法螺吹き
そして応接間には、お茶を淹れ直す私だけが残った。
楓を聖たちに託し、私はほんの少し前まで〝我が家〟と思い込んでいた住居の中心にいる。
優しいモーツァルトの子守唄は終わった。
無音の中、それ自体が生きた植物であるかのような、色鮮やかな美しいティーポットに沈む茶葉を蒸らす。
隼太はルイボス系を避けろと言ったが、私は敢えて、磨理が好きだったルイボスティーを淹れた。
強いカフェインも酒も、精神を興奮、高揚させる。
ともすれば好戦的になってしまうそれらを摂取しながら、語り合うことは避けたい。
私が望むのは対話であるからだ。
尖鋭なコトノハの応酬ではない。
硝子張りの向こうの空を仰ぐ。
嘗てこの青空が、赤く焼けた時代があった――――――――。
扉が開き、隼太が室内に戻った。
「大海さんは?」
「寝た。ガキみたいな顔で。……ルイボスは避けろと言ったが?」
漂う紅茶の甘い香りに、隼太が目を眇める。
「私が受けた饗応のお返しと思い、ここは譲ってください。どうぞ」
正面のソファーに座った隼太の前に、ティーカップを出す。
ふわふわと白い湯気を上げるそれを、隼太は数秒見て、手に取った。
「お前が俺から引き出したいコトノハは何だ?」
「まずは音ノ瀬隼人――――貴方の、おじい様のお話を」
「本家にとっては謀反人だな? 放逐した奴の、何を今更知る必要がある」
「それは違います。音ノ瀬本家は、隼人さんを、同族を心配していただけです。……音ノ瀬を飛び出して行かれたのは、貴方のおじい様のほうです」
隼太が紅茶を三口くらい、飲む。こく、こく、こく、と動く喉仏。
私も自分の紅茶を飲んだ。
胃袋に落ちる温もりを、分かち合うのは大切だ。
あちらにもこちらにも、同じ温もりが流れ込んだ、と確認し合う。
がちゃ、と隼太がティーカップとソーサーを置き、脚を組んだ。
顎を聳やかし、私を見下ろす。
「お前、自分の祖父の生まれ年は知っているか?」
不意の質問に、私はやや、面喰いながらも答える。
「いえ。大正の何年であった、くらいにしか……。正確な年齢も、知りませんでしたし」
「だろうな。孫にとって祖父母は、そんなもんだ。俺も、隼人の生年月日など知らん」
「――――……太平洋戦争開戦の、1941年より十年以上前に、音ノ瀬を出奔したと聴いています」
「らしいな。丁度、日本が山東出兵を行い、中国政策が強圧の一途を辿っていた頃だ。世界恐慌にプロレタリア文学、現代以上に迷妄の時勢だった。迷妄に、じいさんも我ぞ、と突っ込んだんだろう」
そういう、時期がある。
昭和二(1927)年、スイス・ジュネーヴで開かれた海軍軍縮会議には日・英・米、三カ国も参加したが、交渉はまとまらず、翌年にはパリの不戦条約にも日本は調印こそしたものの、更に翌年の批准に際しては、天皇主権の日本には適用にあたらない、と宣言した。
暗く長い下り坂を、一直線に転がり落ちる。
そういう、時期がある。
恐ろしきは、それに人々が気づかぬことだ。
現状が続けばいずれ、ぬるま湯の中の蛙になると、警鐘を鳴らす人の声が聴こえないのだ。
或いは耳を塞ぎ、今を安穏であると信じたい人情がそうさせるのかもしれない。
私はティーカップに収まる赤い液体を眺めた。
「隼人さんは軍部に、取り立てられたのですか?」
「諜報機関には、音ノ瀬の名前も知れていたらしい。隼人は過激派のお偉いさんたちに、諸手を挙げて迎え入れられたそうだ。それは大層な厚遇でな。遡れば天皇の為に働く神祇官に在った家の人間が、お国の為に戻って来た、と。英雄扱いだ」
隼太の目が、私を挑発するように窺う。
軽く吊り上げられた唇。
「…………」
「世界大恐慌の始まった1929年、陸軍造兵廠火工廠忠海製造所が設けられた島がある。隼人はそこにいたと語った」
「…………」
「南京事件の起こった昭和十二(1937)年にも、隼人は南京市街にいたと語った」
「…………」
「何が言いたいか解るか?」
「…………」
「解るな?」
「――――そこまで実働的に、彼は戦禍の中を動いていたのですか」
隼太が声を上げて嘲笑した。
「御当主様らしい、お綺麗な言い方だ。隼人は、それは自慢そうに俺に英雄譚を語って聴かせた。――――――――解るか、音ノ瀬こと」
最後の低い呼びかけで、私ははっとして隼太を見た。
その面には、苦悩と憎しみがあった。
「解るか? まだろくに物を知らないガキが、延々とコトノハで虐殺の仔細やらを語られるとは、どういうことか」
コトノハによる語りは、聴き手に強いイメージを喚起させる。
つまり、隼太は、幼少から繰り返し、戦争を〝体感〟させられていたのだ。
――――発狂しなかったのは奇跡だ。
「だがな、この話にはとびっきりの落ちがある」
隼太はこの段になるともう、笑い転げそうな様子だった。
自分でも喋りが止められないようだ。
「嘘だったのさ」
く、く、く、と隼太が笑う。
「え?」
「隼人が俺に聴かせたのは、自分の体験じゃない、人からの伝聞だ。それを、さも自分の手柄のように語って聴かせたんだ。あの、惨めなじいさんはな」
「……意味が解りません。なぜ、そんな?」
「つまりだ。初めは異能力を持つ隼人を歓迎した奴らが、次第にコトノハの力を目の当りにするにつけ、怖くなったのさ。利用しようとした男が、とんだ化け物に見えてきた。それで軍部は、隼人を敬して遠ざける―――――――閑職に就け、飼い殺しにしたんだ」
次々に繰り広げられる隼太の語りに、私は絶句した。
「音ノ瀬隼人は戦争の火種にさえなれなかった、哀れな只の大法螺吹きだ!!」
隼太の咆哮したコトノハが、びりびりとして私を襲った。
私が甘かった。
隼太の抱える傷は、ルイボスティーでは到底、手に負えるものではなかった。




