飛鳥の夢に花始末
フォーゲルフライ。
鳥のように自由な、という意味はしかし、それのみに留まらない。
人間社会の拘束から放たれる代わりに、法律による保護も奪われた状態で、労働市場に投げ出される。
空想的なロマンスからは遠い、苛酷な状況の示唆だ。
所謂、プロレタリアの境遇。
賃金労働者階級。労働者、貧者をも意味する。
「お前が保護した水木楓も、ほっときゃ物珍しいガキとして売っ払われてただろうさ。立派なプロレタリア。いや、それ以下だろうな」
「フォーゲルフライは、横暴に土地を収奪された農民の、末路です」
「だから、そういうあぶれた奴らをアジールに避難させるんだ」
アジールとは聖域、自由領域、避難所を意味する。
自由でありながら公の保護を受けないあたり、フォーゲルフライにも通じる。
統治の制約を受けないということは、その仕組みによる恩寵も得られないということだ。
「そんな場所がどこに――――」
隼太が手を伸ばすと、烏は飛び立ち、部屋の天井――――シャンデリア付近を旋回した。時々、雫型にぶら下がる硝子だかクリスタルだかを嘴で突いている。
光り物に目が無いのは本当らしい。
嘴が雫型を突く度に、きらりきらりと弾かれた陽光が応接間を乱舞した。
隼太は、やや煩わしそうな目線であるものの、ボトルからグラスにブランデーを注ぐ手は止めず、私のグラスにも断りなく継ぎ足した。
黒い羽が一枚、落ちる――――――――。
ふわ、ふわ、と緩慢に落ちる間、隼太が答えた。
「場所ならあるだろう。隠れ山と、ふるさとが」
くい、とブランデーを飲んでから、寛いだ風情で隼太が言う。
言うと同時に、グラスの縁を私に軽く突きつけるようにして。
「…………」
私もグラスを傾けた。こんな上等な洋酒は、そうそう飲めないだろう。
「あれらは音ノ瀬の管轄区域です。貴方の遊び場所ではありません」
「視野を広げろ。音ノ瀬当主。日本各地に点在する隠れ山が、既にアジール的要素を帯びた場所であることは承知しているだろう。そこに、だ」
隼太が不敵に笑った。
そうした笑い方がよく似合う顔立ちなのだ。
黒い前髪の間から垣間見える鋭い双眸の睫毛が、艶やか、且つ挑発的だ。
「コトノハを使えるプロレタリアをぶち込む。だが彼らは、我々は、労働市場に投げ出される小雀ではない。鷹や鷲、烏の如き猛禽だ。それこそが俺の言う、フォーゲルフライだ」
私は腕を組んだ。言葉は果敢だが。
「……生活手段は。収入はどうします。引き籠るばかりでは埒があきませんよ」
「それこそコトノハの出番だ。情報化社会の昨今、どこの山奥にいようと稼ぎようはある」
「ならば戦禍は必要ないでしょう。貴方の案を採用するなら、人を集め、保護し、暮らしていければそれで事足りる」
「戦禍は一部に利益をもたらす。その利益をアジールの資源に使えば良い。俺たちは対岸の火事を高みから見物する。血を流し合いながら滅びる無様を。滑稽を」
「選民思想ですか。好きませんね。姑息ですし悪趣味です」
「百のコトノハより一の爆弾が勝る。姑息だろうが、上を行くことが肝心だ」
硝子戸の近くに茶の揺り椅子がある。
年代物のようで、厳めしくも品格ある佇まいだ。
開け放たれた硝子戸から吹き込む風にも小動もしない。頑迷な老人のよう。
隼太の望みは全く理解出来ない訳ではない。
手段や思想には賛同しにくいものの、つまり彼の言うのは、弱者たる同類の受け容れだ。
場所を与え、自活する術を施す。
独立したコトノハの国。
弱者の安寧――――――――。
その時、色づいた楓の葉が風に乗り、私の眼前に流れてきた。
繊細な葉脈が透けて見える赤い、いたいけな葉。
私の意識で、それがクローズアップされた。
「――――やはり賛同出来かねます。戦禍は、新しい弱者を生む。音ノ瀬家当主として、貴方の提案に乗ることは出来ません」
「重鎮共が煩いか」
「いえ。私の一存においても、です」
部屋に満ちていた芳醇なアルコール臭が、薄れた。
私と隼太の間に流れる空気の、冷たい緊張がもたらした効果だ。
「ではやはり、俺たちでまず戦禍を繰り広げるか。余り家を傷めると、大海が口喧しいんだがな」
私はうっすら微笑んだ。
両者、既に起立している。
先に仕掛けたのは隼太だった。
「春ふかみ 枝もゆるがで 散る花は 風のとがには あらぬなるべし」
この和歌を瞬きの間に言ってしまうのが音ノ瀬のコトノハ使いだ。
隼太のコトノハと同時に、外から薔薇やら椿やらの花弁が一面を覆うように押し寄せた。
目隠し状態のまま、迫る隼太の気配を避け、私もコトノハを処方する。
「いかでかは 散らであれとも 思ふべき しばしと慕ふ 歎き知れ花」
花の煙幕とも言うべきものが消え失せる。
体術の心得がほとんどない私に、長期戦は不利だ。
あちらもそれを知っていて、とにかく接近戦に持ち込もうとする。
「傷」
「散」
「倒」
「防」
私は応接間を駆け回りながら隼太のコトノハに応じる。
先程まで座っていたソファの後ろを回り、扉近くに至る。
もう、すぐ前に隼太が立っている。
追い詰めた顔に愉悦の色は無く静かだ。
「与しろ、音ノ瀬こと。アジールの女王、いや、神になれ」
「お断りします」
「…………お前が、人間を諦めないことが不可解だ。対等であろうとする。一部では迫害さえ受けながら。屈辱ではないのか」
私は隼太の瞳を真っ向から見据えて、くすりと笑う。
「計り知れませんよ、人は。諦めるのは、ちょっと勿体無いんです」
「…………」
隼太の手が私の首に伸びる。大きな手だ。
――――小さな手だ。そうとも見えるのが不思議だった。またもや、磨理の心の残滓だろうか。
私は切り札を使うことに決めた。
独自に極めた奥義とも言える術で、人に使うのはこれが初めてだ。今日は使うことになるかもしれないと考えていた。
このコトノハがちゃんと効能を発揮しますように。
隼太の手が首を引っ掴む。
喉が圧迫されてしまう前に、私は焦りそうな神経を鎮めて、そのコトノハを処方した。
白い花びらがよぎるのが、視界の端に見える。
「さらそうじゅの はなのいろ」
「春ふかみ 枝もゆるがで 散る花は 風のとがには あらぬなるべし」
春が深まったので風もなく、枝も揺れないで散る花は、風の罪ではないだろう。
「いかでかは 散らであれとも 思ふべき しばしと慕ふ 歎き知れ花」
どうしていつまで散らずにあれと思うだろうか。しばしでも散るのを留めたいと慕う嘆きを知ってほしい、花よ。
二首とも西行法師『山家集』より。一首めは九藤の覚束ない現代語訳。




