紫色の扇風機
日頃は静かな公園が、繁華で猥雑な空気に満ちて、そこは非日常な空間と化していた。
時間の経過と共に人の熱気も陽の熱気もぐんぐんと上昇している。
近所の公園で開催されている蚤の市で出逢った扇風機は、古いが美しい紫色の羽を持っていた。私は一目で魅了された。
買えない金額でもない。それに。
「お気に召したのがありましたか?ことさん」
にこにこ顔で訊いて来る俊介を見た。
運搬係もいる。
小うるさいのがついて来たなあと思っていたが、これは丁度良い。
しかしこいつ、ちゃんと仕事をしているんだろうか。他人事ながら心配になってしまう。
俊介が仕事でへまをして探偵事務所を畳むことになれば、彼は実家に帰るであろう。それは即ち、私の元に山海の美味と美酒が届かなくなることを意味する。
「それは困る」
「え?」
「いえ、何も。山田さんは腕っぷしが強そうだと思いまして」
「荷物運びでも何でもしますよ!」
「それはどうも」
よし。言質を取った。
「親父さん。その扇風機、少し負けてもらえませんか」
価格交渉に移る。
「ははは、音ノ瀬の御当主、こいつあこれで、十二分にお値打ち品だよ。まだまだ使えるしねえ」
茶渋を顔面に塗りたくったような、五十がらみの男とは顔馴染みだ。私の稼業も知っている。私はその髭と皴の軒先から見える金歯と銀歯の数をひい、ふう、みい、と数えてしまった。
明眸皓歯とは無縁の、妖怪みたいな店主だ。
「保証書もついていないでしょうに」
「おおやおうや、ここは蚤の市だぜい?」
妖怪の眼球がぐるーりと器用に一回転する。
百も承知だ。
そして物の売り買いにおいてコトノハを処方することは、余程の危急の事態でない限りは禁忌とされているので、一服盛りたい気持ちを私はぐっと堪える。
初夏の風が公園の夾竹桃や桜の樹々をざわめかす。
ピンクの花が可愛い夾竹桃には毒がある。生身の人の心根と同じくして。
俊介が飼い主を心配する犬のような目で私を見るのを感じた。
私の心根が少しばかり優しくなった。
「気が進みません」
私はスワトウ刺繍が施された白いシャツの立て襟を緩めて、紫の羽から生じる弱風を楽しみながらも俊介に言った。扇風機を家まで運んでくれたお礼に梅肉と鳥ミンチチャーハンを昼食に作って供してやった。大きな中華鍋一杯に作ったチャーハンを俊介は喰い尽くした。どんな胃袋をしている。
それから切り出されたのは「さる政治家」からの依頼だった。どうやら俊介と私の繋がり(これは実に不本意な表現だが)を嗅ぎつけて、彼の探偵事務所に持ち込まれたらしい。
「政界とはなるべく距離を置くようにしているのです」
「どうしてですか?」
俊介は咎めるでもなく、純粋な疑問顔で問うた。
「ことさんのお家はその昔は神祇官にあったのですよね?」
「その通りですがなぜ山田さんがご存じなんです」
「先日、ことさん御自身からお伺いしたので……」
「……素面の時?」
「いえ、酒を飲まれてました」
「そうでしたか。思い出しました」
嘘である。悪い酒だ。
古代、政治を司る太政官と対を成して設置された祭祀を司る官庁を、神祇官と言った。明治期にも置かれた官庁だがそれはまた別の話だ。
「訊かないほうがよろしければお訊きしません」
俊介の明確なコトノハが私の耳を打った。私は黙って彼の顔を検分するごとくに見つめた。
コトノハの処方法を学ばなくてもコトノハは使える。
心の中枢、魂の芯から発生した音には力が宿るのだ。それは人や事物に確かに届いて染み渡り揺り動かす。
時に何よりの良薬になり、時に死に至らしめる程の毒薬となる。
恐ろしい男だな、と私は思った。
俊介のコトノハを私は服用させられたのだ。
「音ノ瀬家の使う力は諸刃の剣なのです」
私はゆっくりと語り出した。
チリーンと、釣忍が揺れる。
「一歩、誤れば自らをも滅ぼす。力に酔いしれた一人の男が近代にも現れました。彼は非常に優秀で、情熱的でした。狂気を秘めた情熱でした。彼は近親者の制止も聞かず、軍部に進んで身を投じたそうです。……その後の彼の消息は不明です。身を案じた音ノ瀬の人間が総出で行方を捜索し続けて十年以上が経過した頃、太平洋戦争が起きました。そこに確実な因果関係を唱えることは誰にも出来ません。しかし私の祖父母たちが、政治・軍事に関わるなかれ、と強く子供らに戒めるようになる程度には、衝撃と重みのある一大事だったのです」
私は何も見たくなかった。話を聴く俊介の表情も、他の一切も。
ただ扇風機の紫の羽の美しさだけが目に入るようにしていた。
哀れな咎人である大伯父のことなど考えたくもなかった。




