好き嫌いでは動かない世の中
九倉由宇は人の気配を感じて身を起こした。長い濡れ羽色の髪がさらさらと背を滑る。白い夜着の上、それは黒い雨のようだった。
「奈苗?」
「そうよ、兄さん。入っても良い?」
「うん」
妹よりも繊細で病弱な由宇は、寝込むことが多い。その代償のように、術を行使する力は九倉家の内でも抜きん出ていた。外は泣き出しそうだ、と由宇は思った。障子がさらりと開き、奈苗が入って来る。いつも、この妹は由宇を気遣う眼差しを向けて来る。妹と言うよりは、まるで母のようだった。二人の母はとうに亡い。障子には薄い桃色の桜が所々、貼ってある。破れを防ぐ為ではなく、目を楽しませる目的で由宇が施した。その一枚を、奈苗が指で撫でる。
「音ノ瀬から食事会の話が来たわ」
「食事会?」
奈苗が肩を竦める。
「三席を丸く収めたいのよ。大方ね」
「ことさんらしいね」
「まあね」
「受けるの?」
「お父さんは乗り気よ。断る理由もないし。だって斥候には最適でしょう。私たちに名代になれって」
由宇の薄く開いた花色の唇から、嘆息が漏れる。
「政治は嫌いだ」
「好き嫌いで動く世の中じゃなくて残念ね」
兄の憂う瞳を、奈苗は正面から見返した。美しく、優れた力を持つ由宇は、幼い頃から奈苗の自慢だった。容姿の点では、奈苗よりも由宇に軍配が上がるくらいだ。月長石のように白い額に手を置く。
「熱、まだ少しあるわ」
「うん。食事会はいつ?」
「二週間後」
「それまでに治さないとね」
「……無理しなくて良いのよ、兄さん。私一人でも」
「伊勢殿も来るんだろう。鹿島や、菅谷も? 奈苗一人に重荷は背負わせられないよ」
降り出した。水の匂いが強くなる。由宇が咳き込んだので、奈苗は枕元にあった薬湯を椀に注ぎ、手渡した。少しずつ、由宇がそれを嚥下する。
「住吉は良いのかな」
出雲と住吉の祭祀は、国家的外交交通の安全と対外防衛を祈願する国家祭祀の場であった。双方、特別視されていたのである。
「音ノ瀬にもキャパシティーがあるでしょうよ」
「いずれどこそこから苦情は行きそうだね。ご苦労な話だ。僕たちは選ばれた栄誉ある一族と言うことか」
「言葉の割に嫌そうだわ」
「煩わしいのは嫌いだよ……。知ってるだろう」
奈苗はそんなことを言う兄をつくづくと見遣る。美しい兄。力持つ兄。世俗を厭う兄。そんな由宇だから、自分が守らなければいけないとも思う。さら、と由宇の長い髪を手で梳く。
「知ってるわ。兄さん。俗事は私が担うから」
「今でも聖さんのことが好きかい」
「……」
余計なことを言ったかと由宇は思う。奈苗は強い力の保持者に惹かれる傾向がある。音ノ瀬の副つ家の当主にして、あの容貌の相手に恋心を抱くのも無理からぬことではあった。しかし、聖の目にはことしか映っていない。不毛な恋に実を焦がす妹が哀れでもあった。
「莫迦な子だね」
奈苗の両頬を包むと、彼女の額に口づけを落とした。
今日中にまた開局するかもしれません。




