絡め取り傭兵に用いればどれだけの益が生じるだろう。大海の術師としての素養に着目したのは間違いではなかった。そう考えながら拳をかわし、蹴りを繰り出す。ハイヒールも耀の障害にはならない。不快指数の高い夜だ。早く始末をつけたい。
それには、大海の唱えた必勝の真言を破る必要がある。
「行者、今、搦めの綱を解き、ほとほと三途の道に、放ち道ぎり。オン・アビラウンケン・ソワカ」
緊縛を解く呪言の応用だ。これで心置きなく戦える。みぞおちに繰り出された掌底をいなし、鼻骨を狙い打つが避けられる。ハイヒールのかかとで思い切り大海の靴を踏んづけると、流石に痛かったようで間合いが取られた。
「磨理があんたを待ってる」
「磨理が? さっきは知らないって言ったのに」
「うん。ごめんね。嘘を吐いた」
「磨理に逢いたい。逢わせてくれ」
大海の澄んだ瞳を、耀が覗き込んだ。
「あんたりをん、そくめつそく、びらりやびらり、そくめつめい、ざんざんきめい、ざんきせい、ざんだりひをん、しかんしきじん、あたらうん、をんぜそ、ざんざんびらり、あうん、ぜつめい、そくぜつ、うん、ざんざんだり、ざんだりはん」
一拍手すると、大海の身体がぐらりと傾いだ。
「君には、重いんじゃないかな」
は、と耀が掛けられた声の方向を見る。
金髪に緑の目。紳士然とした立ち姿。
アーサー・スミスは金糸の束をおもむろに取り出した。




